第37話・妻と妾と跡取りと

 僕は、どうしたらよかったのだろう? 

 有間皇子が死んだ後、僕はしばらく抜け殻のようになった。

「隠居して政治から離れ、のんびりと余生を過ごそうかな」

 でもきっと葛城皇子は僕の引退を許してくれないだろう。

「は? 何をおっしゃっているのです、殿」

 鏡王女が言った。

「跡取りがいない状態で隠居なんて、ありえません。定恵様の帰国もいつになるかわからないのに」

「はい」

「第一、殿が内臣でなくなったら、子等はどうなると思います? 子等は、殿が内臣だから良家の妻になれるのです。わかっておられます? 年若いうちに男親を亡くして困っている人が、世の中に大勢いますのよ」

「はい」

「先帝から行く末を託されていた有間皇子が亡くなっておつらいのはわかります。ですが、ご自分の子のこともお考えになってください。せめて跡取りを決め、子が全員成人するまで隠居は待ってください」

「はい」

 そういえば、鏡王女は男親を亡くしてから苦労していたんだった。はい。申し訳ありません、僕が浅はかでした。

 こんな感じで、僕は十五歳も年下の妻に尻に敷かれている。しっかり者の年下女性にリードされる星の下に生まれたのだ、きっと。



 仕方がないからしばらく仕事に打ち込んでいたある日、葛城皇子に唐突に訊かれた。

「そなたの息子はいつ唐から帰ってくる? 」

「定恵でしょうか。まだ全くわかりません。来年か、十年二十年先か」

 なんだかまた嫌な予感。

「跡取りはどうするのだ」

「ええ、まあ、定恵の帰国を待つか、いずれ考えようと思っております」

「いずれ? 内臣ともあろう者が、いずれ、などど言っていてどうする」

 ものすごく嫌な予感。

「我の采女を授けよう」

「はあ? 」

 どうしたらそういう話になるのか? 

「実はな、采女に子ができた」

「はああ? 」

 どうしてこの人は昔からすぐ采女に手を出してしまうのだ? そういう人だから、采女に迫られるのかもしれないが。

「もし男子が生まれたらそれはそれで面倒になる」

「そうかもしれませんね。既に大友皇子をお心に決めておられるようですから」

「そうだ。だから、そなたにやる。妾にせよ」

 ああ、まじですか、また押し付けられるんですか。さすがにこの歳で二十歳やそこらの若い娘の相手はできませんよ。

「もし、男子が生まれたらそなたの跡取りにせよ」

 ちょっと待て。それって、葛城皇子の子でしょ? 僕の跡取りじゃないでしょうが。ああ、もう。


「あいかわらずの方ですね、皇太子は」

 鏡王女は呆れ顔で言った。

「すまぬ」

 断らなかったことに対して謝った。

「殿のせいではありませんよ。まだ男子が生まれると決まったわけではありませんし」

「そうだな。まあ、なるようになれか」

「ふふ」

「なんだ」

「珍しいですね。そのようなおっしゃりかた」

「あ? いや、僕は元々こんな人間なのだ」

 そうだ、若い頃は友とこんな感じで笑い合っていた。いつの間に忘れてしまったのだろう。

「それにしてもどうして正妃を娶らず、采女ばかりに手を出すんだ」

「貴方様は、皇太子とまるで正反対なのですね、女性に関しては」

 ギクリ。

「え? そうかな」

「皇太子の宮では、皇太子の御手が付いていない采女はいないと言われてましたもの。その点、貴方様ときたら、トヨ様以外の妾をお持ちになりませんでしょ。最初は、トヨ様のことを一途に愛しておられるのかと思いましたけれど、失礼ながら、そういう訳でもなさそうですし。きっと、女性そのものに執着しないのですね」

 もしかして責められてる? 

「すまぬ」

 二度目。

「何を謝るのです。政治や学問のほうが楽しいのでしょう。よろしいではありませんか。女性しか楽しみがない人生は寂しいですわ」

 答えに困るが。

「あ、ありがとう。こんな人間だけど、これからもよろしくお願いします。不満があったら遠慮なく言ってくれ」

 僕は小さくなって頭を下げた。

 鏡王女はクスッと笑った。

「それにしても、貴方様は」

「皇太子のおっしゃることは拒まないのですね。まるで何か弱みでも握られているみたいですわ」

 弱みを握られているのではない。握られてるのは……、いや、なんでもない、冗談です。

「誰だって皇太子の命令には逆らえないだろ」

 そうだ、僕はいつでも葛城皇子に振り回される。それでも僕は、どこかで皇子に期待している。何を期待しているのだろう。僕の気持ちをわかってくれる日をか? 僕の気持ちとはいったい何だ? 僕は一体、葛城皇子にどうしてもらいたいのか? 



