第8話 南波遥
英君と有紗が病院に出かけてからすぐに電話がかかってきた。
相手は
同い年の従姉妹で、英君の2つ上の姉だ。
『んで? わが弟は相も変わらずなわけ?』
要件はなんということはない近況の確認だった。
「そうだねぇ……。ゆっくりとなんだけど、よくはなってきてると思うよ。ご飯も一緒に食べるし、お風呂も毎日入ってるから」
『そっかそっか。そういうことが聞きたかったんだよね。あいつ、元気かってメール送っても元気だよってオウム返ししかしないから。うちの両親なんて実際どうなんだって私に聞いてくるんだよ? 自分で聞けって』
話ながら怒りのボルテージが上がってきたのか言葉に微妙に棘がある。
どうやら英君は必要最低限な報告しか家族にはしていないらしい。それでも随分マシになったほうだが。
「英君に伝えておこうか?」
『……いや、いいよ。とにかく今は自分のことだけ考えさせてちょうだい。うちの親もなんだかんだでハルのこと信用してるしさ、私の方からうまく言っておく』
「ごめんね……真帆ちゃん」
『謝んなくていいよ。お世話になってるのこっちなんだし』
「叔父さんたちには私の方からも連絡入れておくね」
『いいよ、いいよ。気にしなくて。それよりもさ……』
そこから雑談を交えたり、お茶で喉を潤したりしながらお互いの近況を報告しあう。途中、暴れまわっているのか元気のよい真帆ちゃんの子供の声とそれを𠮟りつける真帆ちゃんの声が紛れ込む。
とりとめもないが穏やかな流れだ。しかし、流れのままに任せていたら、いつの間にか会話は再び英君の話題に戻ってきた。
『影……だっけ? あいつ、自分に取り憑いてるやつは相変わらず見えないわけ?』
「うん。鏡見てもそもそも憑いているのかどうかも分からないって言ってるよ」
『ホント、意味分かんないね。何で自分には適応できないわけ?』
英君もそこについては随分気にしてる。
時折、何もないはずの自分の後頭部をさすりながらその度にがっかりしたように溜息をつく姿を見かける。
『ウチの親もさ、ボヤいてるんだよねぇ。あんな訳わかんない力、持たなくてもよかったのにって。散々、恩恵受けといて何言ってのって叱ってやったよ。持っちゃったもんは仕方ないじゃん。自分で望んだわけでもないんだし』
自分で望んだわけじゃない。その通りだ。
英君も、有紗も、そして私も。
私たちが持っているものは、神様あるいはそれに準ずる何かが気まぐれに寄越したものに過ぎない。どんな目的があって、どんなふうに使ってほしいのかビジョンもマニュアルもない代物だ。
『でもさ……』
真帆ちゃんが一瞬の間を置きまた話し出す。
『私も思うところがないわけじゃないんだよねぇ。人に憑いているものは見えるし、取り除けるっていうのに、使い手本人は効果の範囲外ですってさ。何、その罰ゲームって感じにならない? お前は他人様にご奉仕し続けてろって言われてるようなもんじゃん』
不便なことも、煩わしいこともあるけれど。
私の力も、有紗の力も、自分自身を守ることにはとても有効だ。
だけど、彼は違う。
英君の力は、人を助ける力だ。人の心を蝕む影を祓い、その心に灯りをともすものだ。素晴らしい力なのだろう。生まれた場所、時代、宗教観が違っていたら、名を残すような存在になれたのではないかと割と本気で思っている。
歴史上の聖人や古今東西ありとあらゆる宗教が泣いて欲しがるような力。でも、その力は彼自身を救ってはくれなかった。
自分に恩恵をもたらさない力なんてあるだけ迷惑なものだ。
呪いにも等しいと思う。
『生まれた瞬間からブラック労働やってるのと変わんないじゃん、そんなの』
呆れたように真帆ちゃんはつぶやく。英君に対してではなく、彼に力を押し付けた何物かに対してだ。
