落ち溜まり⑦


 枯木原勝は初め、松田先生の手に心臓が握られているのだと思った。心臓と言っても、ただの心臓ではない。重度のストレスにむしばまれ、所々張り裂けた部分から真っ黒な血が吹き出し、全体をおおうようにしたたっている。

 無論これは現実を正しく捉えているとは言えず、恐らくは保健の教科書に載っていた『煙草を吸う人の肺』を題材として、勝の脳が勝手に作り出した幻覚に他ならない。現実を直視すれば、そこには黒く光沢のある拳銃を握った男がたたずんでいる。心臓と拳銃。リアリティという尺度で比べれば、さほど大差があるようにも思えなかった。

 事前に先生から聞かされた計画では、放課後に犬飼、猿子ましこ、雉田の三名を呼び出し、録音機器を使って、いじめの決定的な証拠を押さえる手筈となっていた。

 そこで勝に課された役割は二つ。一つは、先生を裏切ったふりをして、偽の盗聴器の存在を三人に告げ口すること。もう一つは、放課後に三人を教室へ誘導することだ。

 人は、相手を出し抜いたと思っている時が、最も油断しやすい。したがって、三人が自らの手で盗聴器を無効化した状態ならば、いじめに関して口を滑らせるんじゃないか。そう期待してのくわだてだった。

 「先生は、生徒が帰った後に盗聴器を回収するらしいから、現場を押さえに行くのはどうだろうか」という口実で、勝は三人を教室へ誘い出すつもりでいた。ところが彼らは、裏切り者をそもそも信用せず、問答無用で制服を剥ぎ取ると、掃除用具入れに詰め込んだ。

 そのせいで勝は先生と連絡が取れなくなり、二つ目の役割も果たせなくなってしまった。だが幸いにも、事は計画通りに運んだ。調子に乗って脅迫にまで手を染めてくれたおかげで、図らずも目的は達成された、はずだった。

 先生は、三人に別の録音機器の存在をバラしたうえに、突如として雰囲気を一転させる。上着から意気揚々と拳銃を取り出した時点で、ようやく勝自身も騙されたうちの一人だと悟った。

 「全員、そいつを寄越しなさい」

 先生が銃口を雉田の携帯端末に向けながら言う。今のところ全員の中に勝は含まれていないらしい。三人は、先生の顔と拳銃の間で視線を行ったり来たりさせながら、さっきまでとは違い、素直に命令に従った。

 先生は三人から携帯端末を取り上げると、「君には、みっともない姿を撮られてしまったからな」と言い、雉田のそれを床に叩きつけ、容赦なく踏みつける。「ガキには過ぎたる物の一つだ」

 気づけば耳型の機械から流れる音が消えていて、先生はそれを大事そうに上着の内ポケットにしまった。未だ本物かどうか定かでない拳銃を、今度は犬飼へと向けて構える。

 「お前のような奴は、自分以外を人間とも思っていないんだろうな。人の事を崖っぷちに立たせておいて、あの手この手で崖下に飛ばせようとした挙句、取り返しのつかない事が起きた途端、知らなかった、そんなつもりはなかったと言い訳する」

 先生が、じりじりと距離を詰めると、教室の中央に集まった三人は、それぞれ違う反応を見せた。雉田は後ずさりに失敗して尻餅をつき、猿子は膝をガクガク震わせながら嗚咽を漏らす。犬飼だけは変わらずその場に突っ立っていたが、もしかすると恐怖のあまり一歩も動けなかったのかもしれない。

 「知ってるか? 一年で最も離婚件数が多いのは三月なんだそうだ。結局、人はどこまでいっても理性的に行動する生き物らしい。大した理由もなく、理性的に他者を痛めつける唯一の動物。天使になんてなれるはずがないだろうに」

 すると緊張が限界に達したのか、手に鋏を握った猿子が気でも狂ったような奇声をあげながら、先生に飛びかかった。寸前までボロボロ涙を流していた猿子の動きは思いのほか俊敏で、しかし先生は顔色一つ変えない。素手であっという間に制圧し、返り討ちにあった猿子はその場で動かなくなってしまった。「まったく。人の話は最後まで聞くって学校で教わらなかったのか? 銃を持った人間には逆らうなって学校で習わなかったのか?」

 その光景を目にした犬飼は、あまりの恐怖に感情をコントロール出来なくなってしまったのか、顔に薄っすらと笑みを浮かべる。血走った眼で先生を睨みつけながら、口から大量の唾を飛ばした。

