第8話・〇〇喪失

 なんだかんだで娯楽もない退屈なこの時代の中で、僕なりに楽しんで生きている。

 そんなある日、旻法師の学堂の授業前に蘇我入鹿が

「最近、京の風紀が乱れておる。皆、気を引き締めてもらわないと。そこら辺にも皇子に取り入って何かと便宜を図ってもらおうと考える輩がいますからな」

 と言いながら、僕を見た。

 皆がニヤニヤした顔で僕を見る。

 僕が軽皇子と親しくしていることが気に食わないらしい。そういや、入鹿は軽皇子の采女がお気に入りだったな。くっそ、むかつく。この際マジで軽皇子に天皇になってもらって、入鹿を僻地に飛ばしてもらおうか。


 といっても、軽皇子本人は全く天皇になるなんて思ってないから、まずは軽皇子の意識改革から始めよう。手始めに、ちょっとした作戦を立て、仕掛けてみる。

 いつものように軽皇子と碁の勝負をして帰る時、門まで送りにきた若い舎人にこっそり言った。

「軽皇子は本当に聡明でいらっしゃる。次の天皇に皇子がなってくだされば、国はもっと発展するだろう。皇子が望むなら他の豪族たちに勧めたいところだが、皇子は欲がないお方、そのようなことは望まないだろうか」

「中臣連、そのように皇子のことをお考えだったのですか」

「ああ、本当に埋もれさせておくには勿体ない。そなたもそう思うだろう」

「ええ、ええ」

 舎人が嬉しそうに頷いた。


 で、あとは軽皇子がその気になる時間を与えて待つ。

 待っている間、僕は、遊んだり、旻法師の学堂に行って前々から気になっていたことを旻法師に質問してみたりした。

「私の家は代々神祇祭祀を司る家柄です。私のような人間が仏教を祀ってもよいものなのでしょうか。神様の機嫌を損ねてしまわないでしょうか」

「神様と仏様を同時に崇めてよいものだろうかとおっしゃられる方は多くおられます。そんな時、私はこう答えます」

「神様と仏様は似て非なるものです。神様は人間がいなくとも山や空や森、この世のもの全てを守ってくださる。人間は、神様が守り育てたその恵みを分け与えられて生きています。人がそうした恵みに感謝するのは当然のことなのです。一方、仏教は人間のためのものです。仏様は、人に道徳や真理を教え、心穏やかに暮らせるよう導いてくれるものです。仏教も儒教も、学問に近いものがあると拙僧は感じます。人は神様に感謝し、仏教や儒教を学ぶことで、徳を身につけ穏やかな心で暮らすことができるのです」

「なるほど……。とてもわかりやすいお答え、ありがとうございます」

 だから旻法師はこのように穏やかな聖人なのだ。


 ひとりの時間には「軽皇子を天皇にする作戦」を練った。軽皇子本人がその気になっても、なにしろ大臣という強敵がいる。なんちゃらシート(よく知らない)を作ろうか? 真ん中に「軽皇子を天皇にする」を書いて、それに必要なことを周りに書いていくやつ。どうやって作るのか知らないけど。