 それから間もなく、葛城皇子から賜った采女、与志古娘よしこのいらつめが我が家に来た。本宅の離れに住んでもらう。

「本来なら別宅を作りたいところだが」

 と僕は鏡王女に言った。

「私は構いませんわ。身重の彼女をお待たせするわけにはいきませんもの」

 今となってみると、鏡王女が本妻としていてくれるのは大変助かる。葛城皇子からどんな采女を押し付けられても、皇族の血を引く鏡王女のほうが絶対上位にあるからだ。もし、本妻が采女より身分の低い女性だったら、采女の扱いに困るところだった。


 与志古が屋敷に到着すると、僕と鏡王女が並んで座る部屋に来て挨拶する。

「このご縁を末長くよろしくお願い申し上げます」

 夜になると、与志古のいる離れに膳が運ばれ、僕は一緒に食べ、食事の後そのまま一緒に床に着く行事。

「あの、その前にお話したいことがありまして」

「なにかね」

「私は、ここにいてよろしいのでしょうか」

「というと」

「ご存じのように、私は皇太子の子をここに、今でも皇太子をお慕いしております。私は貴方様を迎え入れることは叶わぬかと……。それでも」

 ああ、彼女は今も葛城皇子を愛しているのか。そんなことを考えたことはなかった。

 葛城皇子は相変わらずシュッとしたスマートなイケメンで、三十代になって大人のダンディさも備わってきたナイスガイだ。性格さえ知らなければ、若い彼女の目には魅力的な男性に映るかもしれない。言い寄られて熱を上げるのもわからなくはない。

「ああ、かまわぬ。承知の上で貴女を妾にするのだから、気兼ねは要らぬ。生まれる子も、私の子として大事に育てる。貴女の皇太子への気持ちが消えるまで、私は気長に待つとしよう」

 どうだ。大人の男の寛容さを見せられたか。

「お気遣い、感謝いたします」

 彼女は目を潤ませた。それが、僕への感謝なのか、葛城皇子への追慕の涙なのか、わからないけど。

「まあ、とにかくせっかくの夜だ。美味しく食べよう。明日はこの辺りを案内させよう」

 元々、身重の身体に差し障りがあったらいけないと理由をつけて夜を過ごさず自室に帰るつもりだった。彼女から言い出されて、助かったのはこっちだ。


 食事が終わり、与志古をひとり残して部屋を出た僕は、鏡王女の部屋へ向かった。

「あらまあ、どうして」

 彼女は、読みかけの本を置いた。

「……というわけだ」

 僕は彼女に言われたことを伝えた。

「そうでしたか」

「僕の妾になったからと言って、はい、これからは僕を愛します、という訳にはいかないものな……」

 僕は「貴女もそうだったのか」という言葉を飲み込んだ。自分をこれ以上惨めにさせるのはやめよう。

「そうですね」

 彼女はさらりと言った。

「私も初めはそうでしたわ。ただ彼女と違うのは、私はこちらへ来る前に皇太子から心が離れていたという点かしら。私を貴方様に譲ると言い出した時、そのようなことをする人なのだと見限りましたから」

「そう……だったのか」

「そりゃ、急に貴方様を好きになれるかというとそうではありませんけれど。でも、一緒に時を過ごしていくうちにお人柄を知り、今では私の大切な夫ですわ」

 ふわぁ。

 僕は思わず鏡王女をハグした。

「貴女を妻にして本当によかった」

 ああ、もし僕が二十一世紀に戻れたら、鏡王女はすごいいい人だってみんなに話そう。


 与志古はなかなかこの家に馴染まなかった。というか、馴染むつもりがないように見えた。自分が連れてきた小間使い以外とは、親しく話さなかった。たまに僕が部屋を訪ねて一緒に食事をしても、打ち解けて話す様子はなかった。いつか葛城皇子の宮に戻れると思っているのだろうか。


