第7話 新城有紗
失敗したな。
久しぶりに全力で走ったがさすがに間に合わなかった。
ジャンプすれば間に合っただろうか? いやダメだ。人目もあったし、反対側のホームまで飛ぶには助走のための距離が足りなかった。
電車に乗り込んで捕まえることもできたかもしれないけど、それだと先輩を置いてきぼりにしてしまうことになる。それはそれで心配になってしまう。
「あぁ、しくじったぁ」
響かないように小声で呟く。
クリニックの待合室には私以外は誰もいない。受付に事務員がいるくらいだ。
清潔感のある空間に落ち着いた色のソファー。利用者やその付き添いが退屈しないための配慮だろうか、本棚に漫画本が並べられている。
タイトル的にギャンブルやデスゲーム系に偏ってるのは、あの先生の趣味なんだろうな。
少し難のある性格だけれども、こっちの事情も分かってもらっているし、色々と配慮もしてくれているので大分助かっている。
先輩は微妙だろうけど。
あぁ、それにしても。
「先輩、気にしてるんだろうなぁ……」
反対側のホームを一点に見つめていた彼の表情を思い出す。
驚愕とも、恐怖とも、焦りとも取れる顔だった。
ただ事ではないこと、彼にしか見えないものが見えてしまったことはすぐに理解できた。
先輩が指をさした先にいたのは少年だった。高校生くらいに見えた。
「あぁ、もう」
両手で顔を覆う。
もう少し早ければと思うと口惜しくてならない。
「なんで私らの前に出てくんのぉ……」
足止めできるものなら足止めしてやりたかった。
先輩の様子からあの少年が大分まずい状態にあったことは容易に想像できた。きっと放っておいても碌なことにはならなかっただろう。
だけど、間に合わなかった。
それなら最初から現れないでほしかった。
先輩がまた余計なものを背負ってしまう。
『いや、大丈夫、いいよ、気にしないで……その、ありがとうね』
引き攣った笑みが頭から離れない。
なまじ普通の人間にはできないことができてしまうから、必要のない負い目を感じてしまう人なのだ。
「ほんと、他人のことばっかり……」
あの少年には悪いが私は先輩のほうが心配だ。
どうせ間に合わなかったのなら、最初から出てきてほしくなかった。
たまたま見つけてしまった。見過ごしてしまった。それだけで先輩の心は揺さぶられてしまう。
後味の悪さを感じているし後ろ髪も引かれている。
だけど見ず知らずの少年の生死よりも、先輩と私と遥さんの平穏が脅かされるほうが何倍も問題なのだ。
それを思うとはた迷惑という感情のほうが強い。
死のうが生きようが私たちの預かり知らぬところで勝手にやっていてほしかった。
時計を確認する。
先輩が診察室に入って20分ほど経つ。多分、今日のことをあの先生に話しているのだろう。
いつもより長引きそうだと判断した私は遥さんに電話することを決めた。
メッセージでもいい気はするが、駅の件を含めて今後のことを相談しておきたかった。
クリニックの扉を開ける。
日はすっかり落ちていた。
このクリニックは駅前に居を構えているので電灯は多く視界は良好だ。しかし、駅の利用者自体が少ないので人通りは簡素なものだった。
クリニック前を通り過ぎるわずかばかりな人々を横目に私は遥さんへと連絡をいれる。今日は出かける予定はなく家にいると言っていたはずだ。
『……はい!』
十数回のコール音の後、慌てた様子の声が聞こえた。
少し間があったがどうかしたのだろうか。
「あ、遥さん? 今、大丈夫ですか?」
『大丈夫、大丈夫、何でもないから』
間が悪かったら後でかけなおそうと思ったが、問題はないという返事が来たのでそのまま要件を伝えることにした。
「実は今日はいつもより帰るのが遅くなりそうで……」
『何かあったの?』
私の言葉を遮って遥さんが質問をしてきた。
相変わらずの鋭敏なセンサーだ。全貌は分からずとも今日の異変を正確に感知している。私の感覚も鋭いほうだが、彼女のそれには及ばないだろう。
「はい」
『2人とも大丈夫?』
「私は平気です。ただ、先輩が大分落ち込んでます」
その報告に、あちゃ~、と天を仰ぐ声が電話越しから届く。
『最・悪』
その通り最悪だ。
また振り出しに戻りかねない。
少しずつ、本当に少しずつだけれど先輩の充電は進んでいたのだ。
顔色も、肉づきも、寝起きも、食欲もゆっくり戻ってきたのだ。
かつての彼を嫌でも思い出してしまう。
※
先輩が大学を卒業してからは会える頻度はめっきり減ってしまっていた。大変なところに就職してしまって休みもほとんど取れないらしい。
寂しさを覚えながらも私自身、自分の就職活動で忙しくてそれどころじゃなくなっていた。
就活が終わったら会いに行こう。
新生活が落ち着いたら連絡でも入れよう。
あれができたら、これができたらとずるずると先延ばしにし続けてきた。
バカだった。
私が能天気な日常を送っていた中で、いちはやく異変を感じ取ったのはやっぱり遥さんだった。
『有紗! 英君が死んじゃう! どうしよう!? 死んじゃうよ!』
休日の夕方。
電話越しから悲鳴にも似た声が響いたとき、それが遥さんのものだと理解するのに数秒の時間を要した。
あんな狼狽した遥さんは初めてだった。私が彼女を宥める側にまわったのも、後にも先にもあれっきりだ。
狼狽はしていたものの落ち着いた後の遥さんの行動は迅速だった。
彼女はアパートの合鍵を持っていた先輩のお姉さんに連絡を取るとすぐさま合流の手はずを整えた。
人手がいるからという理由で私も同行を許してもらった。
先輩の住むアパートに向かう車内は誰もが無言を貫いていた。
後部座席で息苦しくなってきた私はスマホを取り出して何気なく操作し始めていた。
今思えばこの時の私も間違いなく狼狽していた。
ヤバいじゃん。こういう時には先輩に連絡しなきゃ。
今現在、その人の住居に向かっている途中だと言うのに間抜けにも電話帳に登録している先輩の番号をプッシュしてしまった。
どんなに久しぶりでも頼りなさげで人の良さげな声が聞こえると根拠もなく思ってしまった。
『電波が届かない場所にいるか、電源が切られているか……』
不通を通達する機会音を耳にした瞬間、置いてきぼりにした現実感が駆け足で私に追いついてきた。
スマホが手からすり抜けて座席に落ちた。人よりもはるかに秀でている身体のはずなのに意識が遠のきそうになる。
寒気がした。
腕をさすっても一向に体温は上がらない。
あれこそが血の気が引くということだったのかもしれない。
遥さんも先輩のお姉さんも私の異変には気づいていただろうが声をかけることはなかった。彼女たちも自分のことで精一杯だったのだろう。
アパートに辿り着いたときは時計の針は真夜中を指し示していた。
車を降りて先輩が住む部屋へと急ぐ。
インターフォンを鳴らしたのは私だった。
何度も何度も鳴らした。
でも、返事はなかった。
遥さんが電話をかけ、お姉さんはドアを叩いて先輩の名前を呼ぶ。
それでも返事はない。
先輩のお姉さんは合鍵を取り出すと鍵穴に差し込む。
ドアを開ける。電気はついていなかった。雨戸も締め切っているのか中は真の暗闇だった。
だけど、聞こえた。
小さく、か細く、助けを求めるような息遣いを人よりも秀でたこの耳は捕えてくれた。
靴すら脱がず暗闇へと飛び込む。電気を点ける手間すら惜しかった。
見えなくとも肌感覚で分かる。
1Kのアパートのリビングの壁際。押しやられるように置かれたベッドに彼はいた。
呼びかける。身体を揺らす。
しかし、反応が返ってこなかった。
ここでようやく明かりが点けられた。
一瞬、眩んでしまったがすぐに目は慣れた。
脱ぎ散らかされた衣服は皺だらけで床に転がっていた。分別もされずに無造作に詰め込められたゴミ袋からは異臭とハエがたかっている。
決してだらしのない人ではなかったはずなのに。
彼の部屋とはとうてい思えないひどい有様だ。
しかし、それ以上にひどいのは目の前の先輩だった。
薄い毛布にくるまり、力なく横たわっていた。隙間からのぞかせた顔は薄っすらとだが目が開けられていた。
それに合わさった瞬間、伸ばしていた手を反射的に引っ込めてしまった。
濁った眼だった。
息遣いは確かに聞こえているのにまるで生気を感じられない。生きているのか死んでいるのか、分からなくなってしまいそうになった。
辛うじて開いていた先輩の目は再び閉じられてしまった。
とにかく病院に連れて行かなければ。救急車? いや、直接連れて行ったほうが早いか?
