第4話 町山英心②
小柄な男が立っていた。
紅潮した顔には汗と涙と鼻水がとめどなく流れている。ヨレヨレのスーツがそのみすぼらしさをさらに助長させていた。
嗚咽を混じらせながら男は僕にむかって口を開く。
『人間になりたい。先輩、人間になりたいです……。それがだめなら、ロボットになりたい。そうすれば……もう苦しまなくてすみますよね……』
夢だ。何度目かも分からないほど見た夢だ。
夢の中の男に僕は何も答えることができなかった。
いつも通りだ。
今日の目覚めは最悪なものだろう。
最初にやってきた感覚は空腹だった。
心は泥沼に沈んでいるのに身体のほうはどうしようもなく生きたがっていることを自覚させられる。
しかし身体はひどく重い。指先一つ動かすことすら億劫になってしまっている。
それでも空腹は襲ってくる。
朝が苦手になってから早数年になる。
身を包む布団は、定期的に天日干しや乾燥してもらっている。それだというのにあまり温もりを感じることができない。むしろ、ドブ川の泥をひっかぶっているような感覚に近いかもしれない。
世話を焼いてもらっている身でありながらそう感じてしまうことが申し訳なかった。
せめて瞼だけでも開きこうと試みる。
しかし、これまた上下で縫い付けられたのかと思えるほど重たい。
意識ははっきりしているというのに身体の主導権は未だに帰ってこなかった。
意識を瞼に集中させる。
目を開く作業だけでも神経を使わなければならないことに、ほとほと嫌気が刺すがそのかいあってか何とかこじ開けることができた。
カーテンの隙間から陽光がさしている。
少なくとも今が夜ではないことは分かった。
夢見は最悪だったが朝まで眠れたぶんいつもよりはマシだろう。普段は寝つけなかったり、仮に眠りにつけたとしても夜中に何度も目が覚めてしまうことがザラだった。
山瀬医師に強めの薬を処方してもらったのがよかったのかもしれない。
視線を彷徨わせる。
枕元のスマホが視界に映る。
現金というか、現代人の
しかし、その浅ましさに対する罰なのだろうか。
手に触れるか触れないかの瀬戸際でスマホは勢いよく振動を始める。
ヒュッと息を飲み、手を引っ込める。
身体全部を壁に押しやり、スマホから距離を置く。
電話だ、出なきゃ、いやだ、でも出なきゃ、また怒られる、いやだ、でも仕事、とにかく電話に出なきゃ。
グチャグチャの思考に支配され、身体は先ほどとは別種の硬直を強制される。
そんな僕をよそにスマホの振動は止まらない。止まってくれない。
出なきゃ、とにかく出なきゃ。謝らなきゃ。
追い詰められた思考のまま震える手がスマホへと伸びる。
「先輩、これ電話じゃなくてただの目覚ましのアラームですよ」
聞きなじみのある声が聞こえた。
いつの間にか部屋に入ってきたのだろう。まるで気がつかなかった。
眼前に綺麗な手が現れたかと思えばスマホがかっさらわれる。ほんのわずかな作業工程を経て振動音は聞こえなくなった。
スマホが枕元に戻される。
怖がる幼児をあやすかのような布団の上から身体を優しく叩かれた。
それに答えるかのように強張った身体は徐々にほぐれていく。
同時に思考もほぐれていく。
そうだった。朝起きられるように振動のアラームを設定していたんだっけ。電話の着信も振動にしているためか勘違いしていた。
落ち着こう。仕事は半年前に辞めた。職場から電話が掛かってくることはもうないのだ。だから大丈夫。僕は大丈夫だ。
「落ち着きました?」
僕と目線を合わせるためにしゃがみ込みながら彼女はこちらの顔を窺ってくる。
本人曰く地毛であるらしい肩まで伸びた茶髪。それが差し込む陽光によって輝きを強めている。整った鼻筋に、小動物を連想させるクリクリとした目、日ごろから手入れが行き届いていると思われるまつ毛や眉。
間違いなく美人と評してよい顔立ちだ。
『AV女優で分類するなら活発ギャル系スレンダー美少女』と
