第2話 小野夕夏

 プラットホームに響く笑い声が不快で仕方なかった。

 私への当てつけのつもりだろうか。

 どうしてこうなった?

 仕事も順調で職場の人間関係も良好。付き合っている彼氏とも順調だった。

 体が重い。

 仕事に行けなくなってもう何日目だろう? 一週間くらいまでは数えたけどそれ以降は億劫になってしまっている。

 あぁ、心も重い。

 病院で処方された薬も全く効果が感じられない。藪医者め。恥を忍んで通ってやっているというのに碌な仕事をしない。

 ホームに設置されたベンチに座り込み、耳を塞ぐ。

 ダメだった。若い女たちの笑い声であったり、赤ん坊の泣き声などがどうしても耳に入ってきてしまう。

 誰も私に配慮しようとしてくれない。

 その事実に苛立ちが起こってしまう。

 中央線ではあるが人は多くない。

 病院に行くためにそういう時間帯を選んだ。間違っても知り合いと鉢合わせたりしないように細心の注意を払っている。

 サラリーマンに、子連れの主婦、背中を曲げた老人、女子高生の集団。人は多くはないとはいえ、プラットホームにいる人種はバラエティに富んでいる。

 以前だったら歯牙にもかけなかった人間たちがやたらと目につく。

 揃いも揃って能天気で幸せそうに見えた。

 何で私なの?

 何十回、何百回と考えてきた。

 鬱だの、精神を病んだだのという輩が世の中に蔓延っているというのはネットやテレビを通じて知っている。

 職場でもそれが原因で休職やら退職した人間もいた。

 甘ったれた弱い人間の言い訳だと切り捨ててきた。

 自分の無能を棚に上げて社会に貢献できない存在などゴミ同然だろうと。

 こういう存在の中には生活保護を受けている輩もいるという現実が腹立たしかった。自分が汗水垂らして納めた税金がそんなやつの懐に収まるなんて納得できなかった。

 何が鬱だ。何が精神病だ。そんな弱者の幻想に縋りつかなければ生きていけないようなポンコツが人間様に寄生するな、と。

 そう思っていた。いや、その思いは今でも変わらない。

 変わりはしないからこそ余計にみじめだった。

 朝が起きれなくなった。

 子供の頃から欠かさなかったスキンケアも億劫になった。それどころかシャワーを浴びることすら凄まじい気力を使うことになった。

 人と話すのがしんどくなって彼氏とも最近は連絡をとっていない。

 何も感じなくない日もあれば、叫び出してしまったり、泣き出してしまったりと感情のコントロールがつかない日もある。

 自分の身体、自分の心がまったく思い通りにならなくなって久しい。

 限界を感じて休職を願い出たときの上司の顔が忘れられない。

 口調こそ心配を装っていたが言葉の節々から面倒くさいという態度が表れていた。

 私がこの職場にどれだけ貢献してやっていたと思っている。この無能が、と腹を立てた。

 同僚たちも私が職場を後にする際には声をかけるどころか、目を合わせようともしなかった。

 その中には私が目をかけてやったやつもいた。

 声くらいかけろ恩知らずが、と心の中で罵った。

 誰も彼もが私のことをバカにしてるように思えてならなかった。

 悔しくて、恥ずかしくて、アパートまでの道中、ずっと泣いていたのを覚えている。

 両親には現状を伝えてない。

 恥ずかしくてとてもできない。

 近況を尋ねてくるメールさえも正直煩わしくてしょうがなかった。

 逆に彼氏は、始めうちこそ心配していたがここ最近はメッセージすら寄越さなくなった。

 こちらの方から拒絶したとはいえ、薄情すぎると憤った。

 滅茶苦茶な思考に視界がにじむ。

 どうしてこうなった? 何で私なんだ?