 そんなある日、鏡王女が友人の歌会に出かけた。彼女は年に数回、皇族の知人たちとの

歌会に参加している。そのまま実家に泊まり、翌日、帰宅した彼女は言った。

「また皇太子がやらかしてるそうですよ」

「やらかしてる、とは」

「妹が、大海人皇子から皇太子に譲られた、と」

「ん? 意味がわからないが? 貴女の妹って大海人皇子と結婚してるだろう? 」

「ええ、子も産んでおりますよ。それが、大海人皇子が皇太子から、額田王を妻にしたいから譲ってくれ、と言われたとかで」

「ふええ? 冗談だろう」

「いいえ、大いに本気です。皇太子の皇女、大田皇女を大海人皇子の妃として与える引き換えに、額田王をよこせと。私の時と同じ、相変わらず皇太子は女性を物のように扱うのですわ」

「そんなこと、大海人皇子が承知するわけないだろうに」

「承知なされました。だってお分かりになりますでしょう。断ったら何が起きるかわかりませんもの」

「……」

 僕は開いた口が塞がらなかった。

「ですから、昨日の歌会は、皇太子の悪口大会でしたわ、ホホホ」

 ……社交界、怖い。



 それから数ヶ月後、与志古が子を産んだ。女子であるよう願った僕の思いは叶えられず、元気な男子が生まれ、与志古は出産後に死んだ。

 とうとう彼女は僕に抱かれることなく、葛城皇子の思い出の中で死んでいったのだ。彼女にとってはそれで幸せだったのかもしれないとも思う。


「約束では、生まれた子が男子なら僕の跡取りにすることになっているが、皇太子の気が変わることもあるから一応確認しておいたほうがいいだろうな」

 僕は妾の与志古娘の埋葬を済ませ落ち着いた頃、葛城皇子に報告しに行った。

「男子が生まれました」

「ほお、それはめでたい」

「本当にめでたいと思っておられます? 」

「女子ならいずれそなたの妻にと思っていたのだが、いや、残念だ」

「で、私の跡取りにする約束ですが」

「うむ、そうだった。そなたの跡取りにして、学者の家で育てさせよ」

「……ふぁい? 」

「学者の家で教育させ、成人したら唐の国に渡り学ぶ。帰国後は国博士として我に仕えさせよう」

 ええと? 僕の跡取りなんだよね? 

「そして、そなたが内臣、その子が国博士として我に付いていれば怖いものなど何もない」

 ちょっと、何、勝手に将来を決めちゃってるの? 

「いえ、しかし、まだ生まれたばかりで」

「養育先はもう決まっている。田辺史氏だ。優秀な人材が揃っており、学ぶには良い環境だぞ」

 いや、あの、僕の子なんだけど……。


「というわけで」

 家に帰って鏡王女に話した。

「はぁ……」

 思いっきり頭を抱えられた。

「言いたいことはたくさんありますけど、それは殿にではなく皇太子に対してなので、今は何も言わないでおきますわ」

 また、歌会で話の種にされるんだろうな……。

「で、この子は戸籍には殿の子とされるのですよね? 」

「うむ、それは確認した」

「名をどうしましょう」

「貴女が名付けてみなさい」

「長男がマヒトでしたので……、フヒト。ではいかがでしょうか」

「フヒト……か」

 フヒト。そうか、この子が将来、藤原不比等となるのか。ならば葛城皇子に殺されはしない。生き延びて藤原氏を繁栄させていくはずだ。


 ……って、今ものすごい重要なこと、言ったよね。「藤原氏の祖となる藤原不比等は天智天皇の落胤」っことだよね? どうすんの、これ? 二十一世紀に伝えたい。どこかに落書きで残すか? 寺院の天井裏の板とか、その前に寺院建てろよって、いや、僕は神祇祭祀を司る中臣家だから寺院は建てられない。もし見つかったらフヒトの命が狙われるから今後千年以上は見つからない場所。東大寺の正倉院にこっそり僕の手記を、いやまだ東大寺はできていない、法隆寺の地下にでも埋めるか。子供の頃、どっかの古墳からなんか出てきたニュースがあった気がする。その古墳に入れとけば将来発見される、けど何の古墳か覚えていない、ああ。

 ……やめよう、そんなこと。フヒトは僕の子、藤原不比等でいいじゃないか。

「うむ。良い名だ。フヒトにしよう」

 そうしてフヒトは、学者の田辺史氏に養育されることになった。


 いろいろあったけれど、とりあえず今、葛城皇子は皇太子として思い通りに国を動かしている。大友皇子を後嗣とする障壁が減り、皇子に敵はいない。さすがに母親と実の弟を殺すことはあるまい。今度こそ、しばらくの間は不穏なことは起こらないだろう。今度こそ。(フラグ)

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