その原因の一端は間違いなくこういうところあるだろう。
「先輩?」
大学時代からの後輩、
「……大丈夫、もう起きるよ」
身体はまだ重いが精一杯平静を装う。
23歳。社会人2年目。
仕事やプライベートを楽しむべきである時期だ。
何が悲しくて朝からこんな廃人寸前の人間の相手をさせてなくてはならないのか。
申し訳なさすぎて涙が出そうだ。
しかし、僕ごときがそんな感情を抱くことすら失礼なことなのだろう。
せめて起き上がることくらいは自分でやりたい。
上半身をベッドから持ち上げる。瞼を開ける動作とは比べ物にならないほどの疲労感が全身を襲う。
端から見たらひどく滑稽な様だろうそれを新城さんは優しげに見守ってくれていた。
「立てそうですか? 何ならお姫様抱っこしてあげますよ?」
「遠慮します……」
虚勢は簡単に見破られていたが提案は謹んで辞退させてもらった。
新城さんなら朝飯前のことだろうがそれは本当に勘弁してほしい。
「そっか。なら先にご飯用意していますから顔洗ってきてくださいね」
笑いながらそう言い残すと彼女は部屋を後にする。
また気を使わせてしまったことを恥じながらスマホの画面を確認する。
画面には土曜日の朝8時を少し超えた時刻が表示されていた。
『朝ごはんは一緒に食べよ。できる限りでいいから』
この家に転がりこんだとき、家主から提示された入居条件はそれだけだった。
料理や洗濯、掃除、あげくの果てには病院の付き添いと身の回り世話一切を委ねてしまっている。
自分が行っているのはせいぜい切り崩した貯金から捻出した雀の涙ほどの生活費を納めるだけだ。
破格の待遇を受けているごく潰し。それが僕だ。
惨めすぎる現状を憂いながらも今日も何とか唯一の約束は履行できそうなことに安堵する。そのおかげか立ち上がる労力は幾分和らいだ気がした。
動かせるようになったとはいえ、軽快になるわけでもなく身体は愚鈍そのものだ。
洗面所までの距離が果てしなく遠くに感じる。
何とか洗面所へとたどり着くと備え付けの鏡と対面する。
朝一の作業としてはこれが一番憂鬱かもしれない。
鏡に写る自分の姿を否応なく目にしなければならないからだ。
ボサボサにはねた髪、まるで生気を帯びていない目、への字に垂れた口角。かろうじて死んでいないだけの男の顔が写り込む。
どう見ても憑いてるよな……。
鏡に向かって目を凝らす。しかし、何も見えない。今日も今日とて自分の身体のどこにも影も形もない。
思わずため息が漏れてしまうが見えないものは見えない。
これ以上失望したくなかったので出来る限り鏡から目を逸らしながら洗顔を済ませる。
顔を洗っても気分は大して変わらなかったがとりあえずリビングへと向かう。
リビングに辿り着くと高級感あふれるテーブルがまず目に入る。
卓上には3人分の朝食が並べられていた。
食パンにサラダ、目玉焼きにウインナー。シンプルな組み合わせではあったが凝ったものよりずっといい。焼きたてであろうパンのにおいは自分が空腹であったことを思い出させてくれた。
「あっ、先輩来た」
「おはよう、英君」
「おはよう、ござい、ます」
テーブルを囲む椅子には女性が2人、腰かけていた。
新城さんともう1人。
初対面の人間なら艶のある長い黒髪がまず初めに印象に残るだろう。全身から包容力を漂わせ、垂れた目じりがその雰囲気を助長させる。眼鏡をかけさせて文庫本片手に読書するポーズでも取らせたら深窓の令嬢の出来上がりだ。
『演出、脚色一切なしの清楚系巨乳お姉さんという男の欲望の具現化』
山瀬医師が彼女をそう評したとき、怒らなかったあのころの僕はきっと疲れ果てていたのだろう。
3人共同で暮らしているこの家の家主であり、2歳上の従姉。きっとこの先の人生、多分死ぬまで頭の上がらない人だ。
「コーヒーにする? それとも牛乳?」
「……コーヒーで」
席に着いたタイミングで向けられた笑みに思わず居心地の悪さを感じてしまう。
