第13話・舒明天皇が薨去して時代が一気に動く
僕が葛城皇子と会ってから間もない十月、天皇が薨去した。風邪からの肺炎が急に悪化したのだという。いよいよだ。窪田先生が言っていた「舒明天皇が死んだら一気に時代が動く」時が来るのだ。
僕は舒明天皇が死んだのが何年かは知らない。大化の改新が六百四十五年だということだけは知っているが、西暦など、この時代に何の役に立つのだ? ハハハ……。
数日後、豊浦にある大臣の屋敷で、葬礼についての諸々と皇位継承者を決める群卿会議が開かれ、僕も一応出かけて行った。
上座に座り議長役を務めるのは蘇我大臣毛人。その下に阿倍臣倉梯麻呂、向かい側には入鹿が座っている。以下、有力豪族が左右に分かれて座っていた。
「亡き天皇の大兄皇子、古人皇子が適任かと思いまする」
そう言い出したのは、蘇我宗家に気を使った阿倍臣だ。
「はて、亡き天皇の皇子といっても、古人大兄皇子、中大兄皇子、共に十分な年齢になっておられない。ここは年長の上宮大兄山背皇子に立っていただくことがよろしいと思いますがな」
意を唱えたのは
これまでの歴史上、最も若年で即位した天皇、欽明天皇が即位したのは三十一歳。その年齢が基準となっているらしい。対して古人大兄はまだ二十代半ばだ。
「私も山背大兄に賛成ですな。他に誰がおろう」
厩戸皇子贔屓の豪族が口々に賛同し始めた。
「しかし、それだと京を斑鳩に移さねばならぬ」
「それはこちらの宮に住んでもらえば何も問題はなかろう」
「うむ、山背大兄でよいのではないか」
僕は、皆の言うことを黙って聞いていた。
「確かに山背大兄は立派な方。だが、一度は候補から外れた方……」
議長役の毛人は言葉を濁した。
結局この日は、葬礼の日程や担当者を決めるだけに留まり、次の天皇の決定には至らず、散会となった。
会議が開かれたことを聞きつけた軽皇子は、早速その夕方、僕を宮へ呼んだ。
僕が皇子の部屋へ入ると、皇子は待ちきれない子供のように腰を浮かして迎えた。
「で、どうだった、会議は」
落ち着かない様子の皇子をよそに、僕はわざとゆったりとした動作で座り、居住まいを正した。
「結論から申しますと」
もったいぶってひと呼吸置いた僕の次の言葉を、皇子は身を乗り出して待っている。
「今日の会議では決まりませんでした」
「あん? 」
「大臣は、血縁の古人大兄を天皇にしたいようでしたが、ところがまずは年長の山背大兄にと言う者たちと意見が分かれまして」
「我は、我の名は出なかったか」
「やはり、山背大兄が健在である間は、先に山背大兄だという意見が根強く」
「山背大兄はもう隠居したも同然ではないか。何を今さら」
「そこは、聖人と謳われた上宮様の大兄皇子にございます。上宮様の時代を知っている年長者には、今でも山背大兄の即位を願っている者が多くいるようです。ですが、もし山背大兄が天皇になるようなことがあれば、殿下が天皇になるのが困難になります」
「そんなことはわかっている。だから、どうしたらよいのじゃ」
「殿下の岳父、阿倍臣に連絡を取ってくださいますか。それから殿下の姉君、皇后にも」
「何をするのだ」
「皇后には、もし山背大兄や古人大兄が天皇の位につかれたのなら、葛城皇子に順番が回ってくるのは難しくなりましょうと。それともうひとつ、古人大兄が位につかれると、大兄のお母上が天皇の母君、
「うむ、それで」
「そのことを皇后にお伝えになって、皇后に天皇となっていただくようお願いするのです」
「なんと、姉上が天皇とな」
「過去にも皇后が立ったことはあります。ご存じのはず。なんとか皇后を説得してください。そうすれば、殿下は天皇の弟君となります。天皇の位に最も近い皇子となり、山背大兄など敵ではなくなります。そして皇后には、二、三年後にでも、頃合いを見て譲位していただくのです。葛城皇子が適齢になるまで殿下が時間稼ぎをする、他の皇子を阻止するためにはこの方法が一番良い、と提案するのです」
「ふうむ、なるほど。確かにまあ、姉上なら話も通じやすい」
「それで数年後には殿下は問題なく天皇になれるはずですが、阿倍臣に協力してもらうことが必要です。阿倍臣だって、娘が嫁いでいる皇子が天皇の弟となったほうが都合がよろしかろうと」
「なるほどな。しかし、たとえ姉上が天皇となったとしても、大臣は血縁の古人大兄を皇太子にするのじゃろう」
「私に考えがあります。それに関してはいずれ」
僕は、そう言ってニヤリとして見せた。
「ふむ、何だか知らんが、任せた。楽しみにしているぞ」
僕を信頼しきっている軽皇子は、子供のように笑った。
やはり僕は、いつか兄貴が言ったように参謀役が向いているのかもしれない。
それから数日後、大臣の屋敷で再び会議が開かれた。前回と同じメンバーだ。
大臣毛人が最初に言った。