 なんなのだ、これは。私が一体何をしたというのだろう。こんなみじめな思いをしなければならない謂れはないはずだ。

 こんな末路にふさわしい人間は他に探せば山ほどいるだろうに。

 ……分かっている。こんなことを考えても無意味であることは。

 現に今日も病院に向かうためにこうして化粧をしていない顔をマスクで覆い、目立たないように地味な服を着て、足を引きずるように動かしている。

 少しでも早く治すために、少しでも早く自分にふさわしい場所に戻れるように。

 みじめさに耐えて精一杯あがいているのだ。

 この苦しみを、頑張りを誰でもいいから誉めてほしかった。

 鞄からスマホを取り出す。

 画面に写し出されたのは男女6人組の写真だ。私もいる。

 去年くらいに撮ったものだったか。

 少しだけ気持ちが和らいだような気がした。

 中学の頃に出会ってからもう10年以上の付き合いになる。

 固い絆で結ばれた大切な仲間だ。付き合っている彼氏よりも、実の家族よりもずっとずっと私の人生の根幹を支えてくれている。

 彼らに連絡しようと思ったことはある。

 でも、それはできなかった。

 恥ずかしいとかではない。

 僅かながらに残っている意地だった。

 いつでも対等な6人だった。

 楽しいことも、嬉しいことも分かち合ってきた。

 でも悲しみまで分かち合いたいとは思っていない。この6人の間にそんなものを持ち込みたくはなかった。

 彼らの前では、いつでも明るく着飾ったオシャレな女、小野夕夏おのゆうか

 そうでありたかった。

 こぼれそうになる涙を拭う。

 まだ遅くない。まだやり直せる。

 崩れ落ちそうになる心を叱咤する。

 変顔を決めている写真の中の私。自分であるはずなのにどこか他人に見えてくる。

 でもいつか、いつかはこの私が私だと思える日がくるはずだ。戻ってくるはずだ。

 私は私を取り戻す。

 写真を拡大する。

 画面に写る1人1人に指を添わせ、その名前を呼ぶ。

 必ず治して、会いに行くという決意を込めて。

正道まさみち将吾しょうごあや奈美なみ、とも……」

 目に写るのは上半身を裸にしておどけている男。

 その名前を呼ぼうとした瞬間だった。

 鈍器で頭を殴られたような衝撃とともに別の言葉が喉から漏れ出る。


「あ、智明ともあき死んでるじゃん」


 あれほど煩わしかった雑音が一瞬で掻き消えた。

 仲間内でいつもおどけたムードメーカーであり、娯楽を考えるアイディアマン。集まったときはいつだって腹の底からみんなを笑わせてくれた。

 そうだ、そうだった。

 三か月前に死んだのだ。

 身体がぐらつく。

 あれ? 私、忘れてた? 智明、死んじゃってたの今の今まで頭に無かった? 大事な友達だったのに?

「電話……、電話しなきゃ……」

 スマホを操作しようとするが指が思うように動かない。

 智明死んだの、みんな知ってるの? あっ、そうだ。葬式にはみんな出てた。

 誰か、誰かの声が聞きたい。

 正道、将吾、彩、奈美。誰か……。


「……奈美も死んじゃったじゃん」


 親友はもう一人死んでいることを思い出す。

 写真に写るチャーミングな笑顔がトレードマークの女がそれだった。

 智明の死から幾分もたたないうちに後を追うかのように彼女も死んでいた。

 乾いた笑いが漏れる。

「私……終わってるじゃん」

 親友が死んだ。二人もだ。自分にばかりかまけてそんな大事なことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

 たくさん泣いたはずだった。

 もう誰もいなくならないでと残る親友たちにすがったはずだった。

 それなのに……忘れていた。

 何で忘れてたんだっけ? とりあえず誰かに連絡、いや、一度帰ろうか? 病院どうしよう、キャンセル? でもそれだと仕事に戻れない、いや、そうじゃなくて。

 頭に靄がかかったように考えがまとまらない。

 支離滅裂な思考とは裏腹に体はスマホを持ったまま硬直したかのように動かない。

「……ホントに終わってない?」

 再び同じようなセリフが漏れ出る。

 心はぶっ壊れたまま、仕事も、恋人も失いかけて、取り戻す目途もまるでたたず。

 それどころか。

 今の今まで私は。

 人生を形作ってくれた、彩(いろど)りを与えてくれた仲間の存在を。

 忘れていた。

 ひょっとして、ひょっとしなくても。

 わたしは、もう。

 手遅れなのではないか。

 プラットホームに放送が鳴り響く。

 それを合図にするかのように涙が頬を流れる。

 身体から急速に何かが失われていくのを感じた。

 、そんな感覚だ。

「……帰りたい」

 こんな言葉が自然と漏れた。

 親友たちと笑いあった日々。

 ふざけあった日々。

 無くして改めて気づかされた光輝く宝石のような日々。

 そんなあのころに無性に帰りたくなった。

「帰りたい」

 帰るってどうやって?

 どうすれば戻れる?

 分からない。けど帰りたかった。

 電車が近づいてくる音が聞こえる。

 ふと。

 頭にある考えが浮かんだ。

 別の私がそれを全力で止める。

 でも、別の私はそれを勧めてきた。


 短いようで長い奇妙な葛藤だったが、それもすぐに終わった。


 スマホと鞄をベンチに放り投げた。マスクも投げ捨てた。

 重かった身体が嘘のように動く。

 一瞬の浮遊感を感じ取った。

 心地よい感覚だった。

 けたたましいブレーキ音が福音のように思えた。

 そこからは。

 

 何も分からなくなった。

________________________         

 その日の夕方のニュース。

 駅のホームから女性が飛び降りたことが報じられた。女性は電車に跳ねられて即死。ダイヤが大きく乱れてしまった旨が報じられる。

 気の毒に感じる者もいれば、はた迷惑だと呆れる者、そもそも欠片の興味も示さない者など多種多様だった。

 しかし、それらはやがて続々と押し寄せてくる情報の波に容易く飲まれて忘れ去られることとなる。

 名前を報じられることはなかった。

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