思わせぶりというのだろうか。この人の所作には男が勘違いしてしまうような危なかっしさが節々に表れてしまっている。
心がスクラップになっていなければ自分も勘違い野郎の1人になっていたのかもしれない。
「はい」
2個分のフレッシュとともにコーヒーが淹れられたカップが目の前に置かれる。コーヒーの好みもしっかり把握されてしまっている。
「いただきます……」
小さく一礼をして食パンに手を伸ばす。
食事に口をつけるところを見届けると満足したように遥さんと新城さんもそれぞれの皿に手をつけた。
同居生活が始まってからそれなりの時間が経つが食卓で2人が僕よりも先に食事に手をつけたことはなかった。僕が最初の一口を取らないことにはこの家の食事は始まらないのだ。
気分としては餌をもらうペットとその様子を見守る飼い主だ。
何十回と繰り返してきたルーティーンだが一向に慣れない。というかこの現状に対して現実感が未だに乏しい。
現実に実感が追いつてこない。
そもそもの話、ここで暮らすようになった経緯が謎だった。
※
身も心も擦り切れた状態で会社を辞めた。
後輩と上司がほぼ同時期に自ら命を絶つ、そんな職場だった。
再就職もこれからの身の振り方も一切決めていなかった。
3年働いたオフィスから逃げるようにアパートに戻ると乱雑にスーツを脱ぎ捨ててベッドに飛び込んだ。
身体を丸め、目を閉じて意識が途切れるのをひたすら待つ。
社会人になって好きになったことは寝ることだった。何も考えずにすむからだ。
そこからはベッドの上で寝ているか覚めているかの記憶しかない。
辞める数日前からアパートの雨戸を締め切ってしまったため、外が明るいのか暗いのかの判別もできなかった。
食事どころか排泄する気すらおきず、時間も感覚も曖昧になってしまった空間に何とも言えない居心地のよささえ感じ始めていた。
死ぬのか、と漠然に思った。
それでもいいかとさえ思い、このままこの空間に溶け込み消えてなくなりたいとすら願い始めた。
再び意識が闇に沈み始めたその時。
何か騒がしい音が聞こえた気がしたが反応する気力はなく、数人の叫び声と謎の浮遊感を最後に意識は完全に途絶えた。
そこから気づいたときにも身体はまたしてもベッドの上だった。
ベッドはベッドでも知らないベッドに横たわり、頭上には知らない天井が浮かんでいた。
状況が理解できず、視線を右往左往させる。
右腕に刺しこまれたチューブとそこから伸びる点滴の存在が、ここが病院なのだと教えてくれた。
そこから様子を見にきた看護師や医者に容体を確認されたが曖昧な返事しか返せなかった。
医者曰く、脱水症状と栄養失調でなかなかに危ないところだったらしい。命の危機と聞いてもあまりピンとは来なかった。
むしろまだ終われないのか、とうんざりした気分になってしまった
医者の診察が終わり、しばらく天井を見つめるだけの時間が過ぎると面会人やってきた。家族だった。
この時、何を話していたのかはよく覚えていない。多分、どうしてこうなったのか、とか、何で連絡しなかったんだ、とかだったと思う。
覚えていることと言えば両親はボロボロ泣いていたこと、2つ離れた姉がひどく怒っていたこと。これぐらいだ。
ひたすらに申し訳なかった。
心配かけて申し訳ない。病院まで来てもらって申し訳ない。まともに生きれなくて申し訳ない。生まれてきてしまって申し訳ない。
つくづく消えてなくなれなかったことが悔やまれた。
記憶に残っていない会話を続けること十数分。そろそろ面会終了という時間帯でタイミングを見計らったように病室に現れたのが遥さんだった。
僕の容体を確認してから、彼女は思いもよらない一言を放った。
『英くん、しばらくの間、私の家で暮らさない?』
薄情なことだが家族との会話よりもこの時発した彼女の言葉の方が鮮明に記憶に残っている。
僕はもちろんこと一緒に聞いていた家族も面を食らった顔をしていた。
爆弾発言に全員固まってしまったところで看護師が面会時間の終了を告げにやってきた。