「おまけに、現実世界でもブラック労働やってたらねぇ……」
『ホント、それ! あいつ、マジで何やってんの? 心の一つもぶっ壊れるの当たり前だわ!』
私の合いの手に真帆ちゃんは激しく同意する。
『あいつ、ぜん・ぜん話さないけど、絶対に他人のことばっか気にして自分ことおざなりにしてたんだと思う。子供のころからそうだったもん』
悔しそうな真帆ちゃんに反して私の心には喜びが広がっていた。
掴めるか否かのチャンスをもぎ取り、金なんかでは絶対に手に入らないものを手にすることができた、黒い喜びだ。
英君の力は、英君を守ってはくれなかった。
彼自身にとって無価値な力は、彼が壊れていくさまを傍観し続けた。
でも、そのおかげで。
英君は、私の元にやってきてくれた。
この家の敷居を彼がまたいでくれたとき、最後のピースがようやくはまったとき、心に広がった安心感をよく覚えている。
ほの暗く、でも心地よい安堵だ。
「でもね、真帆ちゃん」
電話越しに語りかける。
「私はさ、英君がウチに来てくれてよかったって思ってるんだよ? 英君本人や真帆ちゃんたちからすれば複雑なんだろうけど、私は、私たちは、すごく助けてもらってるし、守ってもらってるの。だから、とっても安心できる」
人の弱みにつけ込んで何を言っているのか。
本心から言っている言葉ではあるけれど、つくづく嫌な女だ。
『ハルはさ……うん。怖がりだもんね、昔から』
先ほどとは一転して落ち着いた声で真帆ちゃんはつぶやいた。
彼女は私の本質をよく分かっている。
※
人より鋭敏な感覚を持って分かったことは、この世は鈍感なほうが幾分か幸せに生きられるということだった。
聴覚が発達した人は、羽虫の羽ばたき音でも眠れなくなり。
触覚が敏感な人は、手袋なしでは外に出ることもできず。
嗅覚が研ぎ澄まされた人は、わずかな異臭にも吐き気を催す苦しみを受けなくてはならない場合がある。
人のそれよりも抜きんでている直感もそうだ。
恩恵はある。
〇×問題やマークシートの問題は外したことはない。
出店のくじで当たりを引くことも容易だ。おみくじで吉より下を引いたことはないのはちょっとした自慢でもある。
なによりも日常に潜む危険が察知できることが大きい。
給食に違和感を覚えたときに、気分が悪いフリをして口にしなかったら、腹痛を訴える生徒が多発した。
学校の通学路に嫌な予感を感じたときは、遠回りでもその道を回避した。結果は、その道で車の死亡事故が発生した。
英君たち家族を交えて遠出の旅行に行く計画を立てた際は、車から鳥肌が立つほどの気味の悪さを感じて父に訴えたこともあった。業者を呼んで調べてもらったら、ブレーキ部分に重大な欠陥があることが分かり、親一同が顔を青ざめていた。
私の力は何度となく、私や家族を救ってくれた。
感謝もあるし、今でも有効活用させてもらっている。
私は会社勤めをしたことがない。
でも、お金には困っていない。セキュリティーを整えた一軒家を買っても懐具合にまったく影響がないくらいには稼いでいる。
反則めいているかもしれないがキチンと合法的にだ。
水商売、風俗、またやパパ活なんかで身を削ってお金を得ている女性たちが見たら発狂して刺し殺しに来るのではないかと思われる額が複数の口座に納められている。
反則的だけど、成功を収めていると言えるだろう。
それでも。
それでもだ。
もしも、私にこの力を押し付けた何かが、間違えたから力を返してくれと言ってきたのなら。
その顔面を殴りつけながら返却するくらいには、私は私の力が嫌いだ。
もたらしてくれる恩恵以上に生きることがしんどくなるのだ。
外に出ることが怖くなる。
