第13話 新城有紗②

 先輩が就寝した後も私と遥さんはリビングで話を続けた。

 西中の6人のことについても教えてもらった。

 悪い意味で伝説であったのか、その所業は年代を超えて公然の秘密として広まっていたらしい。

 聞くだけで無理だと思った。

 同じ人間として認識したくない、カテゴリーに入れることすらお断りしたい部類だ。

 小野夕夏の名前が出た瞬間、先輩が浮かべた苦悶の理由が今なら分かる気がする。

「私だったら……絶対に無理……」

 同じ空間に人の皮を被った何かがいて、もしも、その毒牙が自分に向けられたとしたら。

 とてもじゃないが自分を抑えられる気がしない。

「私も無理だよ。たった一年だけでも同じ学校にいたなんて今でも寒気がする。同い年だったらと思うとゾッとする」

 遥さんも心底ホッとしたような表情を浮かべている。

 弱い立場を見抜いたら、学年関係なく標的になっていたという。

「遥さんと先輩は、大丈夫だったの? 狙われたりしなかった?」

「英君は大丈夫だったみたい」

 先輩は大丈夫。

 つまりは。

「……遥さんは、何かされたんだね」

「殺気はしまっていいよ。狙われかけただけで結局何もされてないから」

「その6人のうちの誰? 誰に狙われていたの?」

 何もなかったと遥さんは、はぐらかすがそういう問題じゃない。

 私の視線にごまかすのは無理だと判断したのか、遥さんはため息を吐く。

「……尾上正道と浅倉将吾、あと木澤彩。目的は多分……性欲と嫉妬……かな」

 ダメだ。

 目の前にそいつらがいたら、殺してるかもしれない。

 遥さんのことだ。中学時代もきっと目を引く美人だったのだろう。

 木澤彩とやらの容姿がどの程度なのかは知らないが、見当違いの嫉妬心を抱かせるほど、そして、中3の時点で2匹の猿に欲情を抱かせるほどの容姿だったのだろう。

 遥さんの力が遥さんのことを守って事なきを得たのだろうが、それは結果論に過ぎない。

 もどかしくてしょうがなくなる。

 神様は、どうしてもっと早く2人に出会わせてくれなかったんだろう。

 その時に私がいればもっと2人に安心させることができたのに。

 守ることができたのに。

「そんな顔しないの」

 宥めるように遥さんが語りかけてくる。

 私の隣まで近づいてくると猫をあやすように顎下をくすぐってきた。

「ちょ、ちょ、やめてやめて」

 むずかゆくなってきて距離をとる。

「何、急に?」

 ペット扱いに口を尖らせてしまう。

「だって怖い顔してるんだもん」

 からかうように遥さんは言う。

「そんな思いつめなくても大丈夫だよ。昔のことだし、本当に何も被害は受けてないんだから」

 それが私を安心させるために言っている強がりなのは丸わかりだった。

 遥さんは怖がりだ。

 臆病な人が自分が獣に狙われていることが分かったときの恐怖はどれほどのものだったのだろうか。

 想像すらできない。

 でも、本人の言う通り、昔のことなのも確かだ。

 私のための強がりにああだこうだ口を挟むことも余計なお世話という気がしてきた。

「……ごめん、遥さん」

「いいよ」

 私の謝罪に遥さんは笑顔で許してくれた。

 敵わないなぁと思わされる笑顔だった。


 遥さんと先輩は私の寄る辺だ。

 生まれもったバカげた力は、人との間に超えられない壁を作った。

 階段を転げ落ちても無傷で、シャトルランを150本以上こなしても息切れ一つ起こさないような存在を同じ人間として見ろと言っても土台無理な話だろうが。

 それは家族だって例外ではなかった。

 5歳のころ、誤って父の腕を握りつぶしたときから家族は血のつながった他人となってしまった。

 両親は強い人ではなかった。異常なものを正面から受け止める覚悟がなかった。さりとてまるで無責任というわけでもなく、私が自立できるまでの面倒は最後まで見てくれた。

 あからさまに虐待やらネグレクトをされていたらまた違った話になっていたかもしれないが、言葉では言い表せないような絶妙な距離感をあの人たちは保ち続けた。

 しかし、近くて遠い他人という距離感は確実に心を削っていった。

 地元を離れようという考えはいつの間にか芽生えていた。

 ここを出よう。私のことを知らない人たちの中で普通に生きようと。

 両親との溝は地元を離れる日まで埋まることはなかった。

 生まれ育った土地ではあったが居場所ではなかった場所を別れを告げて、普通に生きていこうと決意を固めた矢先。

 初めてできた友人は獣に犯されていなくなった。

 怒りのままに獣を狩った。

 同時に普通にはなれないのだと悟った。

 命も刈り取ろうと決意したときには、さぞや大きな影が私にへばりついていたことだろう。

 それを祓ってくれたのが先輩だった。

