第6話 町山英心③

 人の人生は十人十色。

 当然のことだ。

 明るく振舞っている人間が実は壮絶な人生を歩んでいたり、逆に暗く沈み込んだように見える人間が充実した日々を過ごしていたりする。

 駅のホームを忙しなく移動する人々、彼ら彼女たちもそれぞれに表面からは推し量ることができない人生の色を持っているのだろう。

 赤く燃え滾っているのか、青く澄んでいるのか、何もない真っ白なのか、灰色のようにくすんでいるのか、それともコロコロと色変わりしているのか。

 それは本人たちにしか分からない。他人には見えないものだ。

 でも、僕は少なくとも一色なら分かる。

 例えば、目の前に佇んで背を向けているサラリーマン。

 彼の人生は、今は真っ黒だ。

 それなりに大きく黒い影だ。

 モゾモゾと小刻みに動くその様は死にかけの虫を想起させた。後頭部から首筋にかけてべっとりと張り付いている。

 顔や手足があるわけではない。輪郭も煙のように蠢いてひどく曖昧なものだ。

 クチャクチャと思わず耳をふさぎたくなるような不快な音がする。学生のころ、通話しながら飲み食いをしていた奴がいた。電話越しから直接耳に届く咀嚼音が不快極まりなかったのを覚えている。

 子供のころから何度も聞いているが慣れるということはない。

 便宜上、影と呼んでいるこれは誰にも見えない。重さもないし、音も聞こえない。

 目の前の男もこれほどのしかかられて、咀嚼をされているというのに気づいた様子はない。何も感じないのだから当然だろう。

 でも、間違いなくこいつは男にのしかかり、貪り食っている。

 この男の心をだ。

「……やだなぁ」

 思わず口に出てしまうほど見てられない。

 力なく落ちた肩に申し訳なさそうに縮こまった背中だけでも彼の人生が今現在明るいものではないことが伺える。

 正直しんどい。

 自分と同じくらいか、それより下の状態のやつがいると安心するとはよく言うが、個人差がありますと注釈をつけてほしい。

 ただでさえ、自分に余裕がないというのに、こういうのを見ると心がざわついてしょうがない。足首掴まれて底なしの沼にゆっくりとひきずりこまれる気分になってしまうのだ。

 相手がスーツ姿の男とくれば猶更だ。

 だから、今からやるのは人助けではない。

 言うなればゴミが落ちていたから不快だから拾ってゴミ箱に捨てる。ふとした拍子に行うそんな行為だ。

 一歩分、男との距離を縮める。

 身体に触れぬように注意を払いながら、手を伸ばす。

 曖昧な存在にも関わらず、手のひらから感触が伝わってきた。

 飲食店でバイトをしていたころ、誤って廃棄予定の生肉に触れてしまったことがある。鮮度が落ちて弾力がまるでなく、触れた先から指が肉に沈み込んでいく感覚に不快感を覚えた。