道を歩いている途中や車での移動中、外出先で、もし何かしらの危機を感知してしまえば。何かが起こってしまったら。回避することが不可能な状況に陥ってしまったとしたら。
起こるかどうかも不確かな未来に怯えて身体がすくんでしまう。
そのせいで外出する際はいつも一苦労だ。心を整え、細心の準備をしなければとてもではないが外に出ることができず、ゆく先々で神経を尖らせておかないと安心して歩くこともできない。
人も信じられなくなる。
冗談を交わしながら笑いあっていた相手に鳥肌が立ったとき、実は裏で悪し様に陰口を叩かれていたことなどザラだった。
下心満載の男性から話しかけられたときなどは最悪だ。
自分の見た目が異性に好まれているという自覚は昔からある。
自らの身体に向けられる視線には誰しも敏感なものだが、私の場合は別格だ。不躾な視線は触られているわけでもないのに、見えない透明の手となって私の身体をまさぐるような感覚をもたらしてくる。
学生時代は苦労した。
同級生、先輩、後輩、果ては男性教師、早い思春期に入った通りすがりの小学生。四六時中向けれた視線のせいで体調を崩すことも多かった。その度に真帆ちゃんには迷惑をかけた。
時には直接言い寄られたこともあり、無理やり手をつかまれたときなどは危険信号として触れられた箇所から蕁麻疹が出てきた。
私はまともには生きられない。
成長していくにつれ、その事実が重くのしかかっていた。
それでも私が幸運だったのは身内に理解者がいたことだろう。
私の両親は、早くから私の力を認識して理解しようと努めてくれていた。父の部屋には、超能力関係の書籍であったり、ギフテッドの子供の参考文献が山のように積まれていた。
母も私のことを気味悪がるでも、排除しようとするでもなく、あくまで普通の子供として接してくれた。体調が悪くなれば気遣い看病してくれたし、何があっても私が話すまで黙って待っていてくれた。
親ガチャという言い方は少し失礼かもしれないけど、SSRを引いたのだと思っている。
もし、理解のない人間であったのなら、愛情どころか命さえ危うかったかもしれない。承認欲求の塊であったりしたら、見世物小屋のごとくテレビやネットで晒しものにされていたのかもしれない。
恵まれていた。
全部が全部理解できなくても、両親はこの力を、この生きづらさを理解しようとしてくれた。私が生きやすくなれるように心血を注いでくれたと思う。
相談ができる場所があったことも心の拠り所になっていたのだろう。
母の弟である叔父夫婦に両親はよく相談していたのだ。
元々、仲が良く、家族ぐるみでの付き合いだったこともあるが、同い年の真帆ちゃんがいたこと、なによりも英君がいたことが大きかった。
町山英心。
2つ年下の従弟にも不可思議な力が宿っていた。
同じ人には言えない力を持つもの同士ではあるが、私の力は言ってしまえば人間が元から持つ感覚を極限まで研ぎ澄ませているだけのものにすぎない。
でも、彼は違う。
あの力は正真正銘、神秘の力、神様の御業というに相応しいものだ。
彼との思い出で一番古いのは、ある正月のことだった。
親戚同士の集まった年始の宴会の席で、今はすっかり疎遠になってしまった親戚親子が口論を始めてしまった。
お互いが引くに引けなくなったのか、顔を紅潮させながら口論はエスカレートしていく。周りの仲裁も効果がなく、むしろ油を注ぐことになってしまっていた。
上がっていく口論の音量に比例して私の直感も大音量で警告を発する。
けれども、その時の私は隣にいた真帆ちゃんと手を握りあい身体を硬直させることしかできなかった。
大人同士の口論は子供目線からも抜き差しならないものになっていた。
もう我慢ならんとばかりに2人揃って立ち上がろうとしたその時だ。
幼い叫び声とともに飛び出したのが英君だった。
