m+other⑤


 声が聞こえる。視界の一面に広がった真っ白い膜。「おい、起きろ」声が聞こえる度に、その膜の中心に雫が落ちる。「まいったな。これほど目覚めないとは」やがて膜は波紋の広がりと共に、何かの像を映し出そうとする。「仕方ない。もう一度」最初に輪郭が見えてきて、その次に口、鼻、目と、徐々に人の顔が完成していく。やがて見覚えのある顔になったその像が言う。「おい、起きろ。朝だぞ」梓は普段の調子で言い返した。

 「何度も言わなくたって聞こえてるわよ、この馬鹿!」

 人生で最も酷い目覚めだ。体中の骨がギシギシと悲鳴をあげる。可能ならば、今すぐにでも全ての関節という関節を余さず伸ばし尽くしたい気分だが、どうにもそれは出来そうにない。というのも、現在の梓は手首と足首をそれぞれロープで縛られ、お人形さんみたく椅子に無理やり座らされている状態だからだ。

 正面では、男が驚きのあまり目を点にしていた。「すまない」宛先違いの罵りに、律儀にも浅くお辞儀をしてから、後方の椅子に腰かける。その声には聞き覚えがあり、すぐにマスク男の声だと気付いた。

 フードを脱ぎ、マスクを外した男は、声から想像するよりもずっと老けた見た目をしていた。髪の生え際がいちじるしく後退し、岩肌にむす苔のような無精ひげの上からでも、頬がこけているのが分かる。生気のない両目は、明らかに焦点が合っていない。

 「目が覚めたようだな。起きて早々に悪いが、状況は理解できているか?」

 そう問われ、梓は段々と自分の身に起きた事を思い出していく。路地裏で出会った女性を助けようとして、見知らぬ男たちに車で連れ去られた。記憶がはっきりすればするほど、胸の内に恐怖心と思い出さなきゃ良かったという後悔が溢れる。

 「水を」

 下さいか、頂戴か。どちらにすべきか悩んで、どちらも声にならなかった。けれど、男は黙って頷き、扉の奥に向かって水を運ぶよう命令を出す。どうやら連れ去られる最中に口の中を切ったらしく、痛みはそれほどだが、嫌な味が残っていて気持ち悪い。

 梓はさらに続ける。

 「ここはどこ?」

 「教えると思うか?」男が馬鹿にするような笑みを浮かべた。「そうだな。教えてやってもいいが、それは君がこちらの質問に答えた後にしよう」と言うので、梓は、やむなく自分で周囲を確認する。ふと、こんなにも笑顔の似合わない人間が他にもいたんだなぁと思った。

 梓が今居るのは、建物の一室のようだ。照明が裸電球一つだけの薄暗い部屋に、マスク男と二人きり。部屋の広さは自宅のそれに比べると狭いが、二人が座る椅子くらいしか家具がないため、窮屈さを感じる程ではない。窓には厚手のカーテンが吊るされており、外の様子は窺えないものの、隙間から零れるぼんやりとした光によって、すでに夜は明けたのだと分かる。

 ようやく梓のもとに水が運ばれてきた。

 「戌亥、飲ませてやってくれ」

 戌亥と呼ばれる男は、背丈的にも車の助手席から降りてきた男で間違いない。不躾ぶしつけにコップを口元へ近づけようとしたので、梓は反射的に顔を背ける。顎を殴られた時の感触が蘇った。

 「た、ただの水だよ」戌亥が悪気なく言う。

 「……分かってるわよ」

 梓はどうにか恐怖心を抑え付け、コップに口をつけた。傷口がみたが、気にしない。全部飲み干したところで、マスク男に不満を漏らす。「これっぽっち?」

 水はコップの半分にも満たない量しか入っておらず、口内の気持ち悪さを拭い取るには、十分ではない。

 「我慢してくれ。俺はまだ君が何者か知らない。そのロープを外せない以上、トイレにも行かせられない」マスク男が薄くなった頭頂部を確認するように手で触りながら言う。「あまり床を汚して欲しくないんだ」

 当然、梓にも言い分はあったが、これ以上の口答えはしなかった。今は多少なりとも友好的に見える男がどんな反応をするか分からないし、それで彼らの方針が変更されるとも思えなかった。

