第36話・草枕

 葛城皇子が天皇の影で政治を動かして数年が経った。建設中の宮が放火されたり、石垣の工人が反抗して大量脱走したこともあったが、大きな事件もなくそこそこ平和だった。


 そんなある日、葛城皇子の息子、建皇子が夭逝した。まだ十歳にもなっていなかった。宝皇女は、母親の顔も知らず口がきけないこの孫息子を不憫に思い大層かわいがっていたので、嘆き悲しんだ。

 しかし、長男の大友皇子を一番に思っている葛城皇子にとっては好都合だったと思う。


 建皇子が死んでまだ間もないうちに、葛城皇子は僕に言った。

「そなたは有間皇子と最近会っておるか? 」

「有間皇子ですか? いえ、最近はお会いしておりません」

 昨年末にもお歳暮のようなものを届けに行って、居留守を使われた。

「気狂いのようだとか、なんとか、皆が言っておる」

「ええ、噂は聞きました。昨年、お母上が逝去なされてその後からだとか。それ以来お会いしていないのでどれほどの具合なのかわかりませんが」

「気狂いのふりなのか、本物か、確かめてくれぬか? 」

「どうやら私は有間皇子に嫌われております。昨年末ご挨拶に伺っても会ってもらえませんでした」

「ほお。そなたが。てっきり、親しくしているのかと思った」

「ええ、私は親しくしたいのですが、ね」

「ふうん……。ところで、そなたの娘、まだ結婚していないな? 我にくれぬか」

「お断りします。私はまだ死にたくありません」

 僕はこれまで葛城皇子に娘を嫁がせる話をしたことがなかった。この先もないだろう。葛城皇子が外戚を滅ぼすのはわかっているからだ。皇子もそれは承知している。

「ははは、警戒しておるのか」

 皇子は笑った。

「いや、我の妻ではない、息子のことだ」

「というと、大友皇子」

「うむ」

「しかし、そうなると私は大友皇子の岳父となり、権勢を振るうようになるかもしれませんよ」

「そなたなら構わぬ。それよりも、大友皇子の後見が欲しいのだ。そなたも存じているように、皇子の母は身分が低く母方の力はあてにできない。皆を納得させられるほどの人物を後見につけなければ、我の後継とするのは難しいのだ」

 後見人は重要である。 葛城皇子の父親である田村皇子も、蘇我大臣の娘を妻にして大臣の後見を受けたことで、他の皇子たちを差し置いて天皇になれた。

「大友皇子が成人したら迎えたいから、承知しておいてくれ」

 今、葛城皇子は、僕にかつての蘇我氏のように外戚として権力を持たせる危険を顧みずに、僕の娘を長男の大友皇子の妻にしたいと言う。それほどまでに大友皇子が可愛いのだ。

「わかりました。力の限り大友皇子の後見を勤めさせていただきましょう」

 でも僕は大友皇子の未来を知っている。それとも僕の娘を妻にしたら、未来は変わるのだろうか? 



 屋敷に戻った僕は、鏡王女に相談した。

 鏡王女との間にも娘が生まれていた。鏡王女は案外気持ちの善い人なのかもしれないと、最近僕は思うようになった。

 他所から頂き物をした時も、必ずトヨの家にお裾分けを届けさせる。直接二人が会う機会は少ないが、会った時には正妻顔をせず、年長者のトヨを立てているように見える。

 内密なことも時々は相談もできるようになった。トヨも相変わらず頼りになるのだが、宮廷や貴族の内部の話になると、鏡王女のほうが事情を熟知している。


「葛城皇子から、大友皇子が成人したら、娘を妃に欲しいと言われたのだが」

「なるほど。私の娘、ヒカミ(氷上)は生まれたばかり、年齢的にはトメよりミミモでしょうか」

 トヨとの長女、トメは亡き爺が名付け親なのだが、次女のミミモはトヨがつけた名だ。エミシとかイルカとかトリとかウシマロとか、この時代の名前のセンスが僕には理解できない。きらきらネーム世代の僕に言われたくはないだろうが。

