m+other④
◆
「あんたなんて家族じゃない。この家から出てってよ」
興奮し、赤く上気した顔の梓が言い放った。小鼻が、まるで心臓みたいに膨らんだり萎んだりを繰り返す。
動揺した花子の足元に、抱えていた段ボール箱が落下した。陶器同士のぶつかり合う音が聞こえる。落とした拍子に、何かが壊れてしまったのかもしれない。
どうしてこんな事になってしまったのか。それを説明するには、時間を少しだけ巻き戻す必要がある。
朝、きっかけは本当に些細な出来事だった。朝食の食器を洗い終えた梓が、ついうっかりスポンジを台所の流しの中に置き忘れ、それを家事奉行である花子が注意した。
花子の言い分は至極もっともで、いつもであれば梓が謝罪し、しぶしぶ言われた通りに動くところを、今朝に限っては一言多かった。
「死ぬわけでもあるまいし」
予想外の反撃を食らった花子は、あれ?という様子で目をパチクリさせ、それは口にした梓も例外ではない。
昼、ぎくしゃくした雰囲気のまま、ドラマ鑑賞に興じた後、「すっかり忘れてた」と、花子が引き出しから数枚の紙を取り出した。
『ユートピアお食事券』の文字がでかでかと印刷されたその紙は、昔から父が娘のご機嫌取りとして寄越すことが多く、最近では二人が滅多に顔を合わせないため、花子を経由して渡されるのが常だった。
「お父さんの中じゃ、私は学生服姿のままなのかしら」
それ自体は特別騒ぎ立てるような事でもなかったのだが、梓が券を受け取る際、手から雑に奪い取るようにしてしまい、それにカチンときた花子が開戦の狼煙を上げた。
「ありがとう、でしょ?」「くれたのは、お父さんよ」「もう。渡すんじゃなかった」「ネコババなんて最低」「何でそうなるのよ」「ファミレスの食事は体に悪いんでしょ? そんな所の食事券を渡していいわけ?」「渡してるのは、健太郎さんよ」etc.etc.
極め付けは、夕飯の仕度が予定より早く終わった花子が、模様替えの準備といって部屋の片付けを始めたことから勃発した。段ボール箱に次々と置物や飾りをしまっていく花子。順番に片していく内に、一つの写真立てに手をかけた。
その写真立ては、最近になって梓の部屋から発掘された物だ。子供の頃の玩具やガラクタを詰め込んだ段ボール箱の中から見つかり、けれど自分では入れた覚えがないどころか、その存在すら記憶にない。
中身の写真に写っていたのは、産まれたばかりの赤ん坊と、それを抱きかかえる女性の姿。何を隠そう、その赤ん坊が梓であり、女性こそが今は亡き梓の母親だった。
梓が爆発した。もちろん、これは比喩だ。喚きたて、一人でヒートアップして、また喚きたてる。花子への嫌がらせ目的で写真を飾った記憶は、もはや頭の中に一片たりとも残っていない。そして、時間は冒頭に戻るというわけだ。
「ごめんなさい、梓ちゃん。私、考え事をしていて。よく見ていなかったの。わざとじゃないのよ」
「あなたがその写真を目障りだと思うのは理解できる。でも、一言でいいから断って欲しかった」
「本当に違うの。信じてちょうだい」
「無理よ」花子の手から写真立てをひったくる。写真を抜き取り、ポケットに入れた。「もういい。あんたが出て行かないなら、私が出て行く」扉を勢いよく開け、リビングを飛び出した。
突然、背後でガラスが割れる音がした。振り返ってみると、そこには母親の顔をした花子が立っていた。信じがたい事に、これは比喩ではない。
「大切な物を大事にするあまり遠ざけてしまうところなんて、本当に父親そっくりね。あなたにとっての順平君。健太郎さんにとってのあなた。今は別れの辛さを想像するよりも、幸せな別れにするにはどうすればいいか考えるべきだと、そうは思わない? お姫様」花子が長い黒髪を指で
梓は唾を飲み込んだ。足が竦むとは、まさにこの事だった。
「誰なのよ、あんた」
花子だった人物から返事はない。
取る物も取り敢えず家を飛び出した。すでに辺りは薄暗く、ぽつぽつと点灯した街灯の下で、学校帰りの学生とすれ違う。梓はさらに歩みを速めて、人通りの多い街中へと向かった。あの家から一歩でも遠くへ離れたい。その一心だった。
繁華街を訪れるのは、梓がいわゆる引きこもりと呼ばれる状態になって以来、初めてだ。話題の飲食店や若者に人気のショップが立ち並び、ただその店先をじっくり観察するほどの余裕は、今の梓にはない。長らく人混みに触れていなかったせいか、案の定、人に酔い、頭がボーっとして、足元の地面がプリンになったみたいに揺ら揺らと波立つ。