 「偽物だ、偽物に決まってる。本物の拳銃がこんなところにあるはずがない」

 「そう思うか? いいだろう。こいつは最後に取って置くつもりだったが、君の希望に沿おうじゃないか。さあ、かかってこい」そう言って、先生は拳銃を構え、犬飼の頭に狙いを定めた。だが、いくら待っても動こうとしない様子に、若干の失望を滲ませながら、さらに挑発を加えた。「来ないのか? 偽物なんだろう? 仮に本物だとしても、二人で一斉に飛びかかれば、君たちにも勝機はあるはずだ。一人が撃たれている隙に、もう一人が俺を取り押さえればいい。ただし俺もお人好しじゃないから、確実に一人は仕留めるだろう。その一人にならない自信があるなら飛び込んでくればいい。ほら、どうした?」

 それでも二人が黙ったまま微動だにしないのを見て、先生は深くため息を吐く。

 「なんだ、ギャンブルは苦手か? 俺は結構得意なんだけどな」

 勝は視界に映る先生が、さらに別の何かに変化しようとしているのを感じた。実体はそのままに、存在だけが地面を離れ、宙に浮かんでいる。死神の文字が頭を過った。そう思うや否や、手にした拳銃が質量を無視してにゅっと伸び、大きな鎌へと変貌を遂げる。

 「そうだ、お前たち。倉庫のアズサさんって知ってるか?」

 先生は反抗心を根こそぎ刈り取られてしまった犬飼たちを相手に、勝に正体を明かしたあの夜と同じような調子で語り掛ける。

 倉庫のアズサさんが誕生したのは、先生がこの学校に教師として戻ってきた年のこと。夕暮れに染まる人気のない廊下で、泥だらけの体操着を手に涙ぐむ田村梓たむらあずさと出会った。

 粘り強く話を聞き、事情を理解した先生は、彼女を救うべく奔走したものの、万策尽き、仕方なくある行動に踏み切った。

 いじめの主犯格である女子生徒、並びにその家族を密かに尾行。隠し撮りした写真に加え、即刻いじめを辞めるよう警告する手紙をその生徒の鞄に潜ませた。

 写真と手紙を受け取った女子生徒は、ひどく震え上がっていたらしい。それもそのはず、中には授業中の廊下から撮った写真や、父親の不倫の証拠写真まで混ざっていたからだ。

 正体不明の盗撮犯に対し、完全に戦意喪失していた女子生徒にとって、障壁となる問題が一つあった。いじめを辞めるにしたって、それまで一緒に事に及んでいた仲間には何と説明すれば良いのか。そこで彼女が悩んだ末に出した答えというのが、「これ以上いじめると幽霊に祟られるからやめよう」だった。

 「突拍子もなくて笑えたよ。幽霊だの、祟りだの、お前は本当に高校生か?ってな。だがまあ、ちょうど良いから利用させてもらう事にしたんだ」

 そもそも勝のいじめに関しても、先生が丹精込めて創りあげた『倉庫のアズサさん』を使って脅し、手を引かせるつもりだと聞いていた。しかし、急遽その方針が変更された。

 「気づいていないだろうが、実はお前のこともしばらく見張ってたんだ。でも、すぐにやめたよ。時間の無駄だからな。ただ俺としては、お前に感謝もしているんだ」

 忘れかけていた夢を思い出させてくれてありがとう、と先生は犬飼にお礼を言った後で、顔の向きを変える。「おい、そこで這いつくばってるお前。教師の仕事とは何だ」

 訊ねられた雉田は、まず何よりも先に犬飼の様子を窺い、反応がないと分かると困り果てた顔をした。「べ、勉強を教えること」

 「その通りだ」

 ここで何を答えても否定されるか、怒鳴られるとでも思っていたのかもしれない。意外にも予想が外れた事で、雉田はホッと胸を撫で下ろす。が、続く言葉にまたもや顔色を悪くした。

 「だと言うのに、現状はそれ以外のことに労力を費やされている。生徒同士の問題。生徒の親を含むトラブル。そもそも市民同士のいさかいを治める警察だって、警察学校という専門の機関で半年以上鍛えるのに、ひと月やそこらの教育実習しか経験のない人間に何を期待しているんだ。一度通った道だから分かるだろ、とでも言いたいのか。思うに、教師と生徒の間には、絶対的な優位性が担保されるべきだ。武器を持たせるとか、何をされても文句は言わないと一筆いっぴつ書かせるとか。そうじゃないから奴らはつけあがるし、『学校は勉強以外のことを学ぶ場所だ』なんて戯言を大声で叫ぶ連中まで現れる」

