第20話 町山英心⑨

「すんません。澄子の方はもう家に帰ってたみたいで連絡ついたんですけど、健の方は残業してるみたいで、あいつ電源切れてるのか繋がらなくて」

 小倉夫妻の元へと向かう車内。

 近藤君は何度もスマホを耳に当てて連絡を試みていた。

「奥さんに職場に直接電話かけるように連絡して。それで、まだ職場にいるようだったらそこから絶対に動かないように伝えてちょうだい」

「はい」

 運転をしながら遥さんが指示を出す。助手席に座る近藤君もすぐに実行に移す。

 電話越しから慌てたような女性の声が漏れ聞こえてくる。近藤君は努めて冷静に遥さんの指示を電話相手に伝えていた。

 重苦しいし、息苦しい空気だ。

 時間の流れが恐ろしくゆっくりに感じられる。

 嫌な時間というのはどうしてこうも長いのだろうか。

 隣に目を向ける。

 新城さんが緊張した面持ちで身体を強張らせていた。

 緊張しているのだろうか?

 影は見当たらないけど心配になる。

「あの、大丈夫?」

「えっ?」

 何か考え事をしていたのか、僕から呼びかけた途端にビクっと肩を震わせた。

「えっ? 何? ごめん、ちょっと嫌な事思い出して」

「……嫌な事?」

「先輩のアパートに向かってたときの道中の空気に似ているなと思って」

 それに対して一体全体どう返事をしろと?

 僕が死にかけだったとき、こんなにも切羽詰まっていた状態だというのか。

 本当に勘弁してほしい。

 自分のせいで他人が迷惑を被っていたと聞かされた時の罪悪感は半端じゃなくしんどいのだ。

「……ごめん」

 本当にこれしか言えなくなる。

「そう思うなら死にかけないように気をつけてください。ホントに生きた心地しなかったですから」

「……はい」

 いつの間にか通話を終えていたのか露骨に眉をひそめた近藤君がこちらに振り向いていた。

 僕らの会話が聞こえていたのだろう何か言いたげだ。

「近藤君、闇深くて気になると思うけど今はこっちのことに集中して」

「あっ、はい」

 遥さんから釘を刺された近藤君は再び前を向く。

 恥を全部さらさないで助かった、とこんな時に思ってしまうのはいささか無神経だろうか。


 それからいくばくも経たないうちに近藤君のスマホに小倉健からの連絡が届いた。どうやらまだ職場にいたらしい。

「今、そっちに向かってる。理由は到着したら話すから絶対にそこから動くなよ。澄子も俺の方から誰が来ても絶対に家から出るなって言ってあるから心配するな。同僚はいるか? 何人かいる? 申し訳ないけど頼んで一緒にいてもらえ。その方が安全だ。いいか? 絶対に外に出るなよ」

 何度も念を押すように厳命する近藤君。変なフラグが立ちそうだが、余程のことがない限りは多分大丈夫だろう。

「もうすぐ着くよ」

 ナビを見ながら遥さんが告げる。

 喫茶店から出発して数十分、僕らを乗せた車は工業団地へと入り込む。

「あそこですね」

 その一角にある灯りの灯った工場を近藤君が指さす。

「ああもう邪魔」

 遥さんが悪態をつく。

 前方を見ると工場手前の道路。その路肩に1台の車が停まっていた。ワゴン車だろうか割と大きめの車両だ。大して広くない道なので幅をとってしまっている。

 急いでいるときにこういうのはちょっとイラっとする。

 ぶつからないように注意しながら車を横切る。

 普段なら気にも止めなかっただろう。

 急いでいたせいもあったのか、誰が運転しているのだろうかと目で追ってしまった。

 体格的に男だろうか。身をかがめていてそれ以外は見えない。

 いや違う。

 それ以外のものが見えてしまった。

 男の背後、蠢く何か。

 もっとよく見ようと身を乗り出すが車は通りすぎ工場の敷地内に入り込む。

「この中にいるはずです」

 車が停まると近藤君が先陣を切って車から降りようとする。

 嫌な予感がした。

 留めるために口を開きかけたときだった。


「出ちゃダメ!」


 つんざくような遥さんの叫び声が車内に響く。

 その直後。

 後方からけたたましい音が聞こえてくる。

 後ろを振り返る。

 巨大な物体が近づいていた。それも凄まじいスピードで。

 逃げる余裕はなかった。

 声をあげる暇もなかった。

 目をつむることしかできなかった。経験したこともない衝撃を想像して身を強張らせる。


 轟音が響いた。何かがぶつかり合って潰れひしゃげる音が耳に届く。


 ……轟音はした。しかし、予想した衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。

 恐る恐る目を開ける。

 車の後方、先ほどまで近づいてきていた物体はもうなかった。

 その代わりにそこに立っていたのは1人の女性だった。

 新城さんだ。

 ゆっくり横を向く。

 先ほどまで新城さんが座っていたはずの席はもぬけの殻だった。彼女側のドアが開きっぱなしになっている。

 運転席側を見る。

 安堵の表情を浮かべる遥さんはホッと息を吐いていた。

 唖然とした顔を浮かべる近藤君は、未だに何が起こったか理解できていないようだった。気持ちは分かる。事情を知っている僕でさえ今起こったことが信じられないでいる。

「みんな大丈夫?」

 仁王立ちしていた新城さんがこちらを振り向き安否を確認してくる。

「こっちは大丈夫!」

 あっけに取られすぎて返事ができない僕と近藤君に代わって遥さんがそれに答える。

「降りよう」

 シートベルトを外し車外へと出ていく。まだ衝撃から冷めきっていないが釣られて僕らも外に出る。

 先ほどの物体、多分車だと思うけどその行方を捜す。

 車はすぐに見つかった。工場の壁に衝突した状態で停止していた。

 余程の衝撃だったのだろう。壁には大穴が開けられフロント部分がひしゃげて大破してしまっている。

 衝撃音を聞きつけて工場入り口から数人の人間がぞろぞろと出てくる。

「勇也!」

「健か?」

 ひと際身長の高い男が近藤君の名前を呼びながら近づいてきた。

 見覚えがあった。

 あの頃も中学生にしては高身長だったが記憶よりもさらに伸びている。栄養を失った枯れ木のような印象を持たせる男だ。

 彼が小倉健なのだろう。

「何? あれ、どういうこと?」

「……悪い、俺にも何が何だか……」

 慌てたようすで状況を問いただしているが近藤君の返事は要領を得ていない。

「とにかく警さ……」

「近づいちゃダメ! みんな離れて!」

 叫び声により会話が断ち切られる。

 目線が自然と車に向かった。

 壁に埋め込まれた車から蹴りつけるような乱暴な音が聞こえてきたと思ったら、後方のリアゲートのドアが開かれた。

 出てきたのは大柄な男だった。

 180は超えているだろうか。肩幅も広く黒のジャケットと刈り上げた金髪が威圧感を増長させている。

 肩で息をしながら男はこちらを睨みつけている。その手に持っているのはパイプ状の鉄棒だ。

 怒り狂った野生動物を彷彿させるその姿は、誰の目から見ても男の状態が正常ではないことを物語っていた。

「……浅倉?」

 近藤君か小倉健だろうか。

 どちらかが獣をそう呼んだ。

「あああああああああああああああああああああああ!」


 浅倉と呼ばれた影を背負った獣が咆哮をあげる。

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