 何とも気の抜ける説得を経て、遥さんに出会い、2人が私と同じように他人にはない力を持っていることを知った。

 嬉しかった。

 既に2人の人間に大けがを負わせ、普通に生きていくことは難しいのかもしれない。

 でも、1人ではない。

 2人の存在がそう思わせてくれた。

 私が2人に寄せる感情は依存そのものだろう。

 出会ったときはあまり意識していなかったが、先輩が壊れてしまってからは、自分の中にある気色の悪い執着心を自覚してしまった。

 2人に何かがあったらと考えるだけで、もう正気じゃいられなくなる。

 2人のためなら見境がなくなるし、他のことがどうでもよくなる。

 客観的に見ても危ない人間だ。私は。

 でも、遥さんは私を受け入れてくれた。

 先輩は、私を拒絶しないでくれた。

 依存と言われようとも、ぬるま湯と言われようとも。

 私はここが心地よく。

 そして大好きだ。


 お茶を入れて少し心を休める。

 貰い物だという高そうな紅茶を遥さんが淹れてくれた。

 味は正直、違いは分からなかったけど匂いは好きだった。昂っていた心が落ち着いていくのを感じた。

 どうやら私も色々ありすぎて舞い上がっていたようだ。

 ひとしきりの沈黙を楽しんだ後、先に口を開いたのは私からだった。

「それにしてもさ、よく誰も死ななかったね」

「ん?」

 遥さんも反応して、カップを置く。

「言い方悪いんだけどさぁ、よく不登校や転校で済んだなぁって思って」

 人の心を持っていない連中に尊厳を踏みにじられ、学校からは見て見ぬフリをされ、家族にも容易には頼れない。

 多感な時期にそんな地獄に閉じ込められてしまったのだとしたら。

 世界を諦めてしまったとしても何の不思議もない。

 運や偶然で片づけられるかもしれない何気ない疑問だった。

 何気ない疑問のはずだった。

「……英君、頑張ったからね……」

 カップに残った紅茶の残りを眺めながら遥さんが呟いた。

「……先輩が?」

 聞き返した後、そのセリフがいかに間抜けであったかすぐ理解する。

 最悪もいいところの地獄の中で、何人死んだとしてもおかしくなかった世界で、何故、誰も死ななかったのか。

 事情を知っていれば簡単なことだった。

「先輩って……そんな時から」

「ずっと頑張ってたね」

 先輩がいたからだ。

 直接、体験した身だからこそ言える。

 あれは奇跡の力だ。

 中二病くさく言ってしまえば、人の心に巣くう闇を祓う。そんな力。

 だけど勘違いしてはいけない。

 特別な力があるからと言って、みんながみんなテレビのヒーローみたいにその力を正しく行使するとは限らないのだ。

 悪用するかもしれない。ひた隠しにするかもしれない。そもそも興味すら持たないかもしれない。

 力は持っているだけでそこに義務など生じない。

 どう使おうが極論、その人の自由だ。

 でも。

 守ってきたのだ。彼は。

 初対面の連続暴行犯のときのように、今日、駅で見かけたサラリーマンのときのように。

 ずっとずっと助けてきたのだ。

「人のことばっかなのは、昔からなんだね……」

「みんなから褒められるわけでもないのにね」

 困ったように遥さんが笑う。

 助けられた分際で言うべきことじゃあないけど、人のことばかり気にしすぎなのだ。あの人は。

 報酬が出るわけでもない。

 感謝があるわけでもない。

 誰も彼もが救われたがっているわけでもないので徒労に終わる可能性だってある。

 どうしてそんなことしてしまうのか聞いたことがある。

『見てられないから』

 先輩はあっさりとそう答えた。

 見てられないから、見たくないものを見てしまった。放っておくのが嫌だった。だから、手を伸ばす。

 それが理由だと。

 尊いことではあるのかもしれない。

 すばらしいことではあるのかもしれない。

 だけど。

「でも、みんながみんな救われたわけじゃあ、ないんでしょ?」

「……死なせないだけで精一杯だったって言ってたね」

 当時の彼の心境が痛いほど伝わってくる。

 ただ死ななかっただけ。

 最悪の事態は避けられたとしても、言ってしまえばただそれだけにすぎない。

 何人もの人間が不登校と転校という手段を選ばざるおえなかったのがそれを物語っている。

 あの人のことだ。

 仕方ないこと、しょうがないことと割り切るフリをして今でも心に引っかかっていることだろう。

 町山英心という人は、全能でも万能でも超人でもない。

 頭がお花畑か、相当のサイコパスでもなければ持て余してしまうような力を持っただけの普通の人間だ。

 仕事が辛すぎて壊れた、と先輩は言った。

 それもあるのだろうが、私と遥さんの見立ては違う。

