第21話・請安先生との別れ
その後、僕は病の療養という名目で、飛鳥の京を離れ、摂津三島の別荘に行った。
摂津三島は大阪の難波津近く、川沿いの平野である。川を舟で行けば難波にもすぐ出られる。
大阪は子供の頃に家族旅行で来たことがあるから知ってるが、全く印象が違う。道頓堀のあのゴチャゴチャ感がない。干潟みたいな池と川、すぐそこまで海が迫っている。川や港には舟がたくさんあり、水の都のような印象を受ける。
「難波の行宮に来たついでに、見舞いに来たぞ、鎌子。どうじゃ、身体の具合は」
別荘に軽皇子が見舞いと称して遊びにきた。
「ふふ、この通り、ピンピンしておりますよ、殿下」
「んふふ、そうじゃろうと思って、そちの好きな肉を持ってきた」
「おお、ありがたきお心遣い」
「病人は精をつけなければな、ふぁふぁふぁ」
軽皇子が難波にいる間、僕らは囲碁を打ったり、のびのびと過ごした。寒い夜は軽皇子が持ってきた肉で作ったシシ汁で温まり、穏やかな日には河原で釣りをしながらかぶら寿司を食べた。
「ここは、広々として気持ちがいいのぉ」
遮るものが何もない平野で、川がゆるやかに流れている。周囲を山々に囲まれている盆地の飛鳥の地とは大違いだ。
「飛鳥は雪が積もって寒くて困る。ここに大きな宮城を作って、京にしたいのぉ」
「とてもいいお考えかと。ここなら古いしがらみもなく、殿下が新しい世を作るにピッタリな場所だと思います」
本当に穏やかでいいところだ。今度、妻たちを連れてこよう。そうだ、またみんなを誘ってホームパーティーをここでやるのも悪くない。
こうして楽しんでいると、このまま革命など起こさなくてもいいのではないかという気分にさえなる。
僕らはしばらく別荘に滞在し、次の作戦を練った。
「いよいよ次の作戦、これからが本番です」
「葛城皇子を焚きつけ、利用しようと思います。本当に殿下はよろしいのですか」
僕は、このために葛城皇子を育ててきたのだ。
「もちろん。最初に利用しようと言ったのは我じゃ。我が息子が一番可愛いからの。甥っ子など、所詮他人じゃ」
「殿下のご覚悟を知って安心しました。心置きなく作戦を実行できます」
「で、我は何をすればいい」
「殿下は、事が終わってから活躍していただきますので、それまでは、安全な場所におられるよう、お願いします。場合によっては飛鳥を離れ、ここ難波におられるのもよろしいかもしれません。この件には何も関わりのないような顔をしてお過ごしください」
「うむ。わかった」
「それからもっと協力者が必要になりますが」
「誰か、心当たりはあるのか」
「まず、蘇我倉山田臣石川麻呂様。彼は蘇我分家の主ですが、蘇我宗家の毛人臣や入鹿臣に対し、日頃から不満を持っておられます。石川麻呂様は、かねてより殿下とお近付きになりたいと言っております。人柄も良くきっと殿下のお力になりましょう」
「うむ」
「石川麻呂様には娘が何人かおられます。裏切りのないよう、婚姻関係を結んだほうがよろしいでしょう」
「美しいか」
「お会いしたことはありません」
「それから葛城皇子にも、石川麻呂様の娘を娶っていただきます。皇子に私どもの本気度を見せるためです」
「我には葛城皇子より美しいほうの娘にしてくれまいか」
「ふふ、そうですね。伝えておきます。……それから、実行犯として何人か、口の硬い仲間を誘うことをお許しください」
「うむ、任せた。あとは、うまく葛城皇子が動いてくれることだな、ふぁふぁふぁ」
軽皇子は意地悪い笑いを浮かべた。
ひと月後、京に戻った僕が、一足先に戻っていた軽皇子の宮へ挨拶に行くと、皇子が言った。
「ここだけの話だが」
皇子が声を顰めた。
「我らが京を離れている間に、葛城皇子が間人皇女(はしひとのひめみこ)とできてしまったそうじゃ」
「? 間人皇女とは」
「姉上と亡き天皇との娘、葛城皇子の同母妹じゃ」
「それは……」
ヤバいんじゃ……?