 子供のころには、何に例えればいいのか分からなかった影(これ)の感触はまさしくそれだった。

 ズブズブと指が影に沈む。気色の悪い感覚に鳥肌が立つが歯を食いしばる。

 伸ばした手を握りしめる。

 腕に力を籠めた。

 引っこ抜くように腕を手元に引く。

 わずかな抵抗は感じたが影はあっけなく男から引き離された。

 何かの異変を感じとったのだろう。

 丸まったサラリーマンの背中がほんの少し伸びた。割れ物を扱うかのような手つきで自分の頭を触っている。

 事態が理解できないのか視線を彷徨わせ始めた。

 こちらに向かって男が振り返った。

 狐につままれたような、あるいは霧が晴れたような表情をした中年だった。

 僕に対し何か言いたげな顔をしていたが、2,3度首を振ると再び前に向き直った。

「……先輩」

 隣にいる女性から声をかけられる。不満げな声だ。

 視線を向けると新城さんは声と同様に呆れたような表情を浮かべていた。

「ごめん……」

 とっさに謝ってしまう。謝罪がすっかり口癖になってしまった。

 謝ればいいと思ってるだろ、なんて思われてしまったら嫌だが、すぐに口に出てしまう。

「別に責めてるわけじゃないですよ」

 わざとらしく口を尖らせながら新城さんは言う。

「ただ、人のこといちいち気にしすぎ」

 お前、病院行く途中だろ、と言外に責められているような気がするのは僕の被害妄想だろうか。

「……ごめん」

 ここでも謝る言葉しか出てこない死に絶えた語彙力が情けない。

 新城さんはまだ何か言いたげだったが諦めたように息を吐いた。気を紛らわせるように周辺を見渡し始める。

「他にヤバそうな人はいませんか?」

 この質問が何を意図しているのかは、僕でもさすがに分かる。

 駅のホームを見渡す。

 小さく、ぼやけた影はいくつか見える。目を凝らさなければ見落としてしまうような朧気なものだ。

 急を要するというものではない。というかあんなものにまで気を使っていてはとてもじゃないが身がもたない。

 この場に置いて一番大きな影を背負っていたのが眼前のサラリーマンだった。

「……もう、大丈夫」

「……ならいいです」

 肩をすくめたのを最後に新城さんは何も言わなくなった。スマホを取り出して軽快な指さばきでいじり始める。

 退屈しのぎだろう。

 恋人でも何でもない男の病院の付き添い、などという字ずらからして気乗りするわけがない道中だ。

「……あの、新城さん」

「何ですか?」

「む、無理して、着いてこなくて、大丈夫だよ。い、いつも、悪いし」

「まったく無理してませんよ。好きでやってるだけですし。そもそも、遥さんと交代制だからいつもってわけでもないですし」

 遠まわしに病院くらい1人で行きたいと言ったつもりだったが、スマホ画面から視線を外すことなく却下される。

 付き添いを断ったことは何度かあったが、毎回こんな感じでとりつく島もない。遥さんもこんな感じだ。

 まともに病院行くこともできないやつだと思われているんだろうか。寄り道や無駄遣いでおつかいもできない子供のごとく。

 もしくは、バカなことを考えてると思われているのか。

 1人にさせてしまったら、何かの拍子に思いつめて線路めがけて飛び降りるとでも。

 さすがにそこまでは思考は偏ってない。

 死んだら楽になるなんて考えたことはないとは言わないが、さすがに死んだら死んだでたくさんの人間に迷惑がかかるという分別くらいはある。

 いくら僕とはいえ、そういう心配はない……はず。きっと、多分、いや、日によってまちまちかもしれないけど、恐らくは。

 ここ最近で聞きなれたメロディーがホームに響く。

 そのおかげで思考が中断できた。マイナスの方向に思考の傾斜ができると一気に転がって、てんでブレーキが利かなくってしまう。

 ここで止まれたのは、正直、助かった。

 メロディーの後、電車が近づいてくることがアナウンスされる。電車がやってくるのは反対側のホームだ。

 反対側に視線を向けたことにに大した意味はなかった。それが大失敗だったことに気づいたのはそれから数秒後のことだった。

 あれは、ダメだろう。

「ダメ……だろ、あれ」

 心の声がそのまま口に出てしまった。

「先輩?」

 異変を察してか、新城さんが僕を呼ぶが返事をする余裕がない。

 影だ。

 それを先ほどのサラリーマンとは比べ物にならないほど巨大なものだ。気づいた様子もなく両隣に突っ立っている人々の背丈の頭3つ分とびぬけている。

 例えるなら、直立した巨大な芋虫だ。

 出来の悪い特撮の怪生物を連想させる。

 あんなもの見たことがない。

「先輩、何か見えたの? どこ、誰?」

 僕の肩をつかみながら、新城さんが尋ねてくる。

 視線は影に釘づけで逸らすことができない。誰なのかと答えることができない。消去法としてこの場で取れた行動は一つだけだった。

「……あれ」

 影にむかって指をさす。

 極わずかな差で電車が通り過ぎ視界を遮る。

 肩から感触が消えた。

 隣に目をむけると新城さんの姿がなかった。

 どこに行ったのかと視線をあちこちに向ける。そうこうしている間に反対側の電車は動き出してしまった。

 視線は再び反対のホームに向けられる。

 影はもういなかった。電車に乗ってしまったのだろう。

「あっ、いた」

 代わりに見えたのは新城さんだ。影のいた場所で悔しそうに地団太を踏んでいる。

 僕らがいたのはホームの中央付近で、影も同じような位置だった。移動できる階段も遠かったし、新城さんといえども間に合わなかったのだろう。

 不思議そうな顔を浮かべながら、先ほどのサラリーマンが僕と新城さんを交互に見やる。

 反対側のホームにいる彼女を発見したのだろう。先ほどまで自分の後ろに立っていて、何なら今しがたまで声も聞こえていたはずだったのだから当然だろう。

 他人に話しても流される程度の話だが、今日はこの男にとって奇天烈な日となってしまったようだ。


「うん。それで? その後は? その影、どうしたの? 無関係の人間を手あたり次第に襲ったとか?」

 駅で見た光景を山瀬医師に話してみたが失敗だったみたいだ。

 子供のように目を輝かせながら不謹慎なことを聞いてくる。

「いえ、そのまま、電車に乗って……行ってしまって、何も分からずで」

「なんだ、つまらん」

 話のオチのなさに冷めてしまったのか、山瀬医師は勢いをつけて背中を椅子の背もたれに預けた。その流れで右の頬をさする。

 何故だか頬にはガーゼが貼られていた。

「そこはもっとこうさ、話が広がっていかなきゃいけない場面じゃないの? 能力者バトルの定番でしょうが? 未知の敵が現れて、そこから壮大な戦いが始まっていくんじゃないの?」

「……すみません」

 お前、何してんのと言いたげな表情でまくしたてる理不尽の権化に対して何も悪くないはずなのに謝ってしまった。

「本当だよ。マジでつまんねぇから。せっかく僕の日常に非日常がやってきてくれたのかと思ったのにさぁ」

 頭の後ろで手を組みながら山瀬医師はつまらないと連呼する。

 この男は、非日常をご所望のようだが、冗談ではない。

 こっちは日常すらまともに送れない状態なのだ。非日常などやってこられても対応不可能だ。迷惑極まりない。

「ホント、つまらん……。まあ、話変わるけどさ、町山さん?」

「はい?」

 ひとしきり文句を垂らし終えたのか、山瀬医師が話の矛先を変える。

「町山さんの言ってた影なんだけど、そんな大きなものだったら、? ?」

「無理だと、思います」

 即答する。

 見た瞬間にダメだと断言できた。

 上手い表現が見つからないのだが、影という存在は人の心のよくない部分が具現化したものではないかと僕は定義している。

 薄っぺらい人生とはいえ、これまでも多くの人間が背負ってきた影を見てきた。

 ほとんどは頭に乗っかるほどの小さなものだが、たまに登山用のリュックほどの大物に出くわすこともあった。

 そういうものは大抵、質が悪い。背負った人間はほぼほぼろくでもない末路をたどってしまう。

 だからこそ、あの大きさはありえなかった。

 新城さんに誰だと聞かれた時、僕は答えることができなかった。

 僕には影しか見えなかったのだ。

 あの影は人よりも3周りも高い背丈で、頭からつま先にかけて身体全体を覆い隠してしまっていた。

 影の中身が男なのか女なのかすら判別できなかった。

 大きければ大きいほどヤバいのが影だ。

 憑かれている人間すら覆い隠してしまったあれは、間違いなく致死量だ。

「なんで、生きてるんだろう……」

「そこまで言うほど?」

 僕のつぶやきに山瀬医師が反応する。

「あれだけ、大きかったら、動くことも、できないと思います」

 そもそもな話、発見したのが駅のホームな時点で驚きだ。あれほどの大きさなら、気力も体力も一気に奪われて身動き一つ取ることもできないはずだ。

 それが駅に現れ、あまつさえ電車に乗って別の場所に移動したのだ。例えるなら毒に犯された身体で動きまわるに等しい行為だ。

 山瀬医師は考え込みながら無意識なのかまた頬をさする。

「その人、まあ、影背負ってた人なんだけどさ、生きてると思う?」

「……分かりません」

 当然といえば当然の疑問だ。

 言葉は濁したが、正直、可能性は限りなく低いだろう。

 あれは人が抱えられるものではない。

 もし、新城さんが捕まえることができていたとしても祓いきれたかどうかも分からない。

 あの影はどこに向かったのだろうか。

 少し前の自分を思い出してしまう。

 指先一つすら動かせず、呼吸すらも億劫になってくるやるせなさ。

 あの影を背負った人物は、あそこよりも深いところにいるのだろうか。

 もしかしたら、ひょっとしたら。

 あれが駅にいたのは最後の力を振り絞ってなのかもしれない。

 何のために?