「空位が長く続くことは好ましくない。早急に次の天皇を決めたいが、亡き天皇の皇子、古人大兄皇子、葛城皇子、共にまだ年が若すぎる。そこで、皇子たちが成長するまでの間、皇后に立っていただこうと思うのだが、皆はどうだろう」
よし。軽皇子と通じている阿倍臣の提案「皇后を中継ぎに立てる」を、毛人が受け入れたようだ。
「ほお、皇后とは」
「確かに小治田天皇(推古天皇)という前例もある」
「しかし、その小治田天皇は、そうしている間に太子が先に薨じたではないか」
「それをふまえて、最初から期限を決めてしまえばよいのだ。例えば五年。五年後には譲位する、と」
「五年後……」
五年たっても葛城皇子は二十一か二歳、かたや古人大兄は三十歳を越え、ちょうど良い年齢になる。明らかに蘇我氏の血縁の古人大兄を立てようとしている意図が見え見えだ。それを皆が警戒している。
「そのようなことをするよりも、やはり山背大兄に立っていただくことがよいと思いますがな」
山背大兄贔屓の豪族が言った。
「確かに、山背大兄は立派な方。だが、少々お歳を召し過ぎているのでは」
毛人が穏やかにそう言った。
「ならば山背大兄の御子でも良いではないだろうか。確か古人大兄より幾分年長だったと」
「それが問題なのです」
突然、入鹿が大きな声で言った。
「今、山背大兄が立つと、上宮王家には山背大兄の弟君も御子もおられる。そうなると、次の代には田村皇子系の王家と上宮王家、二つの王家ができてしまうのです。二つの王家が存在するのは世が乱れる因となりましょう。父と私はそれを案じているのです」
入鹿の正論は、群卿全員を黙り込ませた。
「ううむ、まあ、確かに、そういうことがあるかもしれぬような」
それまで山背大兄を支持していた者も、もう反論することはなかった。
さすが、頭脳も度胸も父親を超えると噂されてる入鹿である。今回は僕と利害が一致したからよかったけど、敵に回したら相当嫌な相手だ。本当に僕はこいつに対してクーデター起こすのだろうか。信じ難い。
年が明けると、皇后であった
宝皇女の即位を、皇女本人も大臣も、その他の豪族も諸手を挙げて歓迎しているわけではない。
「本当に、彼女でいいのか」
「仕方あるまい。他にいないのだ」
「誰がなっても変わらんだろうよ」
「どうせ次までの中継ぎ、五年間、何もしないで座っていてくれればそれでいい」
皆が陰で言い合っているのを僕も聞いた。
「うまくいったな」
晴れて天皇の弟という身分となった軽皇子は浮かれていた。
「姉上は、もう政は疲れた、後はのんびり過ごしたいと言うから、我は言ったのじゃ。それでよろしいのですか、葛城皇子を天皇にするのは諦めるのですか、と」
「古人大兄がまだ若すぎるから、上宮家の山背大兄にという話になっているのを伝えたら、姉上は仰天しておられた。これだから、姉上は世間知らずと言われるのじゃ」
どの口が言いますか。
「だから言ったのじゃ。もし山背大兄が天皇になったら、政の中心は斑鳩に移って、葛城皇子に順番が回ってくるのは難しくなるでしょう。姉上は今の暮らしが続けられると思っておられるかもしれないが、いずれ我らも古い皇族として打ち捨てられますよ、と」
「そう言ったら、姉上の顔からみるみる血の気が引いて、面白かったぞ。そこでさらに言ったのじゃ。我としては何の関係のない山背大兄よりは古人大兄のほうがまだ良いけれど、古人大兄が立ったら、皇子の母、蘇我法提郎女(そがのほていのいらつめ)が皇祖母命となられる。我らの母上と同じ地位ですね。それだけが癪に障る、と。そうしたら、どういうことだと眉を吊り上げた」
「そこで、我なら山背大兄も古人大兄も天皇にしない妙計がある、と言ったら飛びついてきた」
そう言って膝を叩いて笑った。
軽皇子もなかなかやるな。
「で、次は何をやるのじゃ」
皇子はご機嫌だ。
「早いところ、姉上に譲位してもらおうぞ」
「まだ機が熟しておりません。今そのような動きをしたら、逆に大臣にこちらが滅ぼされてしまいます」
「ならどうするのじゃ。このままいったら五年後には古人大兄が天皇になってしまうぞ。そうだ、いっそ古人大兄を殺してしまうのはどうだ」
この皇子は軽率すぎる。やはり僕の計画を全て打ち明けるべきではない、ひとつひとつ進めていこう。
「今、古人大兄がいなくなっても、まだ山背大兄がおられます」
「山背大兄はもうないだろう。そのために姉上が天皇になったんじゃないのか」
「ええ、今回は山背大兄はなくなりました。でもまだ脅威は残っています。もし古人大兄が天皇になる前に何かあったら、大臣は、軽皇子よりも、血縁関係にある山背皇子を選ぶでしょう。ですから、今、古人大兄を滅ぼすのは得策ではないのです」
「ならば、山背大兄を先にやっつけよう」
「え」
僕は驚いた。
「山背大兄を滅ぼせばいいのだ。何か方法はないか、鎌子」
軽皇子はさらっと言った。
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