僕の鬱は祓えない
集落 調停
第1話 町山英心
人間になりたい。それがダメならせめてロボットになりたい。
そうだね。
そうなれたならきっと。
もう少し楽になれるんだろうね。
時刻は18時45分。待合室に他の患者はいない。スムーズに診察室へと通された。付添人はいつも通り待合室で待機してもらう。
受付に促されるままに入るとゲーミングチェアのような派手な椅子に座った山瀬医師が僕を出迎えた。
「町山さん、相変わらず死相が出ているね」
顔を合わせて早々に放たれる暴言もいい加減慣れたものだ。
腹を立てる気さえ起らない。
適当に会釈をしながら対面の椅子に座る。
医者が座っているものに比べてこちらは実に簡素な丸椅子だ。
本人談では40代を超えているとのことだが肌のつやからしてパッと見では30代の前半にしか見えない。美容にだいぶ気を使っているのだろう。
精神科医というのは儲かる仕事らしい。
「先生は……相変わらず、若いですね」
「でしょ? 年々若返ってる気がするんだよね。その内、町山さんと並んでもどっちが若いか分からなくなるんじゃない?」
「そうですね……」
「その下手な愛想笑い何とかなんない? そうやって下手に出すぎるからバカ相手に恰好の餌食にされるんだよ」
あなたみたいな人にですか、という言葉は飲み込む。
診察に来てるのか、小ばかにされに来ているのか分からなくなってくる。
最初はこんな感じではなかった。
こんなふざけた対応ではなく、どちらかと言うと無機質かつ機械的に容体を確認し、何日分かの薬を処方して、はい終わりという具合だ。
状況に変化が起こったのは通院から2か月ほど経ったころだった。とは言ってもこれには僕にも責任がある。
うっかり祓いすぎてしまったのだ。
当然のことだが、こうしたクリニックは心に何かしらの故障を抱えてしまった人間が集まってくる場所だ。老若男女が待合室で自分の順番を待つ間に嫌が応にも見えてしまうのだ。
子供のころから見えるそれを僕は『影』と呼んでいる。
待合室には、みんな表情こそ取り繕っているが大なり小なりの影を抱えた人々が集まってくる。
正直見ていて痛々しい。通常では見えないはずの外傷がむき出しの状態で見えてしまっているようなものだ。
特に気がめいったのは中学生くらいの女の子が背中いっぱいに影を抱え込んでいるのを見たときだ。
モゾモゾと全体をゆらめかせ、クチャクチャという不快な咀嚼音を聞いてしまうと本当に居た堪れない気分になった。
こんな子供が何故、マスクで顔を隠し、申し訳なさそうに身を縮めなければならないのか。
だから僕が取った行動は善意ではない。見たくもないものを自分の視界から遠ざけたかったら行ったにすぎない。
気持ち的には服に付いたゴミを取る行為に近い。
ただ悔やむとすれば少し頻繁にやりすぎた。
『町山さん、ひょっとして他の患者さんになんかやってない?』
目の前の医者に感づかれることとなったのだ。
今でもそうだがあの時の僕はだいぶ弱っていたのだろう。
機械的な表情を一変させ、目をらんらんと輝かせながら聞いてくる山瀬医師に気おされてしまった。
適当にはぐらかせばよかったのに『えぇ……まあ』などと頷いて肯定してしまったのが運の尽きだった。
詳しく話が聞きたいと予約の際には診察時間で一番最後の患者になるように調整された。可能な限り毎週予定を抑えられた。
弱っているときは思考力が鈍くなる。正常な判断ができなくなるし、反論することも億劫になる。
結局、山瀬医師の要求通りに僕は頷いてしまった。
この時から僕は山瀬医師の恰好の遊び道具となってしまっている。
話を聞く対価として法律的にどうなのか分からないが診察料は安く抑えてもらったし、通院のための交通費も渡してくれる。
見えてしまうことに対してあまり話せる人がいないこともあって、ついつい甘い話に乗っかってしまった訳だが見通しが甘すぎた自分の馬鹿さ加減には呆れるしかなかった。
転院する決断もできないままズルズルと通い続けること半年。
通常の患者一人あたり5分程度の診察時間に対して、僕の場合は短くて30分、長いと1時間も時間を取っている。力のこと以外は、ほとんどがとりとめもない話だ。
それも山瀬医師の一方的なものだ。
今だってこちらのことなどに口を動かしている。
「そんな顔しないでよ。何度でも言うけどさ、君をどうこうしようなんてこっちはこれっぽっちも思ってないから。ほら、君の彼女の一人だって僕のこと大丈夫って言ってたんでしょ?」
「彼女ではありませんよ……」
胡散臭い笑みが鼻につく。テレビドラマの詐欺師でももう少し親しげな表情を作れると思う。
まあ、
「じゃあ、セフレ?」
「それも、違います」
「うっそでしょ? まだ童貞? 誰とも寝てすらいないの? あんな美人さん二人のヒモやっているのに?」
「ヒモじゃないですよ……たぶん」
それでもやっぱり精神はゴリゴリと削られていくような気分にされるといくら彼女の直感でも今回ばかりは何かの間違いではと思ってしまう。
「美人さん二人の家に転がり込んで世話してもらって、通院にも代わる代わる付き添ってもらってるって、客観的に見たらだほぼヒモだと思うけどね……。それで、最近はどう?」
言葉のジャブがようやく終わり、診察が始まる。とは言っても内容は夜は眠れているのか、食欲はあるのかなどの世間話の延長のようなものだ。
日常に特に変化があるわけでもなかったので質問に答えることも苦ではない。
「変化なしと……。おもしろくないね」
いちいち余計な一言を加えながらも滑らかな動作でカルテが書き込まれていく。
「影はどう? 自分のやつはまだ見えない感じ?」
「……見えません……」
続けた質問に思わず言葉が濁ってしまう。
「そこも変わらずと……。ホントどうなってんの、その力? 人の影は見えて霊能力者みたいに祓うことができるのに、自分に対してはさっぱりって」
そんなことは僕が一番知りたい。
自分に影がまとわりついているのなら、いの一番、真っ先に祓っている。
でも、見えない。鏡の前でどんなに目を凝らしても文字通り影も形もない。
見えなければ祓うことはできない。
僕の力は僕を助けてはくれない。
ぶっ壊れて社会からドロップアウトして早半年。
未だに僕は、僕の鬱を祓えない。
ただ死んでないだけの日常が今日も続いていく。
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