第27話 町山英心⑩
「何かなぁ、何か、盛大に何かが始まりそうで尻すぼみになった感が否めないなあ、これが映画だったら金返せって言われるよぉ」
かわいくもないのに唇を尖らせる医者に辟易する。
「……充分に大事だったと思うんですけど」
「いやあ、僕的には期待値と結果が伴ってないよ、星2・5かな」
辛口すぎる評価だ。
「まあ、キャストがしょぼすぎるからここら辺くらいが限界なのかもね。ああ、心配しないでいいよ。町山さんのことじゃないから。西中の6人のこと」
「それは……どうも」
不謹慎極まるフォローに一体どう反応しろと言うのだろう。
「悪役がねえ、浅倉っていうチンピラクラスが精々でしょ? 女性陣2人が華があるのに釣り合ってなさすぎでしょ?」
だからこれはエンターテイメントではない。でも言ってること悔しいことに共感できてしまう。
中学時代。
教職員も含めて恐怖の対象であった西中の6人。
しかし、時がたちふたを開けてみれば取るに足らない小さな存在だった。
社会に居場所を作れず、かと言って変わることもできず、最も自分を大きく見せれていた時代の最も親しい仲間とつるみ続けることで潰れそうな心を保っていたにすぎなかった。
「変な生き物だったなぁ……」
「西中の6人のこと?」
「はい……」
自分よりも小さく弱い存在を甚振らずにはいられない矮小な生き物。
あの6人に対する評価は結論それだった。
「そういう人間もいるってことだよ」
背もたれに体重を預けながら山瀬医師が言う。
「人間……か」
自分が上等な人間と思ったことはない。むしろ情けなさが際立っているがそれでもあいつよりもマシだなって思える存在はやっぱりいて。
あの6人を自分と同じ人間のカテゴリーに入れることに若干の抵抗がある。
「町山さんに限らず世の中の人ってちょっと人間って生き物を特別視しすぎな気がするんだよね。賛美して美化されるものでもなければ、滅ぼすべき悪しきものってわけでもない。単に地球の土地を間借りして生息するたくさんいる動植物の1つにしかすぎないんだよ」
哲学的なのか、乾いた人生観なのかよく分からないことを語りだす山瀬医師。
「西中の6人も頭の中身がおめでたいってだけでそれもまた人間なんだよ。僕も人からずれてることは理解してるけどこんな自分も人間であると自負してる。それに」
山瀬医師の人差し指がこちらに向けられる。
「あなたや南波さん、新城さんもね。時々、自分たちは普通の人とは違ってます。特別ですって振舞うけど大きく分けたらどこまで行っても人間っていう個体にすぎないんだよ。手前勝手に区分けするのやめてくれない?」
「あの……」
「何?」
「気にしてました?」
「うん。たまにそういう風に見せるムーブが鼻についてた」
正直で失礼な返答に思わす苦笑する。
「湯沢って言ってたっけ。今回の黒幕。その子もどうせ斜に構えてるようなガキでしょ。鼻っ柱へし折ってあげるから今度連れてきてよ」
いずれは紹介しようかと考えていたが、気の迷いだったと後悔する。この男に会ってしまったら世の中に対する見方が歪んでしまいかねない。
でも、そうか。
山瀬医師の言葉を頭の中で反駁する。
あんなやつらでもやっぱり人間なのか。
僕には理解が及ばない考え方。人を傷つけ、その人生に暗い影を落としても何とも思わない精神。たとえ思いつめて死んでしまっても、それが大切な人でもない限り、あっ死んだとしか思わないのだろう。
いや、それすらも思わないのかもしれない。
誰の目から見てもまごうことなきろくでなしだ。
でも僕はある思いを抱いてしまっている。
遥さんや新城さんに知られてしまったら絶対に怒るだろう思い。
人を顧みない精神、その心の有り方。
それが少し。
ほんの少しだけ。
「羨ましいなぁ……」
そう思えた。
「そういえば町山さん」
「はい」
山瀬医師に独り言は聞こえていなかったらしい。
「湯沢幹のこともあったし、前々から気になったこと聞いていい?」
「はあ……どうぞ」
どうせこっちの許可などなくてもズケズケと聞いてくるのだから反対しても意味がなかった。
「湯沢幹ってさ、影をちぎって小野さんとそのお友達を殺したんだよね?」
もう少し言葉は選んでほしいがその通りではあるので黙って頷く。
「僕は常々思ってたことがあるんだ」
もったいぶった言い回しだ。
心拍数があがる。
この先の言葉が何となく分かってしまっているからだろうか。
「町山さん。湯沢幹と同じことできるんじゃない?」