梓は目の前だけに集中して歩いた。刺激の強い光を放つ看板も、騒がしい周りの声も気に留めない。前を歩く人間が開けた、人一人が入れるだけのスペースに体を滑り込ませる。それを繰り返す。左右に身動きが取れないまま、一直線上を進んでいるうちに、ふと、平均台の上を歩いているみたいだなと思った。途端に頭がクラクラして、気分が悪くなってくる。
横断歩道を渡ったところで、前から来る男と肩がぶつかった。「お姉さん。今、肩がぶつかりましたね? もしかしたら、これは運命の出会いかもしれません。よろしければ俺と一緒にお茶でもどうですか?」やたらと胡散臭い口調に加え、全身から溢れ出る不真面目さ。けれどもルックスはそれなりと言って差し支えなく、あの泣き黒子にコロリと騙されてしまう女性は多いだろう。
「結構よ。あっちに行って」
「あらら、残念。この先に気持ち良く酔う事のできる居酒屋があるのですが、仕方ありませんね。ではまた次の機会にしましょう」
「ないわよ、次なんて。っていうか、存外あっさりと引き下がるのね。ナンパって、もっと強引でしつこかった覚えがあるけど、時代は変わったのかしら?」
「普通はそうなんでしょうけど、俺は女性が嫌がる事はしない主義なので。あと、これは親切心からの助言なのですが、近頃この辺りでお姉さんくらいの年齢の女性が何人か行方不明になっていまして。まだ警察沙汰にはなっていないようですが、我々の界隈は大騒ぎですよ。ですので、お姉さんも用事が済んだら早めに帰宅する事をお勧めします」
「あっそ。どんな界隈か知らないけど、その助言だけは有難く頂いておくわ」
「ええ、是非そうして下さい」
「それなら私からも一つ忠告。女性が嫌がる事はしない主義だって言うなら、最初からナンパなんてしないことね」
「ははは。その忠告は界隈的にも、世の女性的にも意見が分かれると思うのですが、一応考えておきますよ」
梓は男と別れると、路地へと入った。青いポリバケツの隣に、力尽きるように膝をつき、四つん這いの姿勢になる。オエッと吐く真似だけでもしてみれば少しは気分がマシになるかもと考えたのだが、真似のつもりが胸の奥底から本当に込み上げてくるものがあり、梓は為す術なく嘔吐した。おかげで胸の辺りは幾分かスッキリしたけれど、口の中や鼻の奥に酸っぱいものが広がって気持ち悪い。水で口をゆすごうにも、財布すら持たず家を飛び出した事に、その時になってようやく気が付いた。
「最悪」
自宅で見た光景も相まって、連続性のない悪夢の中を彷徨っている気分だ。それでもアスファルトに飛び散った吐瀉物は紛れもなく現実であり、梓はそれを視界に入れながら、徐々に冷静さを取り戻していく。
故意ではないにしろ、掃除はした方がいいと思った。そこで近くに水道がないかと探し回っていると、梓の視界の隅で何かが動いた。路地裏の暗がりがハサミで切り抜かれ、急にずらされたような錯覚を起こす。
その正体は、何の事は無いただの黒猫だった。暗闇でも目立つ白色の首輪を除き、トラと見分けがつかないその猫は、いつぞや目にした張り紙の迷い猫に違いない。
「こんな所にいたのね。たしか名前は、……小太郎だっけ?」
さて、どうしたものか。本来であれば、飼い主に電話の一本も入れたいところだが、生憎と連絡先を覚えていないうえに、そもそも連絡を取る手段がない。とはいえ、このまま放置するのも後ろめたく感じた。トラにそっくりだというのが、わずかに自分の中で引っかかったのかもしれない。
「あっ、ちょっと。どこに行くのよ」
まごついている間に、小太郎は梓を置いて走り出す。やむなく掃除は後回しにして、その背中を追った。
「おーい、降りてきなー」
小太郎は、その身軽な体で建物の出っ張りや室外機を巧みによじ登ると、梓では到底手の届かない場所まで逃げてしまった。「落ちたら怪我するぞー。飼い主もきっと心配してるぞー」呼びかけにも交渉にも応じず、じっとしたまま、こちらの様子を窺っている。
わざわざ跡を追いかけてきたものの、こうなってしまえば梓に出来ることはもうない。やむを得ず小太郎のことは諦めようとした矢先、何処からか女性の悲鳴のようなものが聞こえてきた。初めは空耳かとも思ったが、二度目のそれは先程よりも明瞭で、梓は恐る恐る声のした付近へと近づいていく。
曲がり角の奥で、女性が地面に転がっていた。派手な服装、歳は梓と同じか、やや年上だろうか。着衣が乱れ、靴を履いておらず、腕から血が垂れている。一目見て、只事ではないと理解した。
「大丈夫?」
女性は暗闇から現れた人影に驚き、体内の空気を一気に押し出すかのような悲鳴をあげた。さらに地面を這いながら逃げ出そうとするので、梓は慌てて声をかける。「安心して。あなたに危害を加えるつもりはないから」