 用事を済ませた戌亥が部屋を後にする。「ご、ごめんよ、寅卯。俺のせいで」

 「よせ。その話は済んだはずだ」

 「でもよ、せ、せっかく二人分の報酬が貰えそうだったのに」

 「さっきも言っただろ? ヘマしたのは俺だ。誰もお前を責めちゃいない」

 「でもよ。でもよ、寅卯」

 扉の前で頭を抱え、うずくまる戌亥。その様子は見るからに異様で、肩や背中がまるで自我を持ったみたく好き勝手に飛び跳ねる。呻き声と共に、体全体が激しく震えはじめた。

 「おおおおお前がしっかりしないせいで、こうなったんだぞ、ノロマ野郎! ごめんよ、ほ、本当にごめんよぉ。謝ってすむか! このマヌケ! うぅ……」

 突如繰り広げられた一人芝居を、梓は茫然と眺める。顔を上げた戌亥は、怒ったかと思えば自らそれに謝り、罵倒したかと思えば涙を浮かべて許しを請う。多重人格。普段、漫画やドラマでしか接する事のない言葉が、パッと頭に浮かんだ。そういえば、街で目にした彼の言動は、水を飲ませる時のおどおどした印象と随分かけ離れていた気がする。

 「戌亥。すまないが、早く下がってくれないか。彼女が混乱している」

 「あ、ああ、ああ。ごめん」戌亥の謝罪は、彼が部屋を出た後もしばらく聞こえ続けた。

 「驚かして悪かった。あいつは少々変わってるんだ」

 「ねぇ、トラウって?」

 「ああ。それは俺の名前だよ。干支のトラにウサギで寅卯。良い名前だろ?」

 寅卯が同意を求めてくるが、はたして本当に本人もそう思っているのか、表情からは判断つかない。そもそも干支のトラとウサギの字があまりピンとこず、梓は思いついた事をそのまま口にする。「トラウに捕われるなんて、どんな冗談よ」

 「なるほど。その謳い文句は考え付かなかった。『寅卯がきちんと捕えます』。今度、営業で使わせて貰うとしよう」ポケットから取り出したメモ帳に、慣れた手つきでペンを走らせた。「さて、そろそろ本題に移ろうか」

 立ち上がった寅卯が椅子を持ち上げる。膝がぶつかる距離まで来て、座りなおした。おじさん特有の、タバコの煙をベースとした臭いに混じり、甘い香りが漂ってくる。

 「申し訳ないが、君が気を失っている間に、ボディチェックをさせてもらった」寅卯の顔は、欠片も申し訳なさそうではない。事実を淡々と列挙するだけのロボットと対面している気分だ。「君の所持品は、写真が一枚とファミレスの食事券が数枚。他には何も持っていなかった。財布も、携帯も。それを踏まえた上で質問なんだが、君はあの場所で何をしていたんだ?」

 何をしていたのかと改めて訊ねられたところで、正直な話、自分でもよく分からないとしか答えられない。昨日は些細なことから花子と喧嘩になり、家を飛び出して、街へ向かった。街では人波に飲まれ、それから。

 「猫」梓はポンと手を叩き、実際には手首をロープで縛られているので不可能だが、それくらいの軽い調子で答える。「猫を追いかけていたの」

 それを聞いた寅卯は、まるで充電の切れたロボットみたいに動きが止まる。少し間を置いて、訝しむような表情を浮かべた。

 「猫とは、何の隠語だ?」

 「隠語じゃなくて、そのままの意味よ」

 「四本足で、牙があり、目が光る、あの」

 「その通りだけど、目は光らないわ」

 「猫といえば、小学生の時に捨て猫を拾ってきたことがある。結局、家じゃ飼えずに元の場所に戻したんだ。無責任なことをした」

 寅卯が唐突に懺悔してみせたのは、恐らく梓の回答を上手く咀嚼できなかったからだろう。特には罪の意識を感じている風でもなく、腕組みをしたまま思考を巡らせている。

 「黒猫がいたのよ。飼い猫によく似た黒猫が。建物の壁をピョンピョンって、よじ登っちゃって。手が届かなくて困ってたの」

 「ふむ……では、質問を変えよう。君があの場所にいたのは偶然か、それとも誰かに依頼されたのか。どちらだ?」

 「依頼?」新しい質問の意図がつかめず、今度は梓が何とも言えない表情を浮かべる。「だから、私は猫を」と口にしたところで、寅卯が言葉を遮った。

 「質問にだけ答えろ」

 「……偶然よ」

 梓は正直に答えたのだが、どうやらその答えもお気に召すものではなかったらしい。寅卯は納得していないような顔で、小さく息を吐きだした。

 お互いに黙ったまま、時間だけが過ぎる。今度は梓の方から話しかけた。 

 「質問しても?」

 「ああ。答えられるものであれば答えよう」

 「どうして誘拐なんてしてるの?」

 「誘拐」思いも寄らぬ単語に面食らうような、あるいは言葉を噛みしめるような間があった。「大雑把に言えば、仕方なくだ」

 「何度も同じような事を?」

 「そうだな」

 「これから私はどうなるの?」

 「今回は少しだけイレギュラーだから、君に危険性がないと分かってから、指定の場所に連れていく。クライアントは我々に、『若くて健康な女性を一人連れてこい』と命令した。だが、戌亥が言った通り、一人でなく二人でも、なんなら三人でも良い。多ければ多いほど良い。その分、報酬を弾んでくれる。その後については、分からないとしか言えない」

