m+other②
◆
ベッドから這い出し、重い足取りでリビングへ向かうと、時計の針は優に正午を越える時刻を指していた。家事がひと段落ついた花子は昼食を、梓にとっては朝食をそれぞれとる。
食器を片し、花子が日課とする昼ドラ鑑賞に梓も付き合う。複数の男女が乱れ合い、
「お父さんのどこが良かったの?」
そう訊ねたのは、梓がまだ今朝の夢を引きずっていたからかもしれない。
「いきなりね」花子はきょとんとした顔で、瞬きを繰り返す。その度に長いまつ毛が揺れた。「どこだと思う?」
「それが分からないから、こうして質問してるんだけど」
「分からないからってすぐに答えを聞いてちゃ駄目よ。まずは自分でよく考えること。それが立派な大人になるための秘訣よ」
「立派な大人ねぇ。そもそも立派っていうのは周りからの評価なわけだし、なろうと思ってなれるものでもないでしょ」
「そうかしら。誰からも評価されなくったって、己を律して、規範となれる人間はいると思うけど」
「案外そういう立派な大人が、道端で自分の粗末なモノを見せびらかして、警察の厄介になるのよ。どれだけ強がっていても、心の底では何処かの誰かが認めてくれるって期待してるんだから。それで勝手に裏切られて、
梓の父、四宮健太郎。五十代。製菓会社に勤務し、容姿は中肉中背。牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけ、最近ますます白髪が増えてきた。どこからどう見たって、冴えない中年おじさんだ。
片や、雑誌モデルも裸足で逃げ出す美女であり、三十代ながら梓と張り合える程のきめ細かい肌の持ち主。お世辞にも釣り合いが取れているとは言えない。