第5話  近藤勇也

 踊る心そのままに店に向かう足取りも軽い。家路に着こうとする人々の波すら軽快によけることができた。

 鶏肉が食いたい。

 その朗報が届いた時、真っ先に思い浮かんだのがそれだった。

 ずっとダメだった。

 グチャグチャと口に広がる柔らかさ、嚙みにくさ、臭み、血の匂い。思い出すだけでも吐き気が止まらなかった。

 それがどうだろう。

 唐揚げ、焼き鳥、ローストチキン。

 これまで浮かんですらこなかったワード、想像もしたくなかった品々の絵面に涎が止まらなくなる。

 もうじき、もうすぐ食える。

 これから挙げるのは祝杯だ。

 最高のニュースを肴に、気心知れた仲間と分かち合う勝利の宴だ。

 約束の店舗へとたどり着く。流行りの曲が自動ドアを通り超して耳へと届く。こっちの心までリズミカルになってくる。

 自動ドアが開く。

 流行りのBGMそっちのけで客同士の笑い声が店内に響き渡っている。店員との注文のやり取りもこの喧噪に相槌のように挟まり、勢いを助長させている。たかが飲み食いをして生理的欲求を昇華させるにすぎない空間なのにこのバカ騒ぎ。

 馬鹿にする気にはならない。むしろ、心地いいくらいだ。

 自分も今からこの空間の一部になれることに心が湧きたつ。生きているという実感を与えてくれるような気さえした。

 視線を彷徨わせる。待ち合わせの2人はすぐに見つかった。男の方は190センチ近くの長身だ。目印にはちょうど良かった。向こうもこちらに気づいたのか俺にむかって手を振ってきた。

「すまん、遅れた」

 席に着きながら対面に並んで座る男女に謝る。男の方は高身長ではあるが、大柄特有の威圧感はあまり感じられない。

 全体的にやせ細り、栄養が行き届いていない枯れ木を思わせる風貌だ。

 垂れた目じりと少しこけた頬がその印象をさらに後押ししている。何か持病でもあるのかと疑うところだが、こいつの場合は出会ったときからこんな感じで身体はいたって健康だ。

「こっちも今来たばかりだから」

 男の隣に座る女は笑いながら答える。

 男とは正反対でこちらは小柄だ。

 15

0いくかいかないかくらいだ。隣が高身長な分、対比がえげつないことになっている。茶色がかったフワフワの長髪を団子にまとめ、丸っこい眼鏡をかけた容貌は20代中盤とはとても思えない。制服を着せて中学生と言い張っても十分に通じるのではないのだろうか。

 本人は若く見えすぎるせいで免許証がスマホ以上に手放せないとひきつった顔で語っていたっけ。

 この見た目だ。イジられる恰好のネタになるのだろうが、少なくとも俺たち3人の間でこいつの風体をなじることはない。

 俺なら耐えられない。

 小倉健おぐらたける澄子すみこ。凸凹なこの男女は、去年、籍を入れた新婚だ。婚姻届けの証人欄に名前をお願いされた時はボロボロと泣いたもんだ。

 2、3言葉を交わす間に生ビール3つがテーブルに運ばれてきた。事前に頼んでくれていたのだろう。

「「「生きてることに」」」

 それがこの3人の合言葉だった。

 3つの大ジョッキが小粋な音を立てながら重なる。

 クソったれなこの世界で生きていること、生き残れていることに乾杯。俺たちは同志だ。同じ地獄を経験して、同じ傷を背負いながらも生き残った戦友だ。

 勢いよくかっこんだビールは、喉から胃袋に、そして身体の芯に瞬く間に染み渡る。

 この一杯のために生きている、なんて陳腐なフレーズが頭に浮かぶ。俺たちの場合は生きていなければ、この一杯にありつくことすらできなかった。

「ざまあみろ」

 対面からそう呟いたのは澄子だ。泣き出したいのを堪えるかのように両手でジョッキを握りしめている。

「ざまあみろ。私たちは生きてるぞ。生きているから、美味い酒が飲めるんだ。死んじまったお前たちにできないことが、私たちにはできるんだ……。私の勝ちだ……。私たちの勝ちだ」