カチコチという機械的な音が聞こえた。
診察室に飾られた時計の針の音だった。半年通っているが初めて気づいた。
「僕は性格がねじ曲がってるからね。テレビやネットで紹介されるような技術でも考えることは、おおスゴイって感想の前にまずその技術がどういう風に悪用されるんだろうって考えるんだよ」
随分と世間が捻じれて見えてるらしい。
「町山さんから力のことを聞いたときも真っ先に思ったんだ。掴んで消すことができるんなら、消さずに別の誰かに擦りつけることもできるんじゃないかって。あなたの力は神の奇跡であると同時に悪魔の厄災でもあるんだってすぐに思い至ったよ」
山瀬医師が前のめりの態勢でこちらの顔をのぞき込む。
「人間は簡単に道を踏み外すよ。湯沢幹が居場所という名の縄張りを守るために一切の容赦をしなかったように。町山さんは本当に一度もないのかい? 人に気づかれることもなく赤子の手を捻るように簡単に人を死に至らしめてしまえる力。それを人生で一度も行使しなかったと本当に言えるかい?」
鈍い眼光だった。
疑念と確信が入り混じってこちらに嘘偽りを許さない輝きがこもっているそんな目だ。
時計の秒針がやけに耳に響く。
これだけの沈黙がこの部屋には訪れたのは初めてだ。
「なんてね」
十数秒後。先に沈黙を破ったのは山瀬医師のほうからだった。
いつもの道化を演じ始める。
「町山さんにそんな度胸あったら今頃とっくに南波さんたちとしっぽりやってるよね」
遥さんには足元に及ばない直感が囁く。
このまま流せば山瀬医師がこの会話を僕に振ることは二度とない。
僕は今、バトンを渡された。
どう扱っても自由なバトンだ。
放り投げることも、なかったこととして見逃すのも自由であり、そして。
正しい形で相手に返すことも自由なものだ。
ずるいことをすると思う。
踏み込むだけ踏み込んでおいて後はお前がやれと言うのだ。
フウッと息を吸い込む。
湯沢幹が腹の底を全てさらけ出すのを目の当たりにして、いつか自分も誰かに話す日がくることは覚悟していた。
もし初めて話すのなら遥さんと新城さんだと思っていたんだけどな。
「……夢を見るんです」
※
怒号と泣き声がよく響いた職場だった。
失敗続きの就職活動の中でようやく掴んだ内定に浮かれてしまったのがいけなかった。遥さんが全力で反対したことにムキになったのもそれに拍車をかけていた。
求人内容は嘘だらけだった。
まず給料が理由をつけられて天引きされた。手取りはほとんど残らなかった。
残業は当たり前。休みもほとんどなし。それどころか上司の野暮用を押し付けられることがほとんど。
残業代も当然のように出ない。
それどころか何かミスしようものなら罰金を上司に支払わされた。
僕も随分な額を吸い取られた。
そもそも新人に対する教育環境がまともに機能していなかったのだから。
みんな目が濁っていた。
怒鳴るか泣くかの2種類にしか分かれていたと思う。
もちろん僕は怒鳴られる側だった。
髪を引っ張られて、土下座をさせられて、自分は人間の屑ですと人が見てる前で宣言させられたこともあった。
影を背負っていない社員を探すほうが難しかった。
祓っても、祓ってもキリがなかった。祓った人間が数分後に新しい影をまた背負っているなんてことが頻発した。
会社全体が漆黒の影をまとっている状態だった。
ここはダメだ。
そう気づくのに1年もかかってしまった。
気づくのにそれだけの時間を有した時点で僕は壊れかけていたのかもしれない。
辞めるか、逃げるか、何かしら動くべきだったのだ。
でも、僕は気づくのが遅すぎた。
彼が入社してきてしまったのだ。
初めてできた後輩だった。
僕と同じく就職に失敗し続けて、ようやくたどり着いたのがひどい職場であったというどこにでもありふれた不器用な学生だった。
小太りでよく汗をかいていたことを覚えている。そういえばアニメも好きだった。キャラクターグッズのハンカチやキーホルダーを持っていたっけ。
仕事は、僕ごときがドン引きするくらいできなかった。
人の話は覚えられない。
質問ができない。分からないことだらけの中でそもそも何が分からないのかすら分かっていない。
メモができない。あらかじめ取らせても話の要点をまとめることができない。それどころか時間がたてばメモの存在自体を忘れている。
備品の名前も、人の名前すらもまともに覚えられない。
言っては悪いがどこに行ってもやっていくのが難しい、そんな男だった。
