最終話・愛する皇子に命を捧げる

 それからしばらくの間、僕は近江京の整備を急ぎ、葛城皇子は大友皇子に経験を積ませようと一生懸命だった。

 最近僕はふと思う。

 僕は不慮の死でこの時代に転生した。二十一世紀では、転生は不慮の死を遂げた人間が条件だと言われていた。それなら、この時代に僕が遭遇した事件も、その条件は当てはまるのだろうか。例えば、山背大兄、蘇我入鹿なんかどうだ。古人大兄も石川麻呂も有間皇子もどこかに転生しているのだろうか。

 今まで僕は、自分たちが殺した蘇我入鹿のことなどすっかり忘れていた。あれからもう二十年以上も経っているのだ。


「鎌足、たまには狩りに出かけぬか」

 秋の日、葛城皇子と僕は連れ立って馬に乗って出かけた。

「皇子、そのように駆けては危のうございます」

 皇子はわざと足元の悪い丘の斜面を駆け登った。

「ははは、そなたも老いたな、鎌足」

「まだまだ皇子には負けませんよ」

「あ」

 僕の馬が足元の土塊に足を取られた。

 バランスを崩した僕は、馬から転げ落ち、思いっきり地面に叩きつけられた。

「鎌足」

 いってぇ。


 気付いたら自邸の部屋に寝かされていた。

「お気付きになられましたか」

 鏡王女が声を掛ける。

「これは」

 起きあがろうとしたら、全身に激痛が走った。

「うっ」

「薬師の話では、腰の骨が折れているようです。しばらくは身体を動かしてはなりません、と」

「うう、皇太子は」

「大事にするようにと言伝が。驚きましたよ。戸板に乗せられて、皇太子の舎人たちに運ばれてきた時には」

「すまん、世話をかける」

「もう、お若くはないのですから、大事になさってください」

 僕は寝たままで、トイレにも行けなかった。食事も下女に食べさせてもらう。

 娘たちや友人知人が次々と見舞いに訪れる。その度に身体を起こすのがしんどいので、板を斜めにして上半身が高くなるベッドを作ってもらった。介護ベッドみたいなものだ。


 でも僕は回復しなかった。

 大きく息をすると苦しい。もしかしたら肋骨にもヒビが入っているかもしれないし、合併症を併発したのかもしれない。この時代の人は、普通に暮らしていても、骨粗鬆症や脚気など栄養不足、ちょっとした病気や怪我で簡単に死ぬのだ。

 二十一世紀の家族が飛鳥に遊びにきた夢を見た。窪田先生も一緒だった。僕は彼らに飛鳥を案内して歩いた。僕はもう死ぬのだろうか。

 僕の死んだ後は、鏡王女が家を守ってくれるだろう。彼女なら安心して任せられる。

 フヒトが成人し一人前になるまで、意美麻呂を中臣氏の長とするよう頼んだ。次女ミミモは大友皇子の妻となっている。鏡王女が産んだ娘ヒカミは、いずれ大海人皇子の息子と結婚させ、イオエは鏡王女の見込んだ男に嫁がせよと言った。フヒトは今も田辺史氏の元で養育されている。いずれ国博士になってほしいと願うが、僕の知っている藤原不比等は、藤原氏の祖となって日本を牛耳っていくのだ。


 僕は死んだら元の世界に帰れるのだろうか。転生する前の家族に会えるのだろうか。この世界であまりにもいろんなことが起こりすぎて、二十一世紀の世界が遠い昔の夢のようだ。