「姉上の宮へ行ったら、采女がこそこそ話しておった。姉上も頭が痛かろう」
この時代、父親が同じ兄妹でも、母親が違う異母兄妹ならば婚姻できる時代であったが、同母兄妹の近親相姦は重罪になる。
「これで葛城皇子はもうおしまいじゃ。愚かなことをしたものじゃ」
軽皇子としては、自分の息子のライバルがいなくなってホッとしたことだろう。
「それよりも、石川麻呂の娘との話、進んでおるのであろうな」
「はい、お任せください」
その数日後、請安先生の塾に行った時、葛城皇子から説明を受けた。
「皇子、おかしなことを聞きました。葛城皇子が間人皇女と……」
僕が全部言う前に、皇子は遮って言った。
「母上が悪いのだ。妹を古人大兄の妃にしようなどと言い出すから。そのようなことはさせまいと、我が妨害してやったのだ」
「なんと、本当だったのですか。皇子、同母兄妹の近親相姦は重罪ですよ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟ではありません。その昔、允恭天皇の皇太子、木梨軽皇子は」
僕は、歴史書で読んだ木梨軽皇子の話をして聞かせた。
「木梨軽皇子は允恭天皇と皇后との間に生まれた皇太子でした。しかし、同母妹の軽大娘皇女と関係を持ち、皇太子の地位を剥奪されたのです。二人は罪人として伊予国へ流され、果てたのです」
「うっ」
「よいですか、他の人間に知られないうちに関係を断つのです。人に知られたら天皇になる資格を失うばかりではなく、皇子も皇女も罪人として処罰されるのですよ。これきりになさいませ」
「わかっておる、言われるまでもない」
二人の関係はいずれ采女の口から他人へ漏れるだろう。こういったスキャンダルは心象が悪くなる。せめて作戦が完遂するまでは表面化しないことを願う。
ことを急いだ僕はすぐさま、軽皇子、葛城皇子、それぞれと石川麻呂の娘との縁を取り持った。
ところで、最近の僕は、暇ができると安媛の部屋に行き、赤ん坊を眺めている。自分の子ではないが、見ていると楽しい。自分がこんなに子供好きになるとは思わなかった。
そういえば、僕は安媛の子には二十一世紀時代の僕の名だったマサトの真似して「マヒト」と、トヨとの子には爺が「トメ」と名付けた。
ある日の午後も、僕は安媛と赤ん坊のやりとりを寝転びながら見ていた。
「だー、だー」
そろそろ不思議な言語を喋り出している年齢だ。
「何て呼ばせましょうか。殿様、父上、それとも」
安媛が楽しそうに言う。
そうだな、やはり……。
「……とと様」
トメにも「とと様」と呼ばれたい! これは全父親の憧れだろう?
「ととさま」
安媛が僕を指差しゆっくり言う。
「とー」
「ととさま」
「とーとー」
そうだ、その調子!
「さま」
「ちゃまー」
うおおおお。
「聞いたか、聞いたか、今、とと様って言ったぞ! 言ったよな」
「ええ、ええ、言いました」
「もう一度、言ってくれ、ととさま」
「とーとー、ぷにょん」
「ぷにょん、じゃない、ととさま」
「ぷにょん、ぷにょ〜ん」
「もう飽きちゃったみたいですね」
安媛が笑いながらマヒトを抱き上げる。
ああもう、かわいいぞ、マヒト。こういうのを幸せと呼ぶのか。ジーン……。
そんな中、病を抱えていた請安先生の病状がいよいよ思わしくなくなった。
僕は他の弟子たちに先立って先生に呼ばれた。土気色の顔をした先生は、痩せ細った身体を半分起こし、言った。
「形見分けだ。書物を好きなだけ持っていくがいい」
「先生……」
僕は、それまで請安先生が書いた本、全てを選んだ。唐から持ち帰った他の本には目もくれず、先生の著書だけを選んだ。これらの本には僕に必要なものがある。自分以外の人間に学ばせてはならない、誰の目にも触れさせてはいけない。
先生の著書全てを持ち帰ろうとする僕を、先生が満足げな目で見ていたように思えたのは気のせいだろうか。
「これから貴公が何を成し遂げるか楽しみだな。俺が見ることができないのは残念だ」
程無い秋の日に、請安先生の命は散った。
稲淵の田舎道で弟子たちが野辺送りをするのを、葛城皇子と僕は遠くの土手から見ていた。僕らは埋葬には立ち会わなかった。
その帰り道、僕は皇子の後を黙々と歩いた。
突然、皇子が顔を上げた。
「おお、見てみよ、鎌足」
皇子の視線の先を見ると、水田の土手に咲き誇る曼珠沙華の群生だった。
「美しいな。我は曼珠沙華が好きだ。ああやって咲き誇っているのを見ると、まるで血飛沫がそこいら中に飛び散っているようで妖しく見えないか、鎌足よ。まるで請安先生の吐いた血のようだ」
「血飛沫とは……、皇子は悪趣味ですね。私には美しい女人の紅に見えまする」
僕は不吉な予感が喉元に上がってきた。
上宮一族が滅ぼされて以降、何かにつけて「上宮様の祟り」が囁かれるようになった。蘇我大臣に対して、豪族たちの気持ちもどこか以前とは違うような感じがする。
そんな空気のせいかどうかわからないが、蘇我大臣は甘橿岡に新しく作られた屋敷の周りに堅牢な柵を張り巡らし、武器庫を作るなど、警備を厳重にした。
「大臣の屋敷、あれはまるで要塞のようではないか」
例の如くスナック鎌足に集う客たちが話し合う。
「あのように堅固な防塞を作って、一体何に備えているのだろう」
「あれじゃないかな、『上宮様の祟り』」
「バカを言うなよ。祟りは柵で防げやしないぜ」
「でも、何かを恐れているのは確かだろう。凡庸な大臣と違って息子は切れ者だ。自分を陥れようとする罠に感づいているのかもしれない」
「だとしたら、向こうが動く前にやらねばな……」
「巨勢臣は、鞍作臣さえ討ち取ってしまえば戦さにはならないだろうと言っていたが。何があるかわからぬ。皆は妻子を京から遠ざけておいたほうがよいかもしれないな」
「俺もその日は妻を実家に行かせる」
僕も別荘に行かせられればよかったのだが、子供たちが幼く、無理だ。その日は家の警備を厳重にさせ、トヨには安媛と共に本宅で過ごすよう、言っておこう。
「本当にやるんだな、僕たち」
勝麻呂が青ざめた顔で言った。
天皇宝皇女が古人皇子へ譲位を約束した期日まで、残り二年を切った。
大参謀、中臣鎌足、いよいよ動く。
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