あまりのひどさに社内において彼の役割は何もなかった。
いや違う。1つだけあった。
人身御供だ。
社内での立場は当然の如く最底辺。常に上司の標的となった。
生意気な社員を何人辞めさせたのか、その数を、辞めさせ方を武勇伝として語る男だった。人の心を抉る語彙力は豊富で、人のどこを攻撃すれば折れるのかを本能で理解しているような男だった。
これで無能であれば笑えるのだが仕事は社内でもできる部類だったので質が悪かった。
後輩が的にされないわけがなかった。
上司に怒鳴られない日はなかった。
人目を憚らず泣いて謝罪をしても聞き入れてもらえず、耳元で怒声を浴びせられた。
好きなアニメキャラクターグッズをあげつらって、何十年前の価値観で犯罪者予備軍となじり目の前でグッズを踏みつけた。
罰金も他の人間の倍額を支払わされていた。
庇う者は誰もいなかった。
自分が標的にされる恐怖もあっただろうが上司の標的になっているのが最底辺の人間であり、守るメリットも少なかったというのも大きな要因だった。
後輩が甚振られている間だけは少なくとも自分は安泰だという安心感すら覚える者もいた。
後輩の尻ぬぐいはいつも僕だった。彼ほどではないが僕もよく標的にされていた。いつの間にか教育係に仕立て上げられて詰め腹を切らされた。
見捨てるべきだった。
僕自身、すでに余裕などなかった。
ただ後輩はそれ以上に余裕がなかった。
彼の背負った影は他の社員の比じゃなかった。
蠢く身体と咀嚼音。いつ心が壊れて、爆発してもおかしくなかった。
笑った顔を見た事がない。
思い出すのは泣き晴らした顔とそれを拭うためにビチャビチャになった両手のことばかりだ。
謝罪の言葉以外ほとんど聞いたことがない。
いつも申し訳なさそうにすみませんと謝っていた。
『人間になりたい、それがダメならロボットになりたい』
謝罪以外で記憶に残ってる言葉はこれくらいだ。
どういう意味で語り、どんな返事を期待していたのかは分からない。僕はその言葉に何も返さなかったのだから。
彼の仕事も手伝いながら、彼の影を祓う。それだけで精一杯だった。
元々、大したことのなかった許容量の限界はある日突然やってきた。
高熱にうなされた。身動きができないほどだった。
何とか上司に連絡は取れたが罵倒とともに倍額の罰金を言い渡された。それ以外は朦朧として覚えていない。
出社できるまでに2日かかった。
まだ微熱があったがそれ以上休むことは許されなかった。
2日ぶりのオフィスは代り映えしなかった。デスクで作業する人間の顔つきは軒並み死んだままだった。
影だけが元気に蠢いている。
変化らしい変化といえばオフィスの隅のデスクにある物が置かれていたことぐらいだろうか。
花瓶の中に一輪の花。
それが置かれているデスクは後輩の使っていたデスクだった。
後輩の姿はオフィスにない。
それが何を意味するのか分かっていたが分かりたくなかった。
上司が僕の名前を呼んだ。
重い足取りで上司のデスクへと赴く。
上司の背後には何もなかった。このオフィスにおいては唯一の存在と言っていい。
要件は罰金の要求と仕事の埋め合わせをどうするのかという詰問だった。体調を気遣う言葉は一言もなかった。
罵詈雑言が右から左へと流れていく。意識はデスクの花に奪われたままだった。
一通り暴言が終わった頃合いに彼が座っていたはずのデスクを指さし尋ねる。
あれは、何ですか? と。
上司は舌打ち交じりに答えた。
死んだ、と。電車に轢かれて、と。
合点がいった。
そうか。やっぱり死んでるのか、と。
僕が寝ている間に、僕が知らないところで。
僕の後輩は死んでしまっていた。
『やっぱりお前と同類だったわ、あいつ。使えねえ分際で被害者意識だけは高くてよ、電車に轢かれたのも俺への当てつけのつもりだぞ。お前が吹き込んだんじゃねえだろうな?』
うるさかった。
今まで耳にしたどんな騒音よりもうるさかった。
耳が痛かった。
頭が痛くなった。
目線が彼のデスクから外れない。
こっちを向け、と言われている気がしたがそれでも外せなかった。
やかましかった。
ようやく視線を動かす。
僕が立つ場所から最も近い席に座る同僚。その頭上には当然のように影が踊っている。
手を伸ばした。
掴み取る。
ブチっという千切れる音が聞こえた。
うるさかった。やかましかった。
今だけでいい、ほんの少しだけでいい。
黙ってほしかった。
手には一握りの影。