声に反応した女性が振り返り、梓の顔をまじまじと見つめた。「アイツらの仲間じゃないの?」続けて、必死に何かを伝えようとするのだが、気が動転しているせいか、上手く言葉にならない。「逃げなきゃ……男が……マスク」とにかく一刻も早くこの場を離れたいという意思は伝わってくる。
彼女が何にそこまで怯えているのか分からなかったが、梓は即座に決断を下した。
「ほら、私の腕をしっかり掴んで。こっちよ」女性に肩を貸すと、可能な限り大急ぎで来た道を戻る。先刻のナンパ男の言葉が頭を過った。
「近頃この辺りでお姉さんくらいの年齢の女性が何人か行方不明になっていまして」
自分が何か大きな渦に巻き込まれようとしているのではないか。そんな胸騒ぎが次第に強まっていった。
やがて薄暗い路地の終端に差し掛かり、片側二車線の車道を挟んだ正面に、竜宮城の目立つ看板が姿を現した。
竜宮城は、ここ数年で名前をよく耳にするようになったお寿司屋さんで、新たに街中で店舗を構える際、老舗寿司屋の跡取り息子を引き抜いて、あらゆる決定権を有した店長に据えるという荒業を用いた事で、業界内の注目を集めたのだそうだ。
梓は訳知り顔でこの話に触れるリポーターを眺めながら、「跡取りを引き抜くなんて、迷惑な寿司屋もいたもんだ」と鼻で笑っていたのだが、今ではそのリポーターとテレビ局に感謝したい気持ちで一杯だった。何故ならその中継を見ながら、花子とこんな会話になったことを思い出したからだ。
「お店の隣が交番だと、絶対に飲酒運転はできないね」
つまり、あの看板の傍には交番がある。お巡りさんがいる。あそこまで辿り着けば、女性も自分も何とかなるはずだ。そう考え、
四車線道路の一番手前の車線を黒塗りのワゴン車が走ってきて、歩道に寄せて停まった。助手席からフードを目深に被った背の低い男が降りてきたかと思えば、後部座席のスライドドアを目一杯開け放つ。それと同時に、背後の路地から音もなく、同じ格好の男が出現した。
梓はとっさに路地の方へ体を寄せて、女性を庇う体勢を取った。一歩遅れて男の存在に気づいた女性は、怯えた様子で梓にしがみつき、全身の震えを止めることが出来ない。
「何なのよ、あんた。この人とは一体どういう関係?」
フードに加え、マスクで顔を隠した男から返事はない。そして次の瞬間、梓の足元から地面が消失し、体がフワッと宙に舞い上がった。ように感じた。
どうやら車から降りてきた背の低い男が、背後から素早く近付いて梓を殴りつけたらしい。横から軽く顎を押されたような感触しかなかったが、脳が揺れ、天地がどちらかさえも不確かになる。
「よくやった」
フラフラと前方に倒れる延長でマスク男に抱き留められたため、顔面からアスファルトにぶつかることはなかったが、体の自由を失った梓はされるがままに抱き上げられ、路肩のワゴン車へと運ばれていく。かろうじで意識はあるものの、体は一切言う事を聞かず、声も出せない。
まるで荷物みたいに後部座席に投げ入れられ、マスク男も一緒に乗り込んでくる。続いて、梓と行動を共にしていた女性が車へと連行されるが、そこで彼女は想像以上の抵抗を見せた。金切声を上げ、駄々をこねる子供みたいに腕や足を出鱈目に振り回す。
「おいおい、暴れんなって。チクショー。コイツも寝かすべきだったぜ」
「遅いぞ。早くしろ」
「分かってるっつーの」女性の乗車に手こずる背の低い男が、困った様子で言い返した。
その尋常ではない光景に、さすがに辺りの通行人もざわつき始めた。「警察、呼んだ方が良くない?」という声はするが、交番に走る者はおろか、未だに誰も携帯電話を操作していない。
「よし、女を掴んだぞ。扉を閉めろ」
抵抗虚しく女性も車内に押し込められてしまい、ちょうど同じタイミングで、梓は少しだけ体の感覚が戻っている事に気が付いた。朦朧とする意識で、足に力を込める。目に入った無防備な背中を思い切り蹴り飛ばし、その弾みでドア前にいた女性が車外へと弾き出された。
「ちっ、まだ動けたか。意外にしぶといな」背中を蹴られたマスク男の声に焦りが滲む。「急げ。もう一度女を乗せろ」
すると、運転席から別の男の声がした。「そんな時間はない。撤収だ」
四車線挟んだ先にある交番に居ながら騒ぎに気づいた警官が一人、両サイドから走り来る車をスタントマンさながらの動きで避けつつ、物凄いスピードで車道を横切ってくる。
「……仕方ない。そいつはもういい。戌亥、車に乗れ」
黒のワゴンは、三人の男と一人の女を乗せて急発進する。梓はそこで意識を失った。
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