「葛城皇子も三十歳を過ぎたからね。息子の行く末を本気で考えるようになるとは、ようやく人の親としての気持ちがわかるようになったのかもしれない」

「そうだとよろしいのですが」

 鏡王女は信じていない顔だ。

「有間皇子にも娘を嫁がせたい」

「よろしいと思います。それから、ヒカミはいずれ大海人皇子(おおあまのみこ)の皇子に嫁がせたいと思うのですが」

 大海人皇子は葛城皇子の弟で、鏡王女の妹の額田王を妻にしている。二十代半ばとなり、なかなかしっかりした大人に成長した。僕が習った歴史通りにいけば、いずれ彼が天武天皇になるのだ。

「貴女は大海人皇子をどう思う」

「ひとことで言うと、人から信頼される方だと思います」

「ほお、」

 僕も、きちんと話したことはないし、会議でもほとんど発言しないし、どのような人物かわからないが、何となく葛城皇子のやり方に不満を持っているところはありそうだ。

「大海人皇子は葛城皇子と性格が全く違いますわ。正反対と言っていいほど」

「正反対で人から信頼される方……」

「あら、つい……、ホホホ」

 兄弟あるある、か。甘やかされて育った長男と、しっかり者の次男坊。

「このままですと、葛城皇子が即位した時に皇太子にする皇子がおられません。皆の反発を抑えて強引に大友皇子を立てようものなら、何か起きるかもしれません。ならば一旦、大海人皇子を皇太子に立てるのをお薦めしてもよろしいのでは。皆も大海人皇子なら納得するでしょう」

「なるほど。それもありか」

 僕としては大友皇子が天皇になっても構わない。それで世の中が落ち着くのなら。しかし、大友皇子が天皇になると、争乱が起きるのだ。葛城皇子はわかっているのだろうか。自分の後嗣争いが起きる時、自分がもういないことを。



 僕がいずれ大友皇子に娘を嫁がせるつもりだとトヨに話した。

「というわけで、トメを有間皇子、ミミモを大友皇子に嫁がせたい」

「前々から思っていたのですが」

 トヨは言った。

「娘たちの教育を、奥方様にしていただきたいと」

「どういうことだね」

「そのような身分の御方の妻となるのでしたら、相応の教育が必要です」

「今までだって、ちゃんと教育していたじゃないか。読み書きもできるし」

「いいえ、普通の女性の教育と違うのです。奥方様でしたらお分かりになると思います」


「と、トヨが言うのだが」

 と僕が鏡王女に伝えると、彼女は驚いていた。

「トヨ様がそのようなことを」

「僕は今のままで十分だろうと言ったのだが、奥方様に任せたいと言ってきかないのだ」

「ええ、実は私もそのほうがいいかと思っておりましたが、差し出がましいかと言い出せませんでした。トヨ様が言ってくださるとは」

「よくわからない」

「皇族や良家の妻となるのでしたら、それなりの教養や礼儀作法を身につける必要があるのです。そうでないと、貴族社会で肩身の狭い思いをなさるでしょう」

「はあ」

「この先、大友皇子や有間皇子の妻となるのなら、必要だと思いますよ」

「わかった。任せるよ」

「殿様は、周りの女性に恵まれておられますね」

「そうだな、貴女といい」

 僕は笑った。確かにそうだな。しっかり者の妻たちがこんな僕でも支えてくれる。ありがたいことだ。

 そうして、トメとミミモは僕の本宅の鏡王女の元へ通い、上流階級の礼儀作法や教養の授業を受けるようになった。


 

 その冬十月、僕は、天皇の行幸にお供することになった。紀国の牟婁(むろ)の湯に湯治に行くのだ。

「貴女も一緒に行かないか」

 家族連れでもいいというので、鏡王女にも一応声をかけたが断られた。

「私は遠慮しておきますわ」

 僕としては、葛城皇子が鏡王女と会って関係が再燃してしまっても困るから、断ってくれて逆によかったが。

「仕方ない。ひとりで湯に浸かるとしよう」

 そうして、天皇、間人皇女、葛城皇子と大海人皇子とその妻子たち、それから僕と右大臣で、紀国、二十一世紀で言うと和歌山県白浜の温泉へ出かけた。まあ、慰安旅行的なものだ。付き人たちも心なしか嬉しそうに見える。