 語りが熱を帯びてきたところで、先生は突然グッと歯を食いしばり、平静を取り戻す。まるで興奮した自分をいましめるかのように、正面を見つめたまま動かない。それはギリギリのバランスで平常心を保ちながら、残り僅かな正気を失わぬよう何とかこらえているようにも見えた。

 「つい無駄話をしてしまったな。時間だよ、枯木原」

 それまでずっと放って置かれていたのに、急に自分の名前が呼ばれて、勝の体がびくんと跳ねる。

 「先生、一体何をする気ですか」

 「誰かを殺したいほど憎んでも、大抵は手段がないか、理性がその邪魔をする。今からそれらを取り払ってやろう」おもむろに近寄ってきた先生は銃を持つ手とは反対の手で銃身を掴むと、グリップを勝の方に向ける形で手渡す。「俺は、理性の正体は責任だと思っている。外国で、見ず知らずの人間に電流を流せるかという実験が行われた際、責任に問われないという条件が追加された途端、半数以上の参加者が見ず知らずの人間に電流を流したそうだ。責任さえなければ、人は案外すんなり理性を捨てられる」

 「そんな」

 「ここで起きた罪は、全て俺が代わりに引き受けよう。君は理性を捨て、ただその引き金を引けばいい。さあ、弱者と強者は入れ代わった。狩人が獲物を狩る時間だ」

 「三人を殺せということですか」

 「そうだ」先生は両手で銃を持った勝の肩を掴み、構えを取らせる。「よーく狙え」まばたき一つせず、その目はすっかり飛んでしまっていた。

 「いきなりそんな事を言われたって、僕には出来ませんよ。確かに彼らは殺したいほど憎いけど、これが正しい解決法なのか分からないし。とにかく一度話し合いませんか」

 「甘いな。八年前に同じ事を言った男が、世間の荒波に巻かれて溺れ死んだよ。正しい解決法なんてものは存在しない。殺したいほど憎いんだろ? 今ならそれが可能だ」

 「けど、本当に殺すなんて」

 「さあ。さあ。さあ。さあ」

 耳元で急かすように繰り返される先生の声。勝は発狂しそうになりながら、肩に置かれた手を振りほどく。「無理ですよ!」

 「どうしたんだ、枯木原。こいつらを見逃すのか? きっとこいつらは平気でまた同じような事をするぞ?」

 「三人には何度も殴られたし、死ぬほど悔しい思いもした。その度に殺してやりたいと思った。でも、僕には出来ません」

 涙ながらに抵抗する勝を前に、先生は少しだけ眉を下げて言った。

 「……そうか。だったら君はもう帰っていいぞ」

 「先生、こんな事やめませんか」

 「気にするな。後始末は俺が請け負う。なんたって俺はもう後戻りできないからな」

 話の流れから、自分たちの命運が尽きかけている事に気づいた犬飼や雉田が口々に命乞いを始めた。先生はそれを興味なさそうに聞きながら、嘲笑う。「お前が階段から突き落とした老人や、暴力で金を巻き上げた学生が聞いたらどう思うかな。何なら最後にビートルズでも歌ってみるか?」

 「落ち着いて下さい、先生。後戻りできないなんて、まだ全然間に合いますって。警察には僕がきちんと説明しますから、どうか諦めないで下さい。……そうだ、実は僕、父親に誘拐されそうになった事があって。父親って言っても、母とはずっと前に離婚してて、小学生の頃の僕からすれば知らないおじさんだったんですけど。それで絶体絶命、もう駄目だって諦めかけた時に、この学校の制服を着たお姉さんに助けられたんです。だから、その、何が言いたいかって言うとですね。何事も諦めなければ意外と何とかなるっていうか」

 その言葉を聞いた先生が、呆けるように口をポカンと開け、勝の顔を一心に見つめる。そして微かに笑みを浮かべると、次の瞬間、拳銃の引き金を引いた。目の前で打ち上げ花火が破裂したかのような大きな音。勝は思わず両手で耳を塞ぎ、目を瞑った。


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