親戚の1人の背中にぶつかるように飛び掛かり、無我夢中を絵に描いたように何度も何度もその背を叩いた。
すぐに英君のお母さんが羽交い絞めにして彼の奇行を止める。
後数秒で訪れたであろう修羅場を忘れてその場にいたほとんどが呆ける。当事者である親戚2人も同様だ。
私も呆けていた。でも、ほかの人とは丸きり違う理由だ。
背中を叩かれた親戚から目を離せなかった。
叩いた英君を怒るでもなく、喧嘩を続けるでもなく、まるで鈍器で頭を殴られたかのように恐る恐る自分の頭を撫でている。
まるで悪い夢を見ていて、そこから目が覚めたかのような反応だった。
何かをしたのだと理解した私は、英君が1人になったタイミングで近づいた。
宥められたおかげか気分は落ち着いていたが、目の周りは真っ赤に腫れあがっていた。
『なにかみえたの?』
ひそひそ声で彼に尋ねた。
『グニャグニャ。いや、やだ』
グニャグニャ。
そう答えた英君は思い出したくもないのかいやいやと頭を振り、またぐずり始めた。
それがどんなものかは分からない。
でも確信めいたものがあった。
彼は親戚の背中に何かを見た。それは悪いもので、よくないことにの前触れで、彼は身を挺してそれを追い払ったのだ。
それが彼の始まりだった。
当初は子供の癇癪として見過ごされたが、時が経つにつれ、英君の両親や真帆ちゃん、私の両親といった親しい身内は彼の力に感づき始めた。
きっと私の知らないところで彼は悪いものを見て、そしてそれを追い払っていたのだろう。
私と英君。
人にはない力を持っているもの同士がなるべく近くにいたほうが心強いだろう。
そう判断したのか両家の交流は深まっていった。代わりに他の親戚との関わりは希薄になってしまったが。
両親たちの判断はありがたかった。一歩間違えれば彼とは疎遠になっていたかもしれない。
彼の力を垣間見たあの日。
彼を手放してはならない。
私の直感は、高揚しながらそう命令を下した。
彼こそが私に安心して生きていくためのピースになると。
私はその直感に従った。
拒絶されないように細心の注意を払い続けた。
仲の良い親戚のお姉さんという立ち位置を決して崩すことないよう、近すぎず遠すぎずの距離感を保つことに苦心した。
家は近所だったが、訪問は頻繁とは呼べない頻度で抑えた。学年は違ったが、学校でも偶然を装って顔を合わす程度に収めた。
四六時中、一緒にいる必要はなかった。
それだけで十分だった。
少しだけしんどくなって、会いに行ったとき。彼は決まって視線を私の背後に向けてくれた。
少し心配したような表情で、誰に何かを言われたわけでもないのにごく自然に、当たり前のことのように。
守ってくれている。何があっても、この人は私を守ってくれるという確信を得た。
その行為だけで十分だった。
それだけで私は安心できた。
でも私は自分が思っている以上に強欲で嫌な女だった。
少しでも身近に置こうと画策し、進学する際、高校は彼の学力でも手の届く学校を選んで、彼の受験時には何気なく誘導した。
大学の時も同じだ。
興味のありそうな分野を事前に聞き出して、それとなく自分の大学の学部を進めた。
英君が私の言う通りに進路を選んでくれる度に、罪悪感がほんのりと首をもたげた。
私の勝手極まる都合で、彼の人生を縛っているような気分になった。
でも、そんなものは彼がもたらしてくれるこの安寧の前では些細なことにすぎない、と考えてしまえる私は間違いなくロクデナシなのだろう。
私の直感は間違っていないということを証明してくれるように、または免罪符のように英君は安心感以外のものを私にもたらしてくれた。
新城有紗だった。
毛色は違うが、彼女も私たちと同じ、人とは違うものを持っている存在だ。
彼女の肉体には神が宿っている。
実際に彼女の力を目の当たりにした瞬間、そう確信した。
彼女も手放すな。
英君のときと同じことを有紗に対しても、私の直感は告げた。
親しくなるのはすぐだった。有紗のほうから私たちに歩みよってきて、言い方は悪いがまるで子犬のように懐いてくれた。
自分と同じような存在に出会えたことがよほど嬉しかったのだろう。
家族とは、あまり関係がよくないらしい。
居づらさを少しでも紛らわすために地元を離れた、と2人きりのときに有紗は教えてくれた。
力が関係しているのか、と尋ねたら、彼女はそれに頷いた。
私と英君は、生まれた場所については幸運だった。ちゃんと、愛されて、幸せになるように守られてきた。
でも、それは本当に幸運な一例に過ぎないんだろう。
望まず力を得たわが子に対して、嫌悪感を抱く者もいれば、金儲けの道具としてしか見ることのできない親だって存在する。
彼女の家族が選んだのは、拒絶だった。
『別に殴ったりとか、蹴られたりとか、そんなことはなかったですよ。ただ、なんていうのかな。本当に一線を引かれているような感じでしたね。感覚的には、同じ家で暮らしているけど、義務的に面倒見ているだけの赤の他人? みたいな。必要なお金は出すけど、あまり自分たちには関わってこないでねって……。まあ、そんな感じの関係でしたね』
そう言い放つ彼女にあまり悲壮感はなかった。
それが彼女の日常であり、彼女にとっての当たり前だったのだろう。
自分の価値基準が世界の全てとは思っていない。少し昔のテレビドラマみたいな青臭いセリフを吐くつもりは毛頭ない。
でも、それがほんの少し寂しいと思ってのは。
私が恵まれているからに過ぎないなのだろう。
そんな私に有紗は、嬉しかった、と言ってくれた。
私と英君に会えて、1人じゃない気がした。自分が人間なんだとやっと認めることができた気がしたと。
笑いながら臆面もなくそう告げられたときには、むずかゆい思いになったものだ。気に掛けること自体が余計なお世話のような気がしてしまった。
学年が違うため、大学で関われた期間は短かったが、私が卒業してからも英君と有紗との関係は切れなかった。
就職をしなかったし、在学中から資産を得ていたので時間を取れたことも大きい。
3人で一緒になって遊んだり、2人の課題をお姉さん面で手伝ったりしていたが、その生活サイクルも英君が就職を考え始める段階になって変化が訪れた。
英君は、お世辞にも要領が良いとは言えない。
むしろ人見知りが強く、口下手だ。
卒論やESを何度となく書き直しながら、同時並行で面接や会社説明会に足を運ぶ毎日だった。
周囲が優良企業の内定に沸き立つなかで、彼のもとに届くのはお祈りという名の切り捨てだった。
就活をしなかった私が口を出していいことではない気がしたが彼のESも面接も実際に見せてもらったが、そんなに悪くはなかった。
それでも弾かれてしまう。日本は売り手市場のはずなのに不思議でならない。縁がなかったと言えばそれまでかもしれないが。
有紗と2人で女子会をしているときも、英君の悪戦苦闘ぶりの話題でよく盛り上がっていた。
秋が過ぎ、冬も本格化し始め、ほとんどの学生が内定を得るか、あきらめるかの選択を余儀なくされる時期に入り始めた頃、彼はようやく1社から内定を得た。
絶対にダメなところだった。
直感が全力でアラームを鳴らし続け、社名だけしか見ていないのに、ほのかに肉の腐ったような匂いまでしてきたような気がした。
全力で反対した。
せっかく取れた内定ではあるが、私の言葉だったら英君は耳を傾けてくれるはずだった。今まではそうだった。
辞退してほしい、何だったら私の仕事を手伝ってほしい、とそう伝えた。
彼は首を縦に振ってはくれなかった。