 京の留守居の長は蘇我赤兄そがのあかえだ。今は亡き石川麻呂の異母弟である。

 僕は、転生前も転生後も和歌山に行くのは初めてだ。紀伊の山々が紅葉に染まっていて美しい。牟婁の湯は海のすぐ近くで、海に沈む夕陽がなんとも旅情を感じさせる。


「このような地にいると、政のことなど忘れてしまいますね」

 右大臣の蘇我連子と話した。

 この時代の風呂は、湯帳ゆかたびらという薄い布のバスローブを着て入浴する。

「ふー、やはり湯は気持ちがいいですね」

「私も久しぶりですよ、湯に浸かったのは」

 二十一世紀では清潔感を売りにしていた僕からすると考えられないことだが、飛鳥時代の人は風呂に入らないのだ。身分の高い人間などは時々こうして温泉に入れるが、通常は濡れた布で身体を拭いたり、井戸や川で水浴びをして済ませるのだ。

 初めての夏、大の大人が川で水遊びをしているのに驚いたが、遊んでいるのではなくお風呂なのだと知った時の衝撃。

「昔、天皇が湯治に行かれて何ヶ月も戻られないことがよくありましたが、今ならわかりますなあ」

「天皇でなくとも、冬場はずっとここで過ごしたいですね」

「このような湯が京の近くにもあればいいのですがなあ」

「吉野の奥のほうにも湯があるらしいけれど、何しろ行くまでが大変ですからね。仕事の帰りにふらっと入れる湯がほしいですね、はは」

「天皇に上奏して作ってもらいましょうか」

 そして風呂上がりのヤクルトも、ああ二十一世紀、何もかも皆、懐かしい。


「風呂上がりの井戸水、うめー」

 温泉横の板の間で涼んでいると、葛城皇子が来た。

「もう湯に浸かったのか」

「ええ、気持ちようございました」

「ひとりでか? 」

「いえ、右大臣と」

「右大臣と? 右大臣と湯に入って楽しいか? 」

「誰と入っても湯は気持ちいいものですよ。何なら今度、皇子もご一緒に」

「……」

 いや、そこ、頬を染めるとこじゃないから。

「明日は狩りでもするか。しばらくは帰らなくてよいのだろう、鎌足」

「さあ、どうでしょう、皇太子がお許しくださるかどうか」

「あはは、許す」

 葛城皇子は笑った。


 翌日の午後、僕が温泉に入ろうとしたら、湯帳を着た葛城皇子がそっと湯殿に手を入れて湯加減を見ている。

 これは知ってる。押すなよ、絶対押すなよってヤツ。

 僕はそっと近付いてドンっと皇子の背を押した。

「うわ」

 皇子が綺麗に湯に落ちた。

「何をする。あ、鎌足」

「あはは」

 立ちあがろうとする皇子に、僕は笑いながらお約束通り手を差し伸べた。

 ぐい。皇子が僕の手を引っ張り、僕を湯に落とす。

「うわああ」

「ははは」

「やめてくださいよ、皇子、子供みたいに」

 バシャバシャ。

「そなたが先にやったのだ、ははは」

 バシャバシャ。

 おっさん二人が、何やってんだか。

「ふう……」

「……」

 何なの、この雰囲気……。

「皇太子、こちらにおられましたか」

 舎人の声がした。

「何用だ。せっかく湯を楽しんでおるのに」

「今宵の食事は猪肉と鶉肉とどちらになされますかと、天皇が」

「どうでもよいわ、そんなこと」

 葛城皇子は苦笑して答えた。


 夕食の前、廊下で右大臣がこそっと僕に言った。

「いやあ、内臣、すごい度胸ですな」

「はい? 」

「さっきのアレ、見てましたよ。皇太子を湯に落とした、アレ、私がやったらその場で打首ですよ」

「ああ、いやまあ、皇子とは長い付き合いなもので、機嫌のいい時はなんとなくわかるのですよ。今日は大丈夫、とか」

「はあ、そういうものですか」

 考えたら葛城皇子が十五歳くらいの時からだもの、なんだかんだで長い付き合いだ。


 そうして僕らは狩りをしたり、散策をしたり、釣りをしたり、バーベキューをしたり、温泉に入ったり、休暇を満喫した。和歌山は飛鳥より暖かいし、新鮮な海の幸がいつでも食べられるし、最高だ。