家族を連れ立って遥さんは病室を後にする。
強烈なインパクトを残された状態で僕は病室に置き去りにされた。
質が悪いとは言わないが、いささか冗談がすぎないだろうか。からかうにしてもこっちは点滴を打って入院もしなければならない身だというのに。
一緒に暮らす。遥さんと。
考えただけで寒気がした。
遥さんが嫌だという訳ではない。自分のような異物が他人様の生活圏に転がり込んで寄生する姿が容易に想像できて虫唾が走ってしまったのだ。
遥さんの提案が本気だとしても絶対に乗ってはならない。両親や姉も首を縦には降らないだろう。
思考はぐるぐると巡ったが疲れきった身体は睡眠を欲していた。つられるように意識も途絶えてしまう。
翌日は両親だけがやってきた。
容体や精神状態をいくつか質問される。適当に答えながら来るか来るかと思って身構えていたら案の定、遥さんの提案の件について2人は口を開いた。
『受けてもいいんじゃないかと思うんだ』
父からの言葉にとうとう耳までおかしくなったのかと思った。
何がどうなったらそうなる?
『俺も母さんも本当は実家に帰ってこさせるつもりだったんだが、遥ちゃんが絶対に自分の所で暮らした方がよくなるって言い張るんだ。迷ったんだが、あの子が断言するほどだから英心さえよければと思う。実際、何の連絡もなかったのにお前の異常に気付いたのは遥ちゃんだしな』
言外に何の連絡も寄越さなかったことに対して攻められているような気分になり肩身が狭くなる。
でも、そうか。助かったのは遥さんのおかげか。
随分と迷惑をかけてしまった。
『もろもろ手続きもあるだろうから、返事はあせらなくてもいい。まずは身体を治すことに専念しなさい』
そう言い残すと父は病室を後にして、その日の面会は終了となった。
退院まではそこからさらに2日の時間を要した。
嫌な慣れを起こしかけていた病室をようやく後にすることができた日。
父が運転するに車に乗り込み、実家へと帰路につく。
勝手の知ったる我が家とはよく言うが、最後に帰ったのがいつだったか。
つい最近のような気もするし、遠い昔のような気もするほど曖昧だった。足を踏み入れた瞬間、まるで他人の家に来てしまったような感覚に陥ってしまう。
その感覚は子供部屋であっても同じだった。使い慣れたはずのベッドですら座り心地の悪さを感じてしまう。
そんな感覚が家族への裏切りのような気がして、抱く必要のないはずの罪悪感を抱いてしまう。
拭えない感覚を抱えた状態で始まった実家生活は食事以外の時間はほぼ寝るか、雑音を耳に入れるために動画を垂れ流すという無為なことに消費された。
遥さんが実家に訪ねてきたのはそんな生活が始まって1週間後のことだった。
音沙汰がなかったので病院での話など流れたものだと勝手に思っていた。
しかし、テーブルを隔てて対面に座る遥さんの表情がそれが冗談でもなんでもないことも物語っていた。
世間話もほどほどに、彼女は複数の書類を僕と両親に提示した。
僕が入院している間に準備したのか、同居に関する同意書であったり、居住における手続き、生活費や家賃、保険に関する書類など多岐に渡る量が提示される。
書類の一枚一枚に対して、淀みのない口調で説明が加えられる。
流れるような言葉運びの前に口を挟む隙は一切なかった。かと言って内容が一切入らないということはない。強調すべき箇所や抑えておいてほしい点においては、身振り手振りを使ってこちらに示してくれる。
乗ってはいけない話のはずなのに説明されればされるほど、その話が何だか良いものであるかのように思えてきてしまう。
一流の営業職や詐欺師と言われる人たちもきっとこんな話し方をするんだろうな、とひどく場違いなことを考えてしまう。
就職してから営業の真似事のようなことをやってはいたが自分などではどう頑張ってもこの境地に行くことはできなかっただろう。
『……という事で説明はこれで全部になるけど何か質問は?』