 身体中が痛む。今まで多くの人を不幸にしてきたのだから、バチが当たったのだ。

 僕が死んだら葛城皇子はどうするだろう。悲しむだろうか。そうだ、僕にはまだ、皇子のための最後の仕事が残っている。


 葛城皇子が見舞いに来た。

 目が落ち窪んだ僕の弱った姿を見て、驚いた顔をした。

「……そなた、そんなに悪いのか」

 僕は無理に笑顔を作った。

「もう長くはないでしょう。今までお世話になりました」

「そのようなことを言うでない。そなたは我の師であり友であり、父であり兄だ。これからも我を助けてほしい。また元気に我の元へ来てくれるな」

「私はこれまで、貴方様の命令を何よりも優先させて生きてきました。でも、今度ばかりは無理のようです」

「約束したではないか、我の側にずっといると。そなたのためなら、どんな薬も持って来させよう。あらゆる加持祈祷もしよう。そうだ、百人をいや三百人を得度させる」

「いいえ、私のためにそのようなことはなさらないでください」

「我は、これからはそなたの言うことをちゃんと聞く。欲しいものは何でもやる。だから……」

「どこにも逝くな、鎌足」

 葛城皇子はブルっと身震いした。

「鎌足、我を置いて逝ってはならぬ」

 葛城皇子の頬が紅潮していた。



 数日後、病床の僕がウトウトしていると、侍女が大海人皇子とその妃、鸕野讃良皇女(うのさららのひめみこ)の来訪を告げた。

 鸕野讃良皇女は葛城皇子の第二皇女である。皇女の母親は、かつて右大臣の地位にいた石川麻呂の娘、蘇我造媛。葛城皇子によって石川麻呂が謀反の罪で処刑された後、悲痛のあまり心の病を患い死んだ媛だ。


 僕が病室として使っている部屋には、誰が見舞いに来てもいいように絹布を貼った床几台が置かれていた。床より一段高い僕の寝床に対し、来客を低い位置に座らせないための配慮だった。

「この度はお見舞いをありがとうございます。このような姿でのご無礼をお許しください」

「楽にするがよい。今日は天皇の御言葉を伝えにきた」

 大海人皇子は何やら書を広げ、両手で掲げ持つと言った。

「中臣鎌足に大織の冠を与え、内大臣の位を授ける。また、これより藤原の姓氏を与える」

 中臣連の生まれによって今まで許されなかった大臣の位と最高位の冠、藤原の姓氏。葛城皇子は過去の因習を破り、僕に最大限の褒美をくれた。

「余りある光栄、感謝いたします」

 藤原鎌足となった僕は、礼を言いながら自然と涙が溢れてきた。ああ、僕はもう、死ぬのだ。

「これは天皇からの見舞いの品。滋養のつくようにと鹿肉と水菓子、それから薬酒を」

 大海人皇子は天皇の書と冠、見舞いの品々を下女たちに渡して部屋を出た。

「私は、少し二人きりで話がしとうございます」

 鸕野讃良皇女はひとり部屋に残った。

 僕は下女たちを下がらせた。


 皇女は言った。

「父についてそなたと少し話したいと思いました」

「そなたは長年、父の側で仕えてきました。誰よりも長く、今も側にいます。ずっと疑問に思ってきました。我の父はあのように冷酷な人間です。今まで父は多くの人の命を奪い、身内であろうとも容赦しない。我の夫でさえも殺されかけたことは、存じているでしょう。それなのになぜそなただけは無事でいられるのか、父にとってそなたはどういう存在なのか、そして、これから私はどう父と向き合っていけば良いのか教えて欲しいのです」

 彼女が祖父と母親を死に追いやった父親に対して、良い感情を持っていないであろうことを、僕は十分知っている。

「私は天皇、いえ、長年呼び慣れた葛城皇子と呼んでもよろしいでしょうか、葛城皇子と出会った若かりし頃、私は天皇を中心とした国家を作ろうと野心を抱いていました。そして軽皇子が天皇になられ、政を天皇の手に取り戻し律令国家を作り、私は満足でした。ですが、平穏の世に暮らしたいと思っても、葛城皇子はお許しになりませんでした。片っ端から打ち砕いていったのです」

「……」

「宝皇女は私を憎んでいたようです。私さえいなければ、宝皇女も軽皇子も葛城皇子も今頃は心穏やかに暮らしていた、私が軽皇子や葛城皇子を唆し皆を不幸にしたと。私も彼らに、いえ、葛城皇子に近付かなければよかったと後悔しているのです。軽皇子の宮へ出入りを許された、それだけで満足していればよかったと」

 そうだ、僕は多くの人を不幸にした。軽皇子、有間皇子、石川麻呂とその家族、多くの政敵、僕の妻、子供たち。僕が上を望まなければ、マヒトも有間皇子も政争に巻き込まれず、死ななくて済んだ。

「そのようなことは」

「でも私は若かった。上の世界を見ていました。葛城皇子に皇女のお母上様との婚姻をお勧めしたのも私です。もし私がいなければ、お祖父様もお母上様も、あのようなことにはならなかったでしょう。 葛城皇子がこうなってしまったのも全て私のせいなのです」