 のんびり過ごして十日目の昼、飛鳥京から早馬が来た。

「なんだ、こんな旅先に」

 遣いは、葛城皇子の部屋へ入っていった。

 やがて、出てきた葛城皇子は自分の舎人をその遣いと共に旅立たせた。

「何があったのです」

 僕は皇子に問いかけた。

「謀反だと。有間皇子の。こちらへ護送していると言うから、飛鳥で裁きを行なうから引き返せと言った」

「有間皇子が謀反ですって。そんな、ばかな」

「留守居の蘇我赤兄からの報告だ。我らが京を離れている隙に兵を上げ、水軍を出して我らを紀国に閉じ込め、京を占領する作戦だったそうだ。赤兄が知らせて未然に防いでくれてよかった。まさかそのような大それたことを考えるとはな」

 本当だろうか。また、讒言ではないだろうか。

「で、いつ裁きを、誰が行なうのです」

「急がなくとも良いだろう。我が京に戻ってから裁くから、それまで牢に入れておけと言った」

「私も立ち合わせてくださいませんか」

「……よいぞ。一緒に申し開きを聞こう」

 それから三日後、僕と葛城皇子と右大臣は、天皇と皇女たちを牟婁の湯へ残して帰京した。

 さよなら、温かいお風呂。次に温泉に入れるのはいつになるのか。


 僕らが飛鳥に戻ってみると、既に有間皇子の刑は執行されていた。有間皇子は護送途中、舎人二人と共に殺されたと知った。

「皇子の舎人を処刑しろとは言ったがな、どうやら手違いがあったようだ」

 葛城皇子は僕に言い訳した。

 僕が甘かった。古人大兄の時を思い返せば、このようなことになるのは予測できたことだ。だが、有間皇子が気狂いを装っている間はまだ大丈夫だと油断していた。


 なぜ、有間皇子は蘇我赤兄なんぞの口車に乗ってしまったのだろう。

 僕は、赤兄を呼んだ。

「そなたが有間皇子を唆したのか」

「唆したなど、人聞きの悪い。全て皇子がお考えになられたことです。私は、近頃の政治に対する人民の不満の声を皇子にお聞かせしただけです」

「どのようなことを言ったのだ」

「巷には、今の世に対する人民の不満が溢れています、天皇は民から集めた財産を天皇の物にして蓄え、無駄に水路や石垣をを作り、土木工事に人民は疲弊しています、と、申し上げました。私は単に、皇子から天皇にお諌めいただけないかと思って申し上げただけでしたけれど、皇子は、ならば天皇を滅ぼしそう、と決意いたしたようで」

「それで皇子が謀反を企てたのだと」

「ええ、そうです。計画を相談された私は、内臣のお力をお借りしましょう、そうしたら乙巳の時のようにうまくいくでしょう、と申し上げたのですよ。でも、皇子は拒んだのです」

「なぜ」

「皇子は言いました。父君を見捨てた内臣を、我は信じていない、内臣を頼りたくない、と」

「皇子が……」

 そこまで僕は有間皇子に疎んじられていたのか。

「私はその言葉を聞いて、皇子の計画は成り難いと思いました。内臣がお味方になってくれれば心強かったのですが。もう少し皇子が年長になられてからのほうがよろしいのではないかと進言する者もおりました。でも、皇子が事を起こそうと考える気持ちは変わらなかったのです」

「それで私は、このままではあらぬほうへ向かうのではないかと不安になり、皇太子にお知らせしたのです。未然に防いでおれば、まだ有間皇子の罪も軽くて済むと思ったのですが、皇太子はお許しになられなかったようです」

 やはり、葛城皇子が処刑させたのか。薄々そんな気はしていたけれど。


 赤兄が言う言葉が全て正しいかはわからない。赤兄が、有間皇子の謀反を密告し手柄を立てるつもりだったのか、それとも、葛城皇子が赤兄を使って有間皇子を陥れたのか、本当に有間皇子本人が積極的に考えていたのか、有間皇子がいない今となっては確かめる術もない。

 ただ、僕は有間皇子を守ることができなかった。それだけだ。

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