アフターストーリー・3
年が明けると、天皇は大臣の任命式を行なった。
左大臣には蘇我赤兄臣、右大臣には鎌足の縁戚である
「左右大臣も決まって、これでひとまずは安心ですね」
賀正の宴で、臣下の皆は上機嫌だった。鎌足が生きている時のように、宴は盛大に催された。
「本当に安心だろうか」
「と言いますと? 」
「陛下と皇太子、うまくやっていけると思うか」
「どうせ、皇太子など名前だけだろ」
「どういうことです」
「大友皇子が太政大臣ということは、政の要は大友皇子。皇太子は蚊帳の外となる」
「そうは言っても、皇太子なのだから、次の世には即位するのでしょう」
「さあ、どうかな」
「いずれ時を見計らって、皇太子を辞退するよう迫るのではないかな。それともなければ」
「え」
「いや、今日は酔った。帰るとしよう」
その後、沙宅紹明はじめ多くの百済出身の帰化人にも冠位が与えられた。
「どう思う、今度のこと」
一部の日本古来の豪族たちからは不満の声が漏れた。
「我ら、百済の戦さで功労を立てた者たちには碌に報奨をくれなかったのが」
百済の役のために多くの兵士が東国や地方から駆り出され、死傷したのだった。
「全くだ。百済のために命をかけて戦ったというのに」
「国を奪われて逃げてきた人間ばかり重用するとは」
「陛下の百済贔屓にも辟易する」
「最近また半島では揉めているそうじゃないか。半島の戦さに駆り出されるのは、もう懲り懲りだ」
「誰か、陛下に忠言する人間はいないのだろうか」
「私はね、皇太子に期待しているのだよ」
皇族の歌会でそう言うのは
「そのようなことを迂闊に口に出しては」
古くから付き合いのある鏡王女は、微笑みながら言った。その笑みに悪意は見られない。ただ、鏡王女は、天皇が鎌足の娘の養育を望んだことは明かさなかった。
皇族の間での天皇葛城皇子の評判は、彼が皇太子だった頃からよろしくなく悪口が絶えない状態だった。
「皇太子がいったい長生きできると思うかね」
他の皇族が言う。
「大友皇子のために太政大臣なぞという役職を作ったのも、皇太子に位を渡したくないからだろう。大友皇子が適齢になったら、皇太子をどうするかわからんねえ」
「私は、大友皇子でも別にかまいませんよ。この際、母親の血統には目を瞑りましょう」
「そのようなことを言っていたら、この先、下心ある人間が娘を采女に差し出してくる。どこの馬の骨かわからぬような男の娘を国母にはできまい」
「大友皇子の正妃は皇女ですし、皇子の
「いや、悪しき前例になるのを恐れているのだよ、私は。今後もどんな卑しい生まれの皇子を天皇にしようと、歯止めが効かなくなったらどうする。天皇の品位を貶めることになり、他の豪族を従わせることができなくなるのだ」
集まる皇族の男子たちは、世の流れによっては天皇になっていてもおかしくない血統である。
栗隈王に同意して他の皇族も続く。
「私が案ずるのは、だ。この国では、皇后または準ずる妃から生まれた皇子が天皇になる慣わしがある。もし天皇にそういった皇子がいなければ、兄弟或いは兄弟の子を立てるが常道。それを今上天皇は、母親の血筋を軽んじた大陸風の嫡子相続に変えようとしているのだ。何でもかんでも大陸風にして、いったい唐の属国になりたいのか? 私は認めない」
「それより大海人皇子だ。今までの陛下のやり方を見ていれば、不安を感じないわけなかろう。どう思う?このままおとなしく兄君の言うことを聞いていると思うかね。大陸の国では、皇太子である兄を害して即位した皇子も珍しくない」
「内大臣もいなくなった。頼りになる臣下がいない今なら」
ふふ、と皆は顔を見合わせた。
夏の終わりの爽やかなある朝、天皇は山科へ出かけた。
近江宮から街道を馬で行き山間を抜けると、山裾に広がる里が現れる。山科の里は、陶原館を中心とした鎌足の里のような、心落ち着く場所だった。近江からほんの少し行くだけで景色が全く違う。ちょっとした旅のようで、天皇は楽しく感じていた。
「ここに寺を造るのか」
陶原館の庭を歩きながら、天皇は周囲を見回した。
「狩りにも不自由しないな」
「何を仰言います、仏門に入った人間は殺生をしないでしょう」
供をしていた赤兄臣が言う。
「出家して、ここの寺に住むのも良いと思わぬか、なあ」
「はあ……、いずれはそのようなこともよろしいかと思いますが、しかしながら大友皇子のために、もう少々後になさいませ」
「あまり先にすると皇太子が力をつけてしまう」
「ええ? 」
「もし今、皇太子に位を譲ると言ったら、あやつはどうすると思う? 」
「もちろん、受けるのでは」
鎌足だったらどう考えるだろう? 鎌足だったら……。
「いっそ、仕掛けてみようか」
天皇はニヤリと笑った。
九月になり、天皇が病気になったと聞いた倭姫王は、見舞いのため幼い侍女を伴って近江宮を訪ねた。
「これまでお風邪ひとつ引いたことのない丈夫な大君が」
寝所に案内されると、天皇は床を作って横になっていた。
「お見舞いに参りました」
倭姫王の姿を認めると、天皇は布の掛け物を跳ね除け、起き上がった。
「病いだと聞いていたのですが、お顔の色はよろしそうですね」
「うむ、いや、この通り、病いでふせっておる」
「どういった仔細でしょう」
「まあ、気にせんでよい。そうだ。ところで、そなたは大海人皇子と大友皇子、どちらに次の王となってほしい? 」
「次の王、ですか? 」
倭姫王は、天皇の機嫌を損ねないよう、慎重に答えた。
「私は、我が君が千代に世を治めてほしいと願います」
「ハハハ、それはよい。せいぜい長生きしよう」
「コホン」
縁側の戸の向こう側から咳払いが聞こえた。
「うむ、見舞いの礼を言うぞ。我はこの通りだから、心配に及ばず」
倭姫王は、天皇が何か企てていると感じたが、知らん顔をして退室した。
皇后の宮へ戻った倭姫王を迎えた古参の侍女・竹原が聞いた。
「姫様、陛下のお加減は如何でしたでしょうか」
竹原は、倭姫王の両親が死んだ直後、倭姫王の父方の曾祖母である
「如何も何も、あれは詐病だわ」
「詐病」
「また何か、良からぬ企みを持っているのでしょう。私には、心配するなと仰言った」
「はあ、左様でございますか。いったい今度は何をなさるのでしょうかね」
つっけんどんに言う竹原に、倭姫王はクスリと笑った。
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