それどころか悲しそうな目で私のことを見つめ返していた。
『一廉の人間になりたいんだ』
英君は一言、私にそう告げた。
絶対に止めるべきだ。
直感はそう告げていた。それと同時に。
でも、ここで無理にでも止めてしまえば彼は遠く離れていってしまう。
そうも告げていた。
彼の安全か、それとも別離か。
目の前に現れた天秤を前に私が傾けたのは。
別離だった。
頑張ってね、身体に気をつけてね。取ってつけたような定型的な励ましを添えて、私は彼を送り出した。
永遠に手放さばければならなくなるくらいなら、つながりが断たれるくらいならと。彼には彼の人生がある、何かあれば、助ければいいと自分に言い聞かせながら。
本当にその人のことを思うのであれば、たとえそのつながりが壊れるようなことになろうともその人のためになることしなければいけない。
安いドラマで使い古されたような言葉ではあるが、多分、これこそが真理なのだろう。それが正しかったのだろう。
でも、私は正しくなれなかった。
自分のことばかりだった。
英君が就職して1人暮らしを始めてから、会う頻度は激減どころかほぼほぼ皆無になった。
まず休みが取れない。
私と有紗がメッセージを送っても、既読がつくだけで返事が返ってこないことが圧倒的に多い。
電話をしてもほとんど出ない。たまに出てくれたときの生気のない声は、背筋を凍り付かせた。
会いに行くべきかとも思ったが、拒絶される恐怖が二の足を踏ませる。
汚職政治家がかわいく見えるほどの保身具合だ。
保身と焦燥の間を揺蕩いながら、もやもやとしたものを抱える日々を過ごしていく。
そして、あの日が訪れた。
特にやることもなかった休日。
何気なく私と英君、そして有紗の3人が写った写真を眺めていたときだった。
『あ、英君死んじゃう』
気の抜けるような呟きを皮切りに体中から鳥肌が立つ。
頭をめちゃくちゃに搔きむしる。
椅子から立ち上がったり、座ったり、また立ち上がったりを繰り返す。
どうしよう、何をする、連絡? どこに? 誰に? 英君が死ぬ、車出さなきゃ、どうしよう、連絡。
スマホを抱えながら右往左往する。蹴躓いて椅子が横倒しになってしまう。
寄る辺もなく動物園の動物のごとく部屋の中を彷徨う。しかし、覚束ない足取りもすぐに止まり、身体は力なくその場に崩れ落ちる。
震える身体は、そこでようやく意味のある行動をとる。
溺れる思考が掴んだ藁は有紗だった。
彼女が出てくれた瞬間、私は助けを求めた。
人に縋るように、みっともなく助けを求めたのは初めてだ。いつだって危険は直感が教えてくれて、それに従っていれば回避は簡単だった。
どうにもならないこと、どうすればいいのか分からなくなったとき、こんな力は何の役にも立たなかった。
どうしよう、どうしようと子供のように泣きながら有紗に縋る。
有紗は必死に私を落ちつけようと言葉を並べるが、単語だけが頭に入ってくるばかりでまるで意味が理解できなかった。
どれほどの時間を無駄にしたのだろうか。
懸命に言葉を送る有紗の言語をようやく理解できるようになってきた。同時にショートしていた思考回路も可動し始める。
落ち着いた私は、真帆ちゃんに連絡を入れて有紗とともに英君のアパートに向かった。
一切の光を断ち切ったような部屋で、彼は衰弱していた。
私は病院に、真帆ちゃんは叔父さんたちに連絡を入れた。
有紗は英君を抱えたまま、茫然と立っていた。
英君はすぐに病院へと搬送された。
医者の話では本当に危ないところであったそうだ。
身体の芯から力が抜けそうになった。
有紗も報告を受けたその場で崩れ落ちるように座り込んだ。
間に合ったことの安堵、生きていてくれたことへの安堵、保身に走った嫌悪で身体に力が入らなかった。