 荒げているわけではない。だけど、一言一句を噛みしめるように吐き出し終えたその両目から涙がこぼれ始めた。

 慰めるように健がその背中をさする。俺も黙って未使用のおしぼりを渡した。

 澄子は、見た目通り大人しい性格だ。死ねや、くたばれなんて汚い言語なんて頼まれても口にできるやつじゃない。

 それでもこいつは死者を呪った。あざけわらった。

 聖人君子を気取っているやつなら眉をひそめるだろう。だけど俺たちは分かってる。

 これこそが彼女の勝利宣言なのだと。

「ごめんね……お手洗い行ってくる」

 溢れて止まらないのだろう。目元におしぼりを当てながら、澄子は席を立った。込み入った店内をちょこちょことかき分ける小さな背中を見送る。

 残された俺は健と向き合った。

「澄子、体調崩してたって聞いたけどもう平気なのか?」

「うん。もう、大丈夫だって」

 見た目通りのボソボソとした声で健が答える。心底ホッとしたというような安堵の表情を浮かべていた。

「仕事は?」

「もう復帰してるよ」

 健と澄子は夫婦で同じ職場に勤めている。中小の町工場だ。最近まで澄子は体調を崩して仕事が休みがちになっていた。

「今までしんどかったよな……」

「そうだね。澄子は頑張った」

「バカ。お前もだよ」

 呑気に澄子を称賛するノッポを叱る。

「お前も頑張ったよ、と顔合わせてよく逃げなかったよ。すごいよ、お前」

 もしも自分だったらと想像する。

 ダメだ。絶対に吐く。

金子かねこからは、お前も嫌がらせされたんだろ?」

「遊びに行きたいからって住所はしつこく聞かれたな。契約破棄をちらつかせながら。ナそういえば休みが被ったとかいう理由でを連れて職場に来たこともあったね。さすがにその時は、社長が追い返してくれたけど」

 思わず両手で顔を覆ってしまう。

 いや、ダメだろ、それ。

「……最悪だな」

「社長は、休んでいいって言ってくれたよ。担当を変えるように取引先に話を通してくれたし、最悪、取引先が無くなってもいいって」

「……いい会社、それにいい社長さんだな」

「社長の息子さんや職場の人たちもね。それに金子もなめたやつだったから、みんなあいつのこと嫌ってたよ」

 社長の息子とは俺とも縁が深い。健たちのことを慕うあいつならさぞ心配したことだろう。

 金子の方は簡単に想像できる。

 大方、見下してる人間が働いている場所だからっていう安直な理由で職場の人間も同類だと見下したのだろう。

「だから、踏ん張れたよ。仕事が好きだったし、あんな奴のために逃げるだなんて絶対に嫌だった」

 相も変わらずボソボソとした覇気のない声だ。それなのに。

「お前、恰好いいな……」

 思わず独り言のように呟いてしまった。

「新婚だから」

 嬉しそうに指輪をチラつかせたノッポにおしぼりを投げつけてやった。

 それからほどなくして澄子がトイレから戻ってきた。

 俺たちは改めて乾杯からやり直す。

 店員に注文する際、俺は鳥の唐揚げをオーダーした。その瞬間、健と澄子は面食らった表情を浮かべた。まさに鳩が豆鉄砲を食らったような表情だ。鳥だけにな。

「大丈夫なの?」

 澄子が心配そうに聞いてくる。

「食いたくなったんだよ」

 鏡を見なくても分かる。今の俺は最高に笑顔だ。

 料理を待つ間、俺たちは何気ない会話を続けた。会話と言っても、俺はもっぱら聞き役に回った。

 2人ののろけ話だったり、苦労話だったり、お互いの愚痴だったり、世話になってる職場の息子のことだったり、やっぱりのろけ話だったり。目まぐるしく変わる会話に適当な相槌を入れながら、俺はチビチビと酒を煽った。