 梓は背中のそこかしこで鳥肌が立つのを感じた。身代金が目当ての誘拐であれば、この状況にもまだ微かな希望が持てたかもしれない。けれど、その考えを嘲笑うかのような、マトモではない人間の悪意と狂気に晒された自分自身を想像して、思わず絶句する。

 重苦しい沈黙が再び訪れ、その空気に耐え兼ねたというわけでもないのだろうが、寅卯があの写真を取り出して、梓に見せた。「この写真に写っているのは、君と君の母親か?」

 「そうよ」

 「美人な母親だな。今でも、さぞかしお綺麗なのだろう」

 「母は、私を産んですぐに死んだわ」

 「それは、その。何と言うか」

 「いいわよ、別に。最初から居なかったようなものだし」梓は目線を下げ、決心したように一度大きく深呼吸をした。「私に誘拐するほどの価値はないわよ」

 ただただ助かりたい。その一心で、見ず知らずの男にこの話をしようとしている。人間の、というか自分の往生際の悪さと愚かさに、ほとほと呆れ返る。

 「だって、私は健康な女性じゃないもの」


 母親が亡くなったのは、梓が産まれて五日後のことだ。妊娠中期の頃から病状が悪化し、医者からは梓が健康に産まれてきたことさえ奇跡的と言われるほどだった。

 母親の命を奪った病は、日本ではまだ症例報告がほとんどない病気で、治療法が見つかっていない。所謂いわゆる、不治の病というやつだ。

 病気の進行スピードは人それぞれ。一年で命を落とす場合もあれば、十年経っても日常生活に支障がない場合もある。また、一度症状が表に出ると、そこからは石が坂を転げ落ちるように一気に進行するのが、この病の特徴だ。

 梓がその病気を発病したのが、大学一年生の時。検査入院した病院で、医者から病気の説明を受けても、当初はそれほど気落ちしなかった。何とかなるはずだ。すぐにでも治療法が見つかるに違いない。こんな病気で私がくたばるわけがない。そう頑なに信じていた。

 ただ、数年ぶりに父と夕食を囲んだ際、「母親もその病気で亡くなったんだ」と告げられた梓は、想像以上にその言葉がストンと腹の底に落ちるのを感じた。医者の説明、希望のない未来、それら全てを受け入れるしかない。座して死を待つのはまっぴら御免だが、そうする他ない、と。

 心的な背骨を引き抜かれた梓は、ベッドから起き上がる事さえままならず、大学を辞め、全ての連絡を、関係を、腐れ縁を断った。

 父が花子を家に連れてきたのは、ちょうどその頃だ。梓は父にそんな相手がいたことに驚き、戸惑いや葛藤はあったけれど、少しだけホッとしたのも嘘ではない。


 梓は病気について包み隠さず、全部話した。ちなみに意図的に言わなかったこともあるが、実際、病気とは一切関係のない話だ。検査入院が決まる直前に、幼馴染から告白を受け、返事を保留していたなんて聞いても、反応に困るだけだろう。

 話を聞き終えた寅卯が、「そうか」と頷く。「これは返そう」縛られたままの梓のポケットに、丁寧に写真をしまった。さらに梓の目をしっかり見て、言葉を継ぐ。だが、その言葉は梓が期待するものとは違った。

 「健康どうのって話は、言葉の綾というか。まあ、気にしなくていい。君は十分合格している。俺が保証しよう」

 「……嬉しくないんだけど」

 「だろうな。だが、さっきも言った通り、仕方ないんだ。生きるか死ぬか。いずれ君は病気で死ぬかも知れないが、我々は命令に背けば死ぬ。いや、殺される。一人でも二人でも、とは言ったが、ゼロだけは駄目なんだ」

 だから俺たちはやるしかないんだ、と戌亥が出て行った扉の方を見る。『仕方ない』と言う割には強い意志が込められた口調であり、何も関係がないのに連れてこられた梓にしてみれば、ひどく身勝手に聞こえた。

 梓は涙が零れそうになるのを必死に我慢し、口を一文字に結ぶ。口の中でカチカチと歯がぶつかり合う音がした。

 「先程の話。確かに君や君の周りの人間にとっては辛い話だろう。だが、世間一般にはよくある話だ。君は自身を悲劇のヒロインか何かと勘違いしているようだが、そうではない。君には君の不幸があるように、人には人の不幸がある」寅卯は梓から視線を外すと、厳重にカーテンが閉められた窓の方を睨みながら、口を動かす。「俺たちも結構、万事休すなんだよ」


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