その日の夜は眠れなかった。
病院近くのホテル。そのベッドに有紗とともにくるまった。
『私、先輩がいて当たり前だと思ってた……。遥さんと先輩がいてくれるから、私は人間でいられたのに、それが当たり前だと勘違いしてた。先輩、あんなになってるなんて、知ろうともしなかった。しんどくなったりしたら、会いにいけばいいやって都合のいい存在だと思ってた。ゲームのお助けアイテムだと思ってた』
暗闇の中で限界まで顔を寄せ合っているおかげか、涙を流していることまではっきり分かった。
どうしているのかなぁ、と心配するフリをするだけの卑怯者だと、やっぱり自分は人間のフリをしているだけの化け物だと、有紗は自分を罵った。
否定も肯定もしてやれなかった。
私もそうだったから。
利己的で、自己中な私たちは、バラバラになりそうな心を繋ぎとめるためにお互いを抱きしめ合った。
顔中にキスをして、裸になってお互いの身体をまさぐりあった。
泣き晴らしたお互いの顔が視認できるほど、明るくなったころ。
私は有紗にある提案する。
『一緒に暮らそ? 3人で』
有紗は黙って頷いてくれた。
※
「ねえ、真帆ちゃん」
『ん?』
「私って卑怯かな?」
英君が死ぬかもしれなかったあの時まで私と有紗は、何もしてこなかった。何かができる機会は何度となくあったはずなのにだ。
特に私なんてこうなることが予測できていたはずなのに見過ごした。
その上で彼を失うかもしれない恐怖に怖気づいた私たちの取っている行動は、壊れた彼の囲い込みだ。
弱みに付け込んだ卑劣極まる行為だ。
『そういう風に聞くやつって、大体、そんなことないよって返事を期待してるよね』
こちらの事情を大まかに把握している真帆ちゃん。
その言葉は的を射ている。
遠まわしに卑怯だと言い切られた。
「……ごめんね」
『謝んなくていいよ。ウチの弟がああなってさ、一番ショック受けてたのはハルたちだったし、どうしようもなく心配になる気持ちも分かるしさ』
「英君が死んじゃうかもって時さ……すごく、すごく怖かった……」
たまに夢を見ることがある。
間に合わなかった夢だ。
でも、朝起きて朝食を用意して待っていると、ひどく疲れた様子を見せながらも、重そうに身体を引きずりながらも英君は食卓に座ってくれる。
私に、私たちにとってはただそれだけのことが泣きたくなるほど嬉しい。
不安なんて一瞬で吹き飛んでしまうのだ。
「私、すごく卑怯だよ。一度は見捨ててるくせに、自分の手が届かなくなりそうになったら、優しいお姉さんのフリをして、手を差し伸べてるフリをして、その実態はただ囲い込んでいるだけ。それも英君自身じゃあなくて、英君の力目当てで。もし英君が何の力もない普通の人だったら私はそのまま見捨ててたと思う」
言語化するほどに思い知らされる。
なんて気持ち悪く、浅ましい女なのだろう。
結局どこまで行っても私は自分の幸せのために動いている。
「でも、でもね。今、幸せなの。心の底から安心できて、安らぎがあって、安心するの」
ただ本心なのは間違いない。
『……ハルってさ、ネットの掲示板とか、修羅場系の動画とかあんま見ないでしょ?』
気色の悪い私の独白に真帆ちゃんは笑いを堪えるように言った。
『すごいよぉ。浮気男や浮気女のアホみたいな言い分や旦那や嫁を都合のいいÅTMとしか見てないバカの話とか盛りだくさん。んで、その話を聞いたネット民たちにめちゃくちゃに叩かれて炎上する様が、草はえるって言うの? なかなかに笑えるんだよね』
そこで真帆ちゃんが一瞬、間を置く。
『そこに出てくるクズと比べちゃうとさ、ハルの純情さが、悪いんだけどなんか笑えてくるんだよねぇ』
そう言い放つと真帆ちゃんは堪えられないとばかりに笑い出す。