 胸に広がるのは安堵だ。

               ※

『金子が来た。取引先の新しい担当として。僕と澄子のことを覚えていた』

 健からこの一報を受けたときはちょうど昼飯を食い終えたころだった。いの一番にトイレに駆け込むと食ったものは全てベチャベチャした何かに変わり果てて便器にたまった。

 神様なんて鼻から信じていなかったが、いたとしたらそいつは掛け値なしのクソ野郎だ。つらい過去を乗り越えようと寄り添って暮らす男と女のことが嫌いで嫌いでしょうがなくて、苦しめないと気がすまないイカれたサディストだ。

 俺は知っていた。

 適当に漁っていたSNSでやつらの醜悪な面を見つけてしまったとき知ってしまった。

 西6は、いまだにつるんでいる。

 最悪だ。

 金子はグループ内の太鼓持ちだった。情報はすぐに他の仲間に伝達されるだろう。

 投稿された写真から確信できる。

 辛うじて人間の形を整えているが、醜悪な笑顔から滲み出る腐った性根はあのころと何も変わっていない。化け物のままだ。

 すぐに逃げるように、実家か、何だったら俺の家にでも避難するように健に連絡を入れた。しかし、人手不足と仕事が好きだという理由で固辞された。

 数日後、澄子が体調を崩したと聞かされたときには、最悪の事態に備えて知り合いの弁護士にも渡りをつけた。

 守るためには準備も覚悟も整えすぎなくらいがちょうどいい。

 あのころとは違う。

 どうせお前らは俺たちのことを壊し損ねたおもちゃだとでも思ってるんだろ? 