どうすればいいのか私では判断ができなかった。
けれども、とてもではないがこのままにはしておけず、焦る気持ちは私に闇雲な行動に走らせた。
両手を先輩の身体に潜り込ませ、毛布ごと持ち上げる。
100キロのバーベルでも問題なく持ち上げることができる腕だが、風船でも抱えているのかと思うほど彼の身体からは重さを感じなかった。
先輩を抱えたまま身体が膠着する。
ギリギリで死んでいないだけだ。申し訳程度に心臓が動いてるだけの抜け殻にも等しい状態だった。
血色も悪く、匂いもひどい。みじめで、みすぼらしい有様だ。
こんな風になるまで誰にも見つけてもらえなかったのだ。
助けてもらったのに。
視界がぼやける。
そんな暇があるわけもないのに涙が止まらなくなった。抱きしめたくなる衝動は必死で抑えた。とてもじゃないがそんなことを今やってしまったら加減できる気がしなかった。
守ってもらったのに。
遥さんがどこかに電話をしている。病院だろうか。
先輩のお姉さんも誰かに連絡している。ご両親だろうか。
私だけが何もしていない。風船のように軽い身体を意味もなく抱えているだけだ。
助けてもらって、守ってもらった、身体だけは強い恩知らずな能天気は、この場所において、どうしようもないほどの役立たずだった。
※
今もこの腕にはあの軽さは残っている。
先輩の以前職場に対しては、敵意を通り越して殺意すら持っている。私を人間でいさせてくれた人をぶっ壊したのだから当然だ。
あれから半年。
同居を続けながら、亀のごとき緩やかな歩みを重ねて、先輩の充電は進んでいった。それなのに今日の出来事だ。
「どうしよう、遥さん……」
やっといい方向に進んでいってくれたかと思ったらこれだ。神様は先輩のこと、嫌いなのだろうか。
『とにかく英君の様子見て今後のことは判断しましょう』
気落ちはしていたが弱弱しい私に比べて遥さんは落ち着いたものだ。出会ったころから頼もしさは変わっていない。
「分かった。とりあえ……」
背筋に電流が走り、言葉を途中で打ち切る。
『有紗?』
「遥さんごめん。後でまた連絡する」
そう伝えて通話を終了する。
スマホをいじるフリをしながら、視線のみを動かす。向けるのは今も感じている背中の電流の原因だ。
黒いワゴン車だった。
駅の駐車スペースにとめられているがそれだけでは特に怪しいことはない。しかし、周りの連中が問題だ。
確認できるだけで男が3人。運転席と助手席に2人。車に寄りかかってタバコを吸っているのが1人。おそろいで黒い服を身にまとって見るからにガラが悪い。
遥さんには及ばないものの私の感覚も普通の人間の精度を超えている。特に害意に対する感度は鋭敏だ。
あの男たちは今しがたこちらに対して明確な敵意を向けた。いや、正確に言うならば私の後ろ、クリニックの内部に向けてだろうか。
あれは危険だ。
9割がた確信しているが確証が欲しかった。
身体が凝って伸びをするフリをする。なるべく自然な素振りで男たちにスマホを向ける。
ピントを合わせシャッターを切る。何とかうまくいってくれた。
再びスマホをいじる動作を取る。今度は本当に操作する。
メッセージに先ほどの写真を貼り付けて遥さんに送る。
『こいつらどう思う? 危ない?』
そう送ったメッセージ。返信はすぐに来た。
『危ない』
簡潔な返信だった。
『了解』
それだけ送った。
返事は返ってこない。
私が今からやろうとしていることを遥さんは知らない。いや、知らないフリをしてくれている。
やるべきことは決まった。
ちょうどいいことにこの場に人はいない。
手早く済ませよう。
スマホをしまう。
男たちの方向に向けて足を進める。
「すいません、ここ禁煙ですよ?」
タバコを吸っている男に声をかける。
近づいてきたかと思いきや、突然、声をかけられて訝しげな表情を浮かべる男。
タバコを持つ腕に向かって手を伸ばす。
伸ばしながら思う。
あぁ、やだやだ。
今の私はちょっと先輩には見せられない。
人を壊すことに何の躊躇もなくってしまう姿なんて。
私の中には怪物がいる。
必死の理性で抑え込み、人間のフリをする化け物のような気分で生きてきた。
かつて、タガが外れ、本当の怪物になりかけた私を止めてくれたのが先輩だった。
だからだろうか。
先輩のため、遥さんのため、私たちのため。
そんな言い訳を免罪符にすれば。
何の躊躇いもなく、私は、私の怪物をさらけ出せてしまえるようになった。
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