 終わらせる場所に向かうためだったのかもしれない。

 世界を諦めるためだったのかもしれない。

 いや、そもそもな話、もしかしたら自分以外の誰かを終わらせるために……。

「しょうもないこと考えてんでしょ?」

 負の螺旋に飲み込まれた思考が強制的に停止させられる。

「自分が間に合ってればとか、もっと早く気づいていればとか、思ってない? そういうのやめない? しょうもないと思うんだよね。人間なんて死ぬときは死ぬし、生きるときはどんなに死にたくても生き延びちゃうもんなんだよ。それを町山さん程度が、どうこうできると思うなんておこがましいんじゃない?」

「……別に、そこまでは……」

「そう思ってるんなら、しょぼくれんのやめてくんない? ウザいから。人と少し変わった力あるからって自分を特別だなんて考えるもんじゃないよ。それどころか、あなた心が人よりも重症なんだから他人のこと気にする余裕ないでしょ?」

 言葉選びは不適切にもほどがあるが、言っていることはまっとうだ。時々、忘れそうになるがここは心療内科だった。

「……すいません」

「町山さんさ、スパイダーマン見たことある? 今のやつじゃなくて、初期の腹立つヒロインが出てくるやつ」

「……いえ」

「主人公が蜘蛛に噛まれて蜘蛛の力が使えるようになってイキり散らかすんだけど、育ての親である叔父が主人公に対してこんなセリフを言うんだよ。『大いなる力には、大いなる責任が伴う』って。まあ、ネットの評論とかじゃあ、世界観とか色んな意味が込められた深い言葉らしいんだけど、まあ、そういうの全部置いといて、率直に言ってこのセリフどう思うよ?」

 まくしたてるように言われると目が回ってしまいそうになる。

 気分を紛らわせるために視線を下げて、両手を見つめる。

 大いなる力には大いなる責任が伴う。

 有名なセリフなんだろう。印象に残るフレーズだ。

 子供のころからあるこの力。

 大いなる力なのかは分からない。見方によっては良い力ではあるのだろう。人の役に立てる力ではあるのだろう。

 だけど、いるかいらないで問われたら金を払ってでも捨て去りたいのが本音だ。役に立つことより、煩わしいことのほうがはるかに多い。

 持ってるだけで気苦労の絶えない、その上、自分にはてんで役に立たない。そんな力に責任がどうこうなどと言われても、正直な話。

「……そんなこと、言われてもなぁ……」

 これである。

「でしょう? 映画の世界では深みを持たせる良いセリフかもしれないけど、現実だとドン引きだよね。神様が適当に選んで適当に渡したもので自分で選んだわけでもないものに責任だ、どうとか言われてもさ。そんなもん知るかってなるでしょ」

 身もふたもないがその通りと言えばその通りな気がする。

「町山さんがどうしても他人のこと、どうこうしたいっていうなら、どうぞご勝手にって感じだけど、そういうことはせめて人並みになってからにしなよ。自分の人生すら背負えない人間がおこがましいでしょ」

 おっしゃる通りではあるが、泣いてもいいだろうか。この男は労わる立場で僕は労わられる立場のはずなのに。というかこの男、最初のほうは能力者バトルうんぬん無責任なことを言っていた気がするんだけど。

「……はい」

 そこに突っ込む勇気はなかったので身を縮こませて生返事をしてしまう。

「分をわきまえなよ。あ、そうだ、聞き忘れてた」

 好奇心が色濃く漏れ出た表情で山瀬医師が質問をしてきた。今しがたまで頬を撫でながらしかめ面して辛うじて医者らしい講釈をたれていた男とは思えない。

「はあ……」

「そのでっかい影なんだけど、中身は結局何だったの? 女? 色っぽいお姉ちゃん? それとも儚い感じの美少女?」

 なんで女性限定なんだろう。

 それはともかくとして、中身については僕も気になっていた。駅を去ってしまった後、唯一肉眼で中身を確認できたであろう新城さんに確認をした。

「……少年だったらしいです。……高校生くらいの」

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