 そうして転生して二度目の端午の節句も終わって、しばらくした初夏の夕べ、僕は軽皇子の宮に呼ばれた。

「夏の夜と酒を楽しもう。そのまま宮に泊まっていくがよい」という誘いだった。

 宮の庭を眺めながらの食事だ。料理も夏らしく、鱧や焼き茄子、瓜などが涼しげな皿に盛られている。

「月が綺麗ですね」

 僕は、言ってから気付いた。あ、これって、アイラブユーの和訳。いや、そんなつもりで言ったんじゃない、誤解ですって、まあ、そんなのこの時代の人は知るはずないけど。

「ああ……」

 あれ? 軽皇子が乗ってこない。いつもと様子が違う。酒も料理も箸が進んでないし、さっきから上の空だし。

「どこか、お悪いのですか」

「え、いや」

「なんだかお元気がないように見受けられますが」

 軽皇子は耐えられなくなったように言った。

「その、そちは、我が天皇になれると思うか」

 ニヤリ。やはりあの舎人はお喋りだった。

 僕は素知らぬ顔をして言った。

「はい。殿下は正当な天皇家の御生れで、何より聡明でいらっしゃいます。殿下にそのお気持ちがおありなら、群臣も皆も、天皇としてお迎えすることでしょう」

「そうか、ふぁ、ふぁ」

 軽皇子は相好を崩して盃をあけた。

「ただ……」

 軽皇子は手を止めた。

「二、三、問題がありまする」

 皇子の笑顔が消えた。

「なんじゃ、その問題とは」

「ひとつは蘇我大臣をどう説得するかです。大臣はいずれ古人大兄を天皇にするおつもりです」

「そうじゃな」

「ただその点については、古人大兄はまだお若い、もし古人大兄が適齢になる前に天皇に何かあれば、それまでの中継ぎと言う形でなら何とかなりましょう」

「ふむ、で、二、三と言ったな。他は」

「もうひとつの問題は、山背大兄皇子のことにございます」

「山背大兄皇子?」

 軽皇子はピンときていないようだった。

 元々、他の皇族との交わりも少なく、人間関係に疎い皇子、山背大兄の現状もよく知らないのだろう。そういう僕も馬飼叔父に教えてもらったばかりなのだけど。

「亡き上宮太子の大兄皇子で、今上天皇と皇位を争った方です。殿下も覚えておいででしょう」

「ああ、そんなこともあったか、そういえば母上がヤキモキしておった」

「あの時は今上天皇が即位なされましたが、今でも上宮太子を慕い、次こそはと山背大兄を推す豪族は少なくありません。軽皇子と同様、山背大兄もその気になったら天皇になり得るということです」

「……」

 軽皇子は、言葉を失って青ざめた。

 本当にこの皇子はわかりやすいな。

「もし殿下が本気で天皇になりたいとお考えならば」

 僕は、皇子に顔を寄せた。

「策を立てるお手伝いをしとうございます。何卒、この私めにご命令くださいませ」

 そう言って僕は後ろに下がり、両手を床につき頭を下げた。

「殿下が位につくお手伝いを是非この私に」

 皇子はちょっと驚いた顔をしていたが、そのようなことをされ、悪い気はしないだろう。

「……そなたの気持ち、ありがたく思う」

「しかしまあ、今宵は遅い、続きはまた今度として、今宵は休むがよい。宿直の支度が整っておる。そなたの日頃の気遣いを労おうと思う。我がもてなしを受けていっておくれ」

 皇子はそう言って奥へ消えた。


 我がもてなし……? 食事以外にまだ何かあるのか? 

 何を言っているのか理解できないでいる僕を、年配の女官が案内する。

「中臣連はこちらの部屋へ」

 女官の後について、月明かりに照らされた廊下を渡って案内された部屋へ行くと、二組の寝具の用意がしてある。これって、時代劇でよく見るアレじゃないか? まさかの貞操の危機?  

 寝具の横、薄ぼんやりした灯りの中に、薄絹の着物を着た女性が座っていた。

 くぁwせdrftgyふじこlp! 

 軽皇子の妃、阿倍臣の娘の小足媛(おたらしひめ)じゃないか。むりムリ無理! 絶対無理! 

「誠に申し訳ありませんが、今宵はやはり自宅へ帰ろうと思います」

 接待を辞退しよう。当然じゃないか。

 女官が部屋の出口に立ちふさがる。

「皇子のせっかくのお気持ち、受け取れないと申されますか」

「あ、いや」

「私が皇子に叱られます」

 逃げられないのかよ。ああ、どうする、これは腹をくくって、ひと仕事するしかないか。まさかこんなところで僕の童貞が……。

 …………。…………。…………。

 はあ、はあ、がんばって奮い立たせ、なんとか彼女に恥をかかせずに済んだ。


 翌朝起きると、もう小足媛はいなかった。皇子も出かけていた。皇子が帰るまで待ってもよかったのだけれど、なんだか気まずくて僕は宮を出た。

 むちゃくちゃ非常識だが、きっとこれが軽皇子の親愛の表現なんだと思う。彼はこれまで対等な人間関係を築いたことがないのだろう。対等な友人、見返りを求めない友情、そういったものを知らずに生きてきたのだ。だから友情をどう表していいかわからない。感謝や親愛を信頼を示す方法を、物や金銭を贈ることでしか表現できない人間なのだ。そういう人はいる。

 で、僕は、今まで通り皇子と接していていいんだよね? 


 それから数日後、軽皇子から昼食に呼ばれた。

「どうじゃった」

「は? 」

「小足媛じゃ。そちを満足させられたか」

 僕は顔が赤らむのを感じた。

「私こそ失礼がなかったか、気にしております。殿下にお気を使わせるなど」

「そのようなこと気にするな。我は楽しかったぞ。我が妻が、そちに抱かれているときはどのような顔をしているのだろう、そちはどのようにこの女を抱くのだろう、と思ったら、なんだか興奮するのじゃ」

 そういうプレイかよ。でもまあ、そういうつもりなら、こっちも気が楽になった。


 この世界に転生して二年が過ぎ、三度目の冬を迎えようとしていたある日、僕が旻法師の講義から帰ると、屋敷が騒がしかった。

「あ、仲郎様、殿様が」

 トヨの父親が駆け寄ってきた。

「殿様がお隠れになりました」

 …………はい? 

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