m+other③

 

 玄関の扉が閉まる音で、梓は目を覚ました。枕元の時計に目をやれば、アラームが鳴る時間より10分以上も早い。寝惚けまなこを擦りながら、部屋の扉を開ける。ちょうど玄関から戻ってきたばかりの花子と鉢合わせした。

 「あら、入れ代わりね。おはよう、梓ちゃん」

 「おはよう。誰か来てたの?」

 「ああ、健太郎さんよ。着替えを取りに帰ったの」そう言う花子の肩には、父の洗濯物が入ったランドリーバッグがかけられている。「『娘の寝顔でも見ていけば?』って言ったんだけどね。結局、朝ご飯も食べずに行っちゃった」

 会社で八面六臂はちめんろっぴの活躍を見せる父は、どうやら梓が寝ている間に帰宅して、すでに職場へと戻った後らしい。久方ぶりの親子団欒の機会を失い、いささか寂しさを感じたが、それ以上に父と顔を合わせずにすんで、ホッとしている事に気が付いた。

 「いて」

 リビングに移動しようとして、何か固い物に躓いた。視線をやれば、別段書置きなどは残されておらず、まるで最初からそうであったかのように、猫用の餌の袋が積まれて置かれていた。


 午前中の四宮家は、花子の独壇場だ。洗面所やキッチンを所狭しと往復し、次々と家事をこなしていく。車のハンドルを握ると人が変わるというのは時たま聞く話だが、彼女にとっては家事こそがそのトリガーであり、気迫の籠った後ろ姿からは、普段のあどけなさは微塵も感じられない。

 家事シャトルランが大詰めを迎えた頃、花子がわざわざ足を止めて訊ねる。「そうだ、梓ちゃん。冷蔵庫にあったプリンを知らない?」

 唐突な質問に梓は一考した後、「あっ」と口走る。さらにやや間を置いてから、「知らない」と視線を逸らした。

 「いやいや。今のは明らかに、何か知ってる人の反応でしょ」

 「冷蔵庫にプリンなんて入ってたかなぁ」

 「『あっ』って言ったよね?」

 「心当たりないなぁ」

 とっさに否定したものの、花子は容赦なく疑いの目を向けてくる。ただし、今のところはあくまで疑いをかけるに留まり、梓が犯人だと断定はしてこない。多分それは、まだ確たる証拠が見つかっていないからだろう。梓は、「どうにかなるかもしれない」という気持ちと、「もうどうにでもなれ」という気持ちが半々の状態で言う。

 「暗い冷蔵庫の中で散々冷やされた挙句、最後は人間のお腹の中に収まるというのは、一体どんな気分なんでしょうね」

 「え、急にどうしたの?」

 「ひたすら自分が食べられる順番を待つ。それは想像を絶する恐怖だと思うの。逃げ場もなく、救援もない。座して死を待つしかない状況で、きっとプリンは考えたはずよ。『私は何のために生まれてきたんだ』ってね」

 「そりゃあ、食べられるために生まれてきたのよね。だってプリンだもの」

 「仮にこの世界に神様がいるのだとしたら、そんな憐れな存在を見捨てたりはしないでしょう。『嗚呼、可哀想なプリン。心配はいりません。そこから逃げ出すためのすべを授けましょう』」

 芝居染みた口調の梓に対し、ようやく話の流れが読めてきたのか、花子は腕を組んだまま、口の端を吊り上げる。

 「ははぁーん。要するに梓ちゃんはこう言いたいわけね? プリンが行方不明なのは、誰かがこっそり食べてしまったからではなく、プリンが自らの意思で逃げ出したからだと」

 「ええ。にわかには信じられないでしょうけど、その通りよ」

 大袈裟に肩を落とした梓が、顔を伏せる。苦しすぎる言い訳を盾に、「何とかなれ、何とかなれ」と念じながら、薄っすらと片目だけを開けて、様子を窺う。

 すると、花子は背後から何かを取り出した。名探偵よろしく一睨みした後、証拠品を突きつける。「それは変ね。今朝起きたら、流し台に空のプリンの容器が置いてあったけど」

 「チッ」

 牛乳瓶を模した流線型のガラス瓶。それはまさしく昨晩、小腹の空いた梓がペロリと平らげてしまったプリンの残骸に違いなく、「洗って捨てるのは後でいいか」と、日頃のずぼらさから流し台の隅に放置した結果が、この有様だ。