「それは傲慢というもの。そなたがいなくとも、父は何かをしていたでしょう。そのようなことを気に病むからなかなか治らないのです」

 咳を抑えながら衣の袖を口元に当て、僕は言った。

「お気をつけくださいませ。 葛城皇子は平穏な暮らしを望んでいません。平和な世が続くとそれを壊すような事件を望むのです」

「ええ、わかっています。父は他人にとても非情です。愛しい家族の命を奪われた人間の苦悩など想像しないのです」

「いいえ、いいえ、そうではありません。それは逆で、皇子は亡くなった人を悼み悲しむ気持ちが人一倍わかるのです。ただ、それを快楽に変えてしまうだけ」

「快楽?」

「皇女の弟君、建皇子が身罷られた時、皇女や宝皇女と同様に、葛城皇子も大変悲しんでおられました。ただ、建皇子を悼む方々の悲痛な嘆き、絶望する顔を見ているうちに、それが楽しく感じてしまうのです」

「楽しく感じるとは、どういうこと」

「例えば子供たちが泥団子を作るとしましょう。とても良い形の泥団子ができたら子供はそれを飾り、毎日眺めて満足しています。しかし、中には眺めていることに飽きてしまう子供もいます。ある時、その子供は、他の子供の美しい泥団子を壊したら大切に眺めている子供はどんな顔をするだろうと、その泥団子を壊してしまいます。壊された子供は大いに悲しみ泣き喚きました。壊した子供は、その子らの嘆き悲しむ姿を見て、心の奥底に得体の知れない快感が芽生えるのを感じました。破壊された団子を惜しむ姿を見ることで生まれる悦楽。一度知ってしまった子供は、何度でも破壊を繰り返す、やがては破壊するために創造するようになるのです」

「それが父だと」

「他人が大切にしている物だけではありません。ご自分が大切にしている物さえも破壊し、大切にしている物を喪失したご自身にすら、快感を覚えるのです。葛城皇子は周りの皆を、ご自身さえも絶望の淵に突き落としては悦に入る、破壊神の生まれ変わりなのでしょう。私が今日まで生きながらえてこられたのは、神の御心次第。私には神を止めることなどできません」

 そこまで話すと僕は白湯で喉を潤した。

 しばしの沈黙が流れた。

「病人を疲れさせてしまいましたね。でもそなたと話せてよかった」

 皇女は立ち上がり、帰り支度を始めた。

「私も皇女とお話しできて安心いたしました。これからは皇女と大海人皇子が天皇を支えていかれましょう」

 彼女は賢い女性だ。これから大海人皇子と共にこの国を作って行くのだ。

「そなたは長く生きて、父が道を外さぬよう止めて欲しい」

「私はもう長くありません。これで私の役目は終わりです。この先の世をお願いいたします」


 鸕野讃良皇女が帰った後、僕は皇女の問いかけを思い出していた。

「父にとってそなたはどういう存在なのか」

 それは僕がずっと知りたかったことだ。

 僕は葛城皇子にとってどういう存在だったのか。そして僕にとって葛城皇子は。


 僕はかつて世間知らずの葛城皇子を利用して、軽皇子とその息子の世を作ろうと思っていた。でもそれは失敗した。操ろうとしていた葛城皇子の人格は、僕の意に反して暴れ回り、僕を振り回した。

 厄介なことに僕は、振り回されるのを期待するようになった。皇子がどんなに非道い人間かわかっているのに、一方で皇子に魅かれていく。先ほどの例え話の子供のように、僕の心の中にも自分では制御できない感情が存在していたのだ。

 僕はずっと認めたくなかった。こんな悪人に心を焦がしている自分を。


 僕はこれまで、なぜこの世界に転生したのか、時々思うことがあった。僕はそれを、これからの歴史を作るためだと思っていた。

 でも本当は、歴史なんてどうだってよかった。僕はただひとりの人に命を捧げるために今日まで生きてきたのだ。通りすがりの赤の他人ではない、大切な人に僕の命を捧げたかっただけなのだ。

 そうだ、僕は認めよう。僕はずっと葛城皇子に恋焦がれていた。彼の側にいたかった。彼に認められたかった。彼に命を捧げたかった。

 今、僕は葛城皇子のために死ぬ。これもう僕は思い残すことはない。


 やがて、下女が現れ、言った。

「先ほど天皇から頂戴したお薬、お持ちしました」

「おお、そうだ、いただこうか」

 下女が差し出す薬酒の盃を、僕はじっと見た。

「天皇がこの私めに下さった。ありがたきこと」

 僕は、いよいよその時が来たのを感じた。

 僕の訃報に接し、彼は涙を流すだろう。そして悲嘆に暮れながら、今までに感じたことのないほどの高揚感に心を震わせるのだ。

「天皇にお礼を……、そう、こう伝えておくれ」

「この命、貴方様に捧げることができて、鎌足は幸せにございます」

 僕は薬酒で満たされた盃に唇をつけた。(了)

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