汚い唾を飛ばし続ける男にそれをぶつけた。
その日の昼以降、上司は職場から姿を消した。
自宅で首を吊ったという連絡が来たのはその翌日だった。
※
「……殺すつもりはありませんでした」
往生際の悪い犯罪者のような言い訳が漏れ出る。
「人殺しって大抵そう言うよね」
「……すみません」
山瀬医師は容赦がなかった。
「それで? 腹の底に隠してた秘密をぶちまけた気分はどう?」
「……すっきりは、しないですね、残念ながら」
すっきりはしない。腹の底は未だに淀んだままである。
「町山さんの鬱の根底にあるのって、結局のところ罪悪感なわけ?」
目の前にいるのは自らを人殺しと自白した男であるにも関わらず、山瀬医師の対応はのんびりしたものだった。
「罪悪感……罪悪感かぁ」
腕を組み考え込む。
そうかな、そうかもしれない。いや、違うのか。
「……分かりません」
情けないがこれが本音だった。
「後輩に対しては、あるかもしれません。夢に出るくらいだから、間違いなく、後悔、してると思います。ただ、僕も、本当に一杯いっぱいで、本当にやりようがなかったって言い訳が浮かんじゃって……。ただ、上司に関しては、正直、そんなには、ないですね。あれくらいで死ぬんだ、みたいな感想しかなくて」
「……結構ひどいね。町山さんも」
僕自身も自分の言葉に引いている。
湯沢幹が僕に話したときもこんな気持ちだったのだろうか。
「死んだって、聞かされたとき、あんまりにも現実感が、なさすぎて、それで僕、行ってみたんです」
「どこに?」
「上司のお葬式です」
「マジ?」
大マジだ。
現実感がなさすぎた。あっけなさすぎたのだ。
この手で命を奪ったという実感がまるでないままで事実だけが残ってしまった状態が気持ち悪くて、気色悪かった。
だから葬式に出席した。
本当に死んでいるのかどうか確認するために。
何も感じていない気持ちの悪いこの感情をどうにかするために。
「……泣いている遺族がいれば、罪悪感で、死にたくなったのかもしれないですけど……」
「その口ぶりだと何かあったみたいだね」
僕は頷く。
上司には奥さんと高校生の長女、中学生の長男がいた。葬儀にはもちろん参加していた。
「葬儀中、奥さんはあくびしてて、娘さんは事あるごとにスマホいじってて、息子さんはゲーム、してました」
山瀬医師が噴き出した。余程ツボにはまったのか顔を俯かせ机を数度たたく。
不謹慎極まりないがそこまで行くともはや笑ってやるのが供養なような気がする。
糸が切れたのはその瞬間だったと思う。
自分から首を突っ込んだ末に僕は2人分の命を背負い込むことになった。
その内の1人に至っては家族にも悲しんでもらえないようなしょうもない命だ。
それでも背負っていかなければならない、これから先、死ぬまで。
馬鹿らしい、そんなことをする必要はないと頭で分かっても、言い聞かせても、心がそれを許さなかった。
逃げることも、後輩を逃がすこともせず、何もかも中途半端な、思考停止の自分の馬鹿さ加減が招いた自爆。
それが町山英心という男が壊れるまでのバカバカしい喜劇だ。
笑ってもらうくらいがちょうどいい。
「……警察、行きますか?」
ひとしきり笑い終わった山瀬医師に尋ねる。
「誰が信じるのさ、こんな話」
分かってる。言ってみただけだ。
湯沢幹と同じだ。僕を裁ける者はこの世界にはいない。
恐らく遺族もあのしょうもない命に対して復讐など考えないだろう。
晴らしようのない心の淀みだけが今日まで残ってしまっている。
「あぁ、面白かった」
僕の喜劇はどうやら大うけだったらしい。
「それは、どうも」
「おっ、開き直った?」
「まあ……」
笑ってないとやってられない。
「それにしてもさ」
頭の後ろで手を組みながら山瀬医師が呟く。
「町山さんが羨ましいよ」
「……何がですか?」
また嫌味か皮肉だろうか。
「僕には人を殺した経験がない」
「いや……あったら、まずいです」
ない方がいいだろ。そんなもの。やはり嫌味か。
「ないほ……」
「そして、人を助けた経験もない」
遮られた言葉が喉の奥に引っ込む。
「僕はどっちもやったことがない。羨ましいよ。歪んでる自覚はあるけど、一応、普通の子と同じような憧れを持ってたこともあるんだよ。こう見えて。正義のヒーローと悪のカリスマ。見方によっては町山さんはどっちにもなれている」
「……先生」
「何?」
「さっき、人間も所詮動物にすぎないとか……特別なものではないとか、言ってませんでしたか?」