 「死体はきちんと処理すべきだったわね」花子は物騒な言い回しで、梓を煽る。「殺した事すら気づかせないのが一流の仕事よ」と、何故か勝ち誇った顔をした。

 一の矢を失った梓は、何食わぬ顔で二の矢を構える。さっさと謝ってしまえば楽になれるのは重々承知だが、座して死を待つのはプリンでなくとも嫌なのだ。

 「これは内緒にするつもりだったんだけど。実は昨晩、プリンが私の部屋を訪ねてきたの。そして本人に懇願されたのよ。『このままでは賞味期限が切れてしまうから、一思いに食べてくれないか』って」

 「な、何ですってー」もはや梓よりも小芝居に没入し、持ち前のオーバーリアクションと鼻につく演技を披露する花子。「それでそれで?」と、作り話の続きをねだり、心なしか眼差しにサディスティックな雰囲気が混じる。「つまり、プリンが言葉を話したのね?」

 「ええ」

 「部屋を訪ねてきたって事は、移動するための足も生えていたと?」

 「きっと神様の御業でしょうね」

 「そこは設定を引き継ぐんだ?」

 「だから、悪いのは食べた私じゃなくて」

 「その前に一ついいかしら?」

 「何よ」話を遮られた梓は身構える。

 「この際、誰が犯人かは一旦置いておくとして。私は別に犯人に対して何も思っちゃいないのよ。怒ってもいなければ、恨んでもいない」

 「へ? そうなの?」拍子抜けしてしまい、思わずそれが表情や声にも漏れ出してしまったが、話にはまだ続きがあった。

 「だって、元々私のプリンじゃないもん」

 四宮家において、花子の物ではなく、梓の物でもないということは、どういうことか。言うまでもなく、四宮健太郎の所有物だということだ。

 父は職業柄、甘い物を自分で購入し、美味しかろうが不味かろうが、あの感情のない顔で黙々と味わっている。本来ならば、物は買ってきたその日の内に処理され、冷蔵庫に残る事はまずない。故に庫内に残った甘味といえば、必然的に花子か梓の物となるわけだが。その範囲内で行われるつまみ食いは珍しい事ではなく、ただし今回はその油断が裏目に出てしまったというわけだ。

 「しまった。どうしよう」

 「心配しなくても平気よ。梓ちゃんの言う通り、賞味期限が迫っていたのは事実だもん。多分、健太郎さんも忘れてたんじゃない?」

 「そ、そうかな?」

 「そうよ。気にしない、気にしない」

 であれば、どうしてわざわざ空の容器まで用意して問い詰めたのか。絶対にからかうのが目的じゃないかと、それはそれで憤慨したくもあったが、今はよそう。

 「それにしても、親子そっくりね」花子がしみじみと呟いた。

 一瞬、彼女の言葉の意味が分からなかった。父と自分がそっくり?そんな事はこれまで誰にも、一度だって言われたことがない。

 「は? どこがよ」照れ臭さを隠すために、膨れっ面で訊ねる。父とは性格、容姿のどちらも似ていない自覚があるし、それを思い悩んだ時期だってある。少なくとも、父はプリンのつまみ食いごときで苦しい言い逃れはしない。

 「そうね。例えば、スーパーでお弁当を買ってきたとして、二人とも真っ先に好物から食べるでしょ?」

 「でしょ、と言われても」

 梓は口をポカンと開けたまま、花子の目をじっと見つめた。これまで考えもしなかった事だ。

 言われてみれば、自分は確かにそうだ。おかずは最初に肉系の物から箸を付けるし、ファミレスならフライドポテトを一番に注文する。だが、父は?父もそうなのか。無意識の行動は遺伝するのか?あるいは、子は親の振る舞いを見て学び、真似するように、自分も父から学んだからそうなったのか。そもそも父の好物ってなんだ?父に好物など存在するのか?

 混乱する梓を放置して、花子は意味ありげに微笑んだ。「そのくせ二人とも、本当に大切な物に対しては、見てるこっちがイライラするくらい奥手だし、大事にする方法が回りくどいのよね」眩しさに耐えるかのように目を細める。空の容器をそっとテーブルの上に置いた。「このプリンは健太郎さんが、梓ちゃんのために買ってきたものよ」

 「……私、何も聞いてない」

 「あなたの父親って、言葉を交わさなくても通じ合ってる、みたいに思い込んでる節があるでしょ?」

 梓は容器を手に取ると、顔を近づけてじっくりと観察する。「ある」当然中身は入っておらず、内側にわずかに水滴が残っているだけだった。「言ってくれなきゃ伝わんないよ、お父さん」


 昼ドラの次回予告に目を通した後で、またもや飼い猫がどこにも見当たらない事に気が付いた。自室やトイレ、冷蔵庫の上など、思いつく限りの場所は探してみたが、姿がない。

 真昼間から号泣し、一箱使い切る勢いでティッシュを床に散らかした花子を問い詰める。単にドラマに感動して涙を流しているだけなのに、これでは梓が花子をいじめたからだと勘違いされてもおかしくない構図だった。

 「嘘つかないで。また勝手にトラを家の外に出したんでしょ。やめてって、いつも言ってるのに」

 「だから、私じゃないわよぅ」容疑者にされた花子は目を逸らし、否認する。今や名探偵を気取っていた頃の面影はどこにもない。朝とは丸っきり立場が逆転していた。「そうよ。きっと神の御業でトラに足が生えて、自分で家を出て行ったんだわ」

 「何言ってんの。足は元から生えてるじゃない。トラは猫なんだから」

 しまったと顔に書いてある花子が、慌てて言い訳を口にした。「聞いて、梓ちゃん。勝手に外に出したわけじゃないの。ちゃんと許可は取ったのよ」

 「はあ? 言うに事欠いて、許可は取ったですって? 私がいつ許可を出したって言うのよ。そんな覚えはありません」

 「違う。本人の許可よ」

 「本人?」

 「トラよ。トラがどうしても外に出たいって言うから、仕方なく扉を開けてあげただけだもん」

 大人に叱られた子供みたく不貞腐れる花子を見て、梓は特大のため息をつく。急ぎ、つっかけに履き替えた。「首輪をしてないトラが、誤って保健所にでも連れていかれたらどうするのよ」

 「本当に言ったんだもん。私、悪くないもん」という情けない声を背に、玄関の扉を開けた。


 トラの捜索は想像したよりもすんなりと片が付いた。梓がマンションを出てから、まだ三十分と経っていない。日当たりの良い道を闇雲にウロウロしていたら、民家の塀の上でお気楽そうに昼寝をするトラを発見した。

 「人の気も知らずに呑気な顔しちゃって」

 主人の呆れた声が耳に届いたのか、膨張と収縮を繰り返す真っ黒な毛玉は起き上がり、優雅に体中の筋を伸ばす。「さ、帰るわよ」と塀の下で手を広げる人間様を完璧に無視し、昼下がりのお散歩は延長戦へと突入した。

 梓は、我が物顔で住宅地を闊歩する飼い猫の跡を追う。目的地が存在するのか定かでないが、トラは塀の上をスイスイと歩き、塀の終わりがくると躊躇なく次の塀に飛び移った。

 「上手いもんね」梓の口から思わず素直な感想が漏れる。猫なら出来て当たり前かもしれないが、自分には真似できない芸当だと思った。

 体育の授業において、球技やマラソン、水泳だってお茶の子さいさいな梓にとって、唯一苦手とするのが平均台だった。バランス感覚が人より劣るからというわけではない。問題は心理的な部分であり、スタートこそ順調に切れるのだが、先に進むにつれ、足元の台がじわじわと狭くなっていく錯覚に襲われるのだ。そうなると梓の頭は悪い想像に取り憑かれ、両膝の震えが止まらなくなり、遂には足を踏み外してしまうのだった。

 電気屋の店先を通る際、迷い猫を探す張り紙が目に入った。小太郎という名のその猫は、見た目がトラに瓜二つで、真っ黒な毛色はもちろんのこと、目の色も、不愛想な顔だってよく似ている。ベランダの網戸を破って脱走し、五日も家に戻っていないらしい。飼い主は、さぞかし心配している事だろう。

 気づけばトラは、張り紙を読む梓を置き去りにして先に先に進んでしまっている。走って追いつき、声をかけた。

 「他人の空似で連れてかれちゃ駄目よ」

 心配してやっているというのに、うんともすんとも、ニャーとも言わない。

 いい加減くたびれてきたので、次に塀から降りたら問答無用で連れ帰ろうと画策していると、トラは急に立ち止まり、空を見上げた。何があるわけでもない中空をボーっと眺め、思い出したように舌をペロリとさせる。

 「あんた、外に出たいなら、そう言いなさいよ」

 これまでトラの事は室内だけで育て、わざわざ家の外に連れ出すことはなかった。子猫の頃から妙に大人しく、騒いだり暴れたことは一度もなかったし、年がら年中、窓際で日向ぼっこしながら眠っていることが多かったので、これはこれで日々の生活に満足しているのだと思っていた。だが、花子が無断でトラを屋外に出していることが判明し、加えてトラは外出した日に限って餌をよく食べ、幸せそうにスヤスヤ眠っている姿を見ると、それは梓の自己満足的な思い込みだったのかもしれないと、自分を責める気持ちが沸々と湧き上がってきたりもするのだ。

 トラは梓のことを一瞥する。「いや、言ってたけどね」と目で訴えてくるようだった。


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