色々と考えているうちに説明は終わってしまった。
正直、質問と言われても何をどう聞いたらいいものか。
非常に魅力的な話であるように錯覚しそうになる。いや、実際に好条件ではあるだろう。しかし、受けていいかどうかで問われれば、絶対にダメだと思う。
スクラップになっているとは言え、未婚の女性のもとに独身の男を住まわせるなんてどう考えてもダメだろう。
言いたいことは他にも色々あるが霞がかかった思考ではどれもうまく言語化することができない。
遥さんは特に焦れたようすもなく黙ってこちらを見ている。一緒に話を聞いていた両親も僕が口を開くのを待っているのだろう。同じく黙ったままだ。
気まずい空気が流れる。
急かされているわけではないのに動悸が早まり、気持ちに焦りが出てしまう。変な汗が出そうだ。
何か言わなければと口をまごつかせる。
あ~、う~、など意味のない音を発しそうになるのを堪えながらも愚鈍な口はようやく言葉を発する。
『遥さんは……どうして、僕と、暮らしたい、と思ってるんですか?』
聞きたいことは山ほどある。しかし、聞かなければならないのはまずこれだろうことは間違いない。
『直感。叔父さんたちから聞いてると思うけど直感だよ。私の家に来た方が英君がゆっくり落ち着けるってそう感じたの』
これまで通りの淀みのない口調だが答えは論理的だった今までとはかけ離れている。
根拠がなさすぎて大抵の人間ではあれば一笑にふされるような返答だ。
しかし、少なくとも我が家に限っていえば決して無視のできない内容だ。
極一部の身内しか知らないが僕と同じく遥さんには変わった特性がある。それのおかげで我が家は冗談抜きで命を救われたことすらある。
今回だってそうだ。
連絡を全て断ち切った状態の僕が辛うじて命を拾ったのも遥さんのその力が大いに関係している。
両親の顔色を窺う。
お前が決めろと言いたげな表情でこちらを見ている。
今回の件も含めてだろうが遥さんに寄せる信頼が絶大だということがよく分かる。
『もちろん決めるのは英君だよ。私が言ってるからって無理して決めなくてもいいから』
逃げ道を提示してくれているように見えて圧を感じてしまうのは僕の心が弱いせいなのだろうか。
『でも来てくれたらやっぱり嬉しいなあ。男の子がいてくれた方が何かと安心だし』
だとしても、もう少しまともな人間はいたと思うのだ。
頼りがいという面で言えば最もかけ離れているのが今の僕だ。
場の空気が自分にとって、よろしくない方向に向き始めている。僕が首を縦に振れば加速度的に話はまとまってしまうだろう。
ダメだとか、迷惑をかけたくないとか、断る理由はあげようと思えばあげられる。しかし、遥さんの前では全て無に帰すような気がしてならない。
まだまともであった頃から口で彼女に勝ったことなどない。ぶっ壊れてしまった今ともなれば猶更だ。
『英君』
遥さんが語りかけてくる。
『何度でも言うけど、私は英君が来てくれたら嬉しい。すごく安心する』
表情も口調もこれまで通りのものだ。しかし、その言葉は心なしか震えているような気がした。
理由は上手く説明できない。目を凝らしても彼女の背後に影はない。その心を推し量ることができない。
だけど確かに。
ほんのわずかながらも、目の前の凛とした女性からその雰囲気にそぐわないものが感じ取れた気がした。
『あの、遥さん』
彼女の力とは雲泥の差の直感の従い、言葉を紡ぐ。
『イエスかノーか、は、とりあえず置いといて、僕が、もし、遥さんの家で、その、お世話になるんだ、としたらですけど』
心底呆れるほどにひどい言葉遣いだ。野生児ですらもっと流暢にしゃべれるだろう。
ここ最近で人間の話し方をすっかり忘れてしまっている。
遥さんは遮ることなく聞く姿勢を崩さない。イラついた様子もないことがここではありがたい。たどたどしくあれども、慌てることなく話すことができた。
『……僕は、遥さんの、役に立てますか?』
何がどうという、まともな焦点のない質問だ。
しかし、返答は間髪入れずに来た。
『もちろん』
薄っすらとしたものではない、まさしく満面の笑みを遥さんは浮かべた。
提案を飲んだ後は、予想通りにあっという間の展開だった。
借りていたアパートの退去手続きは手早く済まされ、さほど多くはない荷物も引っ越し業者によって持ち運ばれた。
水道、ガス、電気の解約も書類手続き以外でほとんど関わることなく済んでしまい、後は身一つで遥さんの家にお世話になるだけという状況ができあがってしまった。
手際があまりにも良すぎた。事前に準備していたのではないかと思うほどだ。ひょっとしたら、話を持ってきた時点で僕が了承してしまうことを分かっていたのではないだろうか。
彼女だったら十分ありえそうで怖い。
断ってもいいと言いながらもなんだかんだ理由をつけて連れてかれることになっていたのではないだろうか。騙されたような気分になってしまう。
……騙されたと言えばもう一つある。
訳の分からないうちに引っ越し準備を終えて数日後。遥さんに連れられて辿り着いた一軒家にはもう一人同居人が待っていた。
新城さんだった。
遥さん曰く、たまたま僕と同時並行で新城さんにも同居を話が進められていたそうだ。まとまるかまとまらないか微妙なところであったそうだが僕が了承した後にすぐ決まったということらしい。
絶対に嘘だろう。
新城さんも一緒に同居などという話になれば何がどうであろうと絶対に首を縦にすることはなかった。
事前にちゃんと話をしていたし、契約書の項目にも入っていたと嘯く遥さんが悪辣なのか、聞き逃して、見逃していた僕が間抜けなのか。
多分、後者なのだろうが。
若い女性2名とポンコツになった男が1名。
シェアハウスなどもある昨今ではあるが、他人から見れば奇妙な組み合わせの同居は訳も分からないうちに始まった。
※
ここに居て本当にいいのだろうか?
コーヒーをすすりながらこれまで何十、何百回と抱いてきた疑念が頭を出す。
同居が始まってから半年ほど経つ。
山瀬医師のクリニックには引っ越してからすぐに通い始めた。
一刻も早くまともになって同居関係を解消しなければならないと思ったからだ。
しかし、これまでままならなかった現実が焦ったからと言ってすぐにどうこうなるわけもなかった。
クリニックに行く以外は、極たまに頼まれる家事をこなす。それ以外はたいてい横になるか、動画を見るぐらいしかしていない。いや、言い訳を許してもらえるのであればそれぐらいしかできないでいる。
お前はヤバいんだぞ、何とかしなきゃいけないんだぞ、と頭が必死に信号を送っているのに身体にそれを伝達する回路がオシャカになってしまっているのだ。
日光を浴びればいいやら、気分転換をすればいいやら、能天気なネットの書き込みも実行する気力はとてもじゃないが湧いてこなかった。
時間だけが無為に消費される日々。
この家における自分の異物感が日ごとに増していっている気がする。
楽し気に会話をする女性2人が対面から見える。
絵になる光景だ。
決して他人という訳ではない。
新城さんとは大学時代の先輩後輩という間柄だ。
バイト先も一緒で多分一番仲良くしていたと思う。とある騒動がきっかけで彼女にも変わった特性があることを知ったことも大きな要因だろう。
遥さんは親戚として子供のころから見知った仲だ。
狙ったわけではないが中学、高校、学部は違ったが大学まで一緒だった。
2人は僕を通して仲良くなった。
3人で一緒に遊ぶことも多かったし、関係は遥さんが大学を卒業してからも続いた。
僕が就職してからはあまり連絡は取れなかったけど、新城さんと遥さんの方はしっかりとつながっていたようだ。じゃなければ同居などしない。
談笑する様を見ると、顔は似ていなくても姉妹ですと言われたら何となくでも納得してしまうような仲むつまじさだ。
2人はこの生活のことどう思ってるのかな?