今の私はさぞひどい仏頂面になっていることだろう。
こうも笑い飛ばされるとずっと気に病んでいるこっちがバカみたいだ。
一通り笑って満足したのか真帆ちゃんは言葉を続けた。
『卑怯か、そうじゃないかって聞かれたらハル達は卑怯なんだろうね。自分たちの気持ちを優先して人の弱みに付け込んでるんだもん。それも男のスペック目当てで。でも、人と人の関係ってさ、大なり小なり打算が入ってて当然じゃない? 私だって結婚するときには旦那の性格とか相性とか展望とか国から貰える控除とかのメリット色々考えたもん。ハルたちは真面目に考えすぎだって』
「でも、大事なことだよ」
『だから、そこが真面目なんだって』
口を尖らせる私を真帆ちゃんは一蹴する。
『お互いが、お互いに必要だって思ってるから一緒にいるんでしょ? まあ、男1人に女2人でバランスおかしいけどさ。需要満たしてあんたらは幸せ感じて、英心のやつはゆっくり充電できてるってことでWINWINじゃん』
「……WINWINどころか、私も有紗も英君にもたれかかってばかりだよ」
『英心のやつもそうだって。もちつもたれつでちょうどいいじゃん』
あっけらからんと言い切る真帆ちゃんに思わず笑ってしまいそうになる。
「いいのかなぁ。そんな軽くて」
『重く考えてるほうが偉いなんて風潮の方がどうかしてると思うね、私は』
思わず吹き出してしまう。
「確かに」
別に高尚に考えてるつもりではなかったけど。
でも、ひょっとしたら悩んでる自分に酔っていたところもあったかもしれなくて。
なんだかそれがおかしくて笑えてきた。
私の笑い声に釣られて真帆ちゃんも一緒になって笑い始める。
『そうそう、笑ってようよ。……ねえ、ハル』
「なに?」
『あいつのことだからさ、どうせ頼まれなくてもハルたちのこと守ってるんでしょ?』
「うん」
英君に力を使ってほしいと頼んだことはない。
でも、彼は力を使う。
私や有紗だけじゃなく、たまに外出するときもその視線は道行く他人に向けられた。自分がボロボロでもだ。
自分が見たくないから、と彼は言う。
まるで服に着いた虫を追い払うような感覚で。
見過ごすではなく手を伸ばすことを彼は選んでくれる。
『じゃあ、あんたら絶対に大丈夫だよ』
電話越しからそう言い切る真帆ちゃん。
きっと彼女も町山英心という人間が守ってきた大勢のうちの1人なのだろう。
少し長話をしすぎたらしい。
ぐずりだした真帆ちゃんの子供の声が聞こえる。
「ママを独り占めしすぎたかな?」
『甘ったれめ~』
口調こそ面倒くさそうだが、少し嬉しそうだ。
『今日はここまでかぁ。余裕できたら会いに来いって、あのアホに伝えておいてよ。できれば土産持って』
「分かった」
名残惜しいがどうやらお開きのようだ。
こちらから電話を切ろうかどうしようか迷った一瞬だった。
『あっ、そうだ。最後1つだけ』
何かを思い出したのか真帆ちゃんが口を開く。
『西中の6人、覚えてる?』
「……へ?」
『死んだって。3人も』
「……は?」
『ハルもあいつらに狙われかけたことあったでしょ? 言い方悪いけどいなくなってくれてよかったよね』
ついでで残す言葉にしては重すぎるインパクトだった。
私が何かを言う前に真帆ちゃんの意識は完全にわが子に移っていた。
じゃあね、という言葉を最後に通話が切られた。
スマホをテーブルに置くと、両手で顔を覆う。
喉の奥にものがつかえたような不快な感覚がした。
嫌な予感だ。
意識が少し遠い記憶に向かう。
西中の6人。かつての怪物たちを思い起こす。
集中しすぎたためか、有紗からの着信にしばらく気づけなかった。
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