 調子に乗るなよ、人間もどき。

 何の変化もできないお前ら化け物と違ってこっちは成長ができる人間なんだよ。人間様の平和な生活を脅かそうって考えているのなら、害虫よろしく必ず駆除してやるよ。

 無力だった子供のころとは違う。

 ボンクラな大人だらけだったあの場所とは環境も人の質も違う。

 健と定期的に連絡を取りながら、いっそのことこちらから仕掛けようかとも考え始めていたが、それは不要に終わった。


 金子かねこ智明ともあきが死んだ。自殺だった。


 取引先の新しい担当が健たちにそう伝えたらしい。

 知り合いの伝手を辿って調べてみると本当だった。自宅で首を吊って自分の命を絶ったそうだ。糞尿ぐらいはまき散らしてくれただろうかと場違いなことを思った。

 何の前触れなく健と澄子に訪れた不運は、何の前触れもなく突如として終わりを告げた。

 それから間を置かず朗報は続く。

 高橋たかはし奈美なみも後を追うかのように自宅で手首を切って命を絶った。もう少しみっともなく死ねよと舌打ちした。

 そして、先日。

 小野夕夏おのゆうかが電車に跳ねられて死んだというニュースが届いた。死にざまとして及第点だが、最後まで人間様に迷惑かける生き物だと呆れたものだ。

             ※

 6匹中の3匹。

 10年以上経っても俺たちの人生に暗く重い影を落とし続けてきた化け物がくたばった。いともあっさりと。

 穏やかに会話する健と澄子を前に、フゥと息を吐く。

 安堵の息だ。

 訳が分からないが、2人を脅かすものがなくなったのだ。この安寧を壊すものはもう何もない。

 急に視界が滲んできた。

 ごまかすためにジョッキに残ったビールをかっこむ。

 美味い。美味すぎてやっぱり涙が出そうだ。

 おしぼりで顔でも拭こうか、そう考えた際中、鼻をくすぐる匂いが近くから漂ってきた。

「お待たせしました。若鶏の唐揚げです」

 いい油を使っているのだろう。目立った焦げ目もなく、店内の照明も相まって衣は金色に輝いている。

 実物を見たらどうなるかの不安はあった。しかし、杞憂に終わってくれそうだ。

 なみなみと大皿に盛られたそれに出かかった涙は引っ込み、代わりに口内に唾液が溢れてきた。

 はやる心に従って箸を手に取る。

 対面の2人は心配そうな表情を浮かべながらこちらを見ている。

 一番デカい気がする1つを選び取る。レモンだのマヨネーズだの胡椒だの香辛料はあったが余計なものはつけない。

 息を吹きかけ熱を飛ばす。

 一番肉の厚そうな部分に噛りつく。

 衣に閉じ込められた肉汁が口内に広がる。肉は驚くほどあっさりと噛み千切ることができた。芯まで火が通っているのだろう。溜まっていた熱が一気に解放される。

 熱い。でも、絶対に吐き出さない。

 噛み千切った肉を何度も舌の上で転がし、咀嚼する。

 熱が収まってきたタイミングで一気に飲み込んだ。続けて浴びるようにビールを押し込んで口内の熱を覚ます。

 テーブルに沈黙が訪れた。喧噪が溢れた周囲からここだけ空間ごと隔離されたような感覚だ。

 数秒か、数十秒か。最初に口を開いたのは俺だった。

「……思い出したわ」

 頬から水滴が垂れるのが分かった。

「俺、子供のころ唐揚げ大好きだったんだよ」

 そうだ、大好きだった。

「うめえな……」

 そう呟きながら、箸で挟んだままだった残りの部位を丸ごと頬張る。

 健と澄子は、何も言わない。黙って大の男の食事風景を眺めている。

 2人ともひどい顔だ。泣くか笑うかどっちかにすればいいのに。

 そう思っている俺も大概なのだろうが。

 なんせ涙はとまらないくせに、口角も上向きに強張っているのだから。

 肉の温かみを感じながら思う。

 取り戻した。

 奪われたものが帰ってきたと。

 そこからは歯止めが利かなくなった。

 3人そろってブレーキがぶっ壊れてしまったのだろう。酒は浴びるように飲んだ。一皿分で十分な料理をわざわざ3人分頼んで胃袋に詰め込んだ。

 泣き笑いの表情で注文する俺たちを店員は訝しげに見ていた。だけど、知ったこっちゃない。

 何度でも言おう。

 これは祝杯なのだ。

 他人から見たらこの席は奇妙に写ることだろう。薬をキめたヤバい連中だと思うかもしれない。でも、もしかしたら、ひょっとしたら、俺たちから幸せめいた何かを感じ取ってくれる人はいるかもしれない。

 そうであったら嬉しい。

 この喜びを、この幸福を何も知らない他人でも感じてくれたのなら、それは俺たちが今ここに生きていることの何よりの証明になるような気がした。

「あぁ~」

 6杯目か、7杯目のジョッキが空になった頃だった。

 澄子がうめくように言葉を漏らす。

、どうしてるかな?」

 伸ばした箸が皿の手前で止まった。健も飲みかけのグラスをテーブルに置く。

 町山英心。

 小柄で、覇気のない懐かしき魔法使いの姿が鮮明に蘇る。

 どん底の時代。化け物に踏みにじられ続ける毎日の中で、それでも俺たちが世界を見限らなかったのは。

 頼りのなさが服を着て歩いているような男子生徒おかげだった。

 きっと誰も知らないだろう。

 そいつがいなければ学校の屋上から飛び降りて脳みそをぶちまけることになっただろう少女がいたことを。

 トラックに弾かれてひき肉になるはずだったノッポの少年がいたことを。

 1匹でも多くを道連れにするために包丁を携えた血迷ったガキがいたことを。

「会いたいなぁ……」

 澄子の呟きに賛同するように健も頷く。

 確かに……俺も会いたい。

 まるで物語に出てくる魔法使いのように。アニメに出てくる都合のいいお助けキャラのように。

 町山英心は俺たちの前に現れてくれた。

「あいつ、今、何してるんだろうなぁ」

「何してるのかな」

「何してるんだろうね」

 3人揃って異口同音に呟く。

 町山とは卒業したきり会っていない。

 記憶の中の魔法使いは、小柄で覇気のない、頼りのない姿で止まってしまっている。

 願わくば、もう一度。

 大人になった今の頼りのない魔法使いに会いたくなった。

 そして叶うならば。

 ジョッキを持ち、誰もいない空間へと掲げる。

 叶うならば、あいつとここで乾杯をしたかった。

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