多分楽しいよとか、まったく気にしてないよとか、そういう風に言ってフォローはしてくれるんだろう。2人とも優しいから。
目を凝らす。
焦点を合わせるのは2人の背後だ。時間にして十秒ほど。
影は見えなかった。
2人の日常は今日も平穏だという確認がとれたことに安堵する。
漫画やラノベ風に言えば、スキルやらギフテッドとでも言うのだろうか。僕ら3人は奇しくも他人には持っていない特性を有している。
それが僕らの関係を今も繋いでいる。
半年前のあの日から同居に誘った理由を遥さんは直感だと言い切っている。
何か裏があるのか本音なのかまったく分からない。
新城さんも同居についても前向きだったらしく嫌悪する態度は見せたことがない。
僕の力が目当てで何か頼まれるのではと勘繰ったこともあったがそんな素振りや話題は一向に来る気配がなかった。
同情なのか、それとも別の理由があるのか。
この家における自分の立ち位置が依然として分からない。
なんでこんな生活、了承しちゃったんだろう?
これも何十、何百回と考えたことだ。
気の迷いだったと後悔し、2人に迷惑をかけている現状の申し訳なさや、惨めさに心の鉛は重くなる一方だ。
でも、僕は未だにここにいる。
多分、縋っているのだ。
遥さんから垣間見えた一瞬の揺らぎ。そこに一つ希望を見出した。
役に立てるかと聞いたら、もちろん、と即答してもらった。
役立たずのガラクタになった身でも、ポンコツの足手まといでも、ひょっとしたらまだほんの少しでも誰かの役に立てる。
そんな分をわきまえない希望を抱いてしまった。
「どうかした?」
「どうかしました?」
間抜けな顔でもしてたのだろう。2人は訝しげな表情で尋ねてきた。
「な、なんでもない、です」
たった数文字の言葉でも未だにどもることが多い。人間の言葉の使い方が未だに思い出せないでいる。
この程度のことすらできない人間だ。
役に立つ、立たないという話の以前に存在価値すらあやふやな人間なのだ。
それでもおこがましい希望を捨てきれていない。もしかしたら、いつか、とみっともなく縋る毎日だ。
もう一度2人の背後を見る。
やっぱり影はない。
「何か見えた?」
遥さんが聞いてくる。影を探していることに気がついたのだろう。さすがに視線が露骨すぎたか。
「うそ!? 何かついてますか?」
新城さんも自分の後頭部に手をやりながら尋ねてくる。
2人の質問に僕は黙って首を横に振った。
「そっか」
遥さんが安心したように笑った。つられるように新城さんも笑う。
「いつもありがとうね、英君」
何故かお礼を言われる。
不躾な視線を女性に送っただけなのに行き過ぎたリップサービスだ。
良かったね、今日も大丈夫だね、と何もない頭の後ろをお互いに触れながら笑いあう遥さんと新城さんの姿。
テーブル一つを隔てているだけなのに随分と遠くの景色を眺めているような気分だ。
とても普通で、ありふれていて、穏やかで、和やかで、とても綺麗な光景だ。
ただ死んでいないだけの毎日を過ごす身には眩しすぎるくらいだ。
唯一残された特技もここでは無用の長物となり果てている。
無力感に苛まれる日々は終わりが見えない。望みが叶う日が本当に来るのかさえ分からない。
何でもいいから役に立ちたいなぁ……。
近くて遠い光景を眺めながら、おこがましい願望を捨てられない一日が今日も過ぎていく。
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