 彼を壊したのは小さな積み重ねだ。

 身の丈を超える力に振り回され、助けることができたとしても、それも一時的にすぎず、その度に無力感に苛まれる。

 強い弱い、大きい小さいの問題ではない。

 人間の許容量には限界がある。

 小さな絶望の積み重ね。

 器の限界を超えてしまえば後は崩壊するしかない。

「先輩の力ってさ……やっぱりクソだね」

「そうだね」

「先輩もさ、やめればいいのに、今日だって知らないサラリーマンのおじさん助けてるからね」

「……病院に行くのは、やっぱり車にした方がいいのかなぁ」

「ホントだね」

 遥さんの言葉に賛同する。

 病院くらいは自力で行きたいと言ったのは先輩だ。

 私たちはその意思を尊重しているわけだが、内心では反対だ。

 器がぶっ壊れてしまっていても力自体は残ってしまっている。

 人が集まる場所に行けば、当然、嫌が応でも見えてしまうことになるのだ。

 人の本質は早々変わらない。

 する必要もない。

 やめておけばいいのに。

 余裕があるはずもないのに。

 見たくないという理由だけで、彼は手を伸ばしてしまう。

「でも、病院でもおんなじことやらかしてるし……」

「そのおかげで山瀬先生もこっちの事情を知ってもらえたんだけどね」

「こっちの仕事奪うなって言ってたね」

「英君いれば医者いらずだもんね」

「笑いごとじゃないんだけど……」

 冗談に唇を尖らす。

 先輩の行動はきっと本人にとってプラスになることはない。

 力に振り回されて、義務的に、機械的に身体を動かされて余計な気疲れを起こしてしまっているだけなような気さえする。

「このまんまじゃ余計に壊れちゃうよ」

「もっと自分のこと、大事にしてほしいのにねぇ」

 本当にその通りだ。

 あの人、自分をどう扱っていいのかまったく分かっていない。

 もっと自分を優先できていれば、壊れることもなかったはずだ。

「でもねぇ……」

 ぶつけどころのない憤りに対し、対面からきたのは諦めにも似たつぶやきだった。

「英君が、ああいう人だから、私たちここにいることができてるんだよねぇ」

「遥さん。それ言っちゃったら元も子もないから」

 それを持ち出すのは反則だ。

 それを言われたら何も言えなくなってしまう。

 かつて取り返しのつかない道を歩みかけたのを先輩の力によって救われた。

 遥さんも多くは語らないが幼いころから先輩に守られてきたからこそ

 便利で不自由な力と折り合いをつけてこれた。

 先輩の力によるところが大きかったのは確かだろう。

 でも、肝心なのはそこじゃあない。

 町山英心が町山英心であったこと。

 目を閉じるのではなく、手を伸ばす人だったからこそ私たちは摺りつぶされることなく生きてこれたのだ。

 でも。

 だからこそ。

「悔しくなるじゃん……」

 だからこそ今の現状が悔しくてならない。

 見てられないから、という馬鹿みたいに優しい理由で動ける人が苦しみ続けなければならない今が腹立たしくてならなかった。


 これ以上、考えすぎると影ができる。

 私のことを見かねてか、遥さんはそう提案し、その場はお開きになることとなった。

 指摘を受けた瞬間には思わず後頭部を意味もなくさすってしまった。

 影というものが、人のよくない感情が具現化したようなものであるというのは先輩からの話で何となくだが理解している。

 しかし、どの程度の負の感情で生まれてくるのかは先輩にも分からないらしい。

 無用な感情を募らせて我が家でそんなもの発生させてしまえば本末転倒だ。

 私も寝よう。

 そう思い立ち、化粧を落とすためにリビングを後にしようとする。

「影……か」

 キッチンから聞こえたそれは遥さんの独り言だった。

 カップを洗うために流した水にまぎれたそれを人よりも鋭敏な聴覚が捕える。

「影がどうしたの?」

 聞き流してもよかったのだが、気になってしまい話しかけることにした。

 聞かれていたとは思わなかったのだろう。慌てて水道を止めるとこちらを向いた。

「あぁ……、何ていうか少し気になることが……」

 水に濡れた手を拭きながら遥さんは困ったような表情を浮かべる。

「何?」

「……英君が駅で見たっていう影のこと」

「……でっかいやつのこと?」

「そう」

「それが気になるの?」

 遥さんが頷く。

「まだうまく説明できないの。そうね……喉に魚の小骨が引っかかってるようなそんな程度の違和感なんだけど、確かに頭にこびりついて離れない感じなの」

 常人とは一線を画す感覚を持った遥さんが感じた違和感。

 背筋を凍らせる理由としては十分だった。

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