「人間は感動を食べて生きていける動物でもあるんだよ」
どこかで聞いたようなフレーズだ。
ダブスタもここまで来ると清々しい。
それはともかくとして正義のヒーローはともかく、悪のカリスマは絶対に違う。
僕がやったことはしょぼい命を奪ってしまっただけだ。あの上司がいなくなって助かった人はいたかもしれないが。
「それはちが……」
「違うんなら、あの女の子たちがそんなに執着するはずないでしょ」
また言葉が遮られてしまう。
「羨ましいよ」
今度は頬杖をつきながら3度同じ言葉を言う。
皮肉かと思ってその目を見るが違った。
もう手に入らないものを見るように、憧れを抱いているようなそんな眼差しだった。
「今までの人生が意味ないことだらけだったように思えてるかもしれないけど、そんなこともないでしょ? たとえば近藤勇也と小倉夫妻」
挙げられた名前に身体がびくつく。
『町山、お前ってさ、今、充電中だろ?』
浅倉の1件からの別れ際、近藤君は僕にそう問いかけてきた。
『仕事柄、そういうの分かるんだ。今はこんな訳わかんない状態になってさ、そんな余裕お互いないんだけど。俺も、健も、澄子も。俺たちが今、生きてるのはお前のおかげなんだ。本当に感謝してる』
近藤君は両肩を強く握り、まっすぐに僕を見据えた。
『今すぐじゃなくていい。今回のことが落ち着いて、お前に気力が戻ったらその時には俺たちに会ってほしい。今度こそちゃんとお礼が言いたいんだ。そんでもって、自惚れてもいいのなら俺たちをお前の充電の足しにしてほしい』
いつでもいい。待っている。
真摯に、大事に、言ってもらった言葉だった。
でも素直に受け入れることができなかった。
やっぱり僕はろくでもない。
「もらえる感謝はもらっちゃったら?」
山瀬医師が楽しそうに笑う。こっちの考えを読んでいるのだろう。
「……はい」
心に納得はない。そんな大それた人間ではないからだ。
しかし、これ以上ごちゃごちゃと考えるのも何か違う気がした。
彼らに手を伸ばしたのは自分が見たくない、傷つきたくないからだ。
でも、そこで近藤君たちの人生が変わったのもまた確かなのだろう。
今はまだ受け止められない。
でも、いつかは。いつかは自分に向けられた、ありがとう、をちゃんと受け入れるようにはなっていたいとも思う。
僕の様子に何度か頷くと山瀬医師が再び口を開く。
「で、今後は町山さんどうしたいの?」
どうしたい。
診察の中で幾度となく聞かれた言葉だ。
いつも言葉に詰まってしまう。
壊れたコンパスのように向かうべき指針がない。だから何も答えられなかった。
しかし、今日は何故か違った。
「……独り立ちできる、まで、回復したら、遥さんと新城さんの2人に、この話をしたいと思います」
これだけはやりたいという目標とも言える何かができていた。
まるで映画のような劇的なことが起こった。
それでも僕の日常は大して変わっていない。
1日中身動きが取れないときはあるし、泣き叫びたくなるときもある。
僕の鬱は未だに祓えない。
小さく、ちっぽけな目標を立てて生きていくしかない。
「先は遠そうだけどね」
そう言いながらもその言葉に茶化したような色はない。
「……2人には幻滅されるかもしれないですけど」
そうなったら未だに名前をつけることのできないこの同居生活も終わってしまうのかもしれない。仕方のないことかもしれないけど。
「いや……町山さん。ちょっとあの女の子たちを甘く見すぎだよ。もし町山さんが今この場で僕を殺しちゃったら、あの2人、警察を呼ぶよりも先に死体の隠し場所を探し始めるタイプだよ」
何言ってるんだ、こいつ。
小さくてもいい。
まずは目標を立ててみようか。
少し持ち直したら、2人には絶対に話す。ちゃんとお礼は言う。
それができたら近藤君たちに会うのもいいかもしれない。むずかゆかっただけの感謝がその時だったら別の受け取り方ができるかもしれない。
それもできたら……彼の墓に行けるかもしれない。
人間になりたいと泣き、ロボットになりたいと嘆いた小太りの不器用な後輩にそのときなら何かを言えるかもしれない。
それが終わったなら、その時には……さっさと転院しよう。
生きていかなければならない日常は今日も続いていく。
僕の鬱は祓えない 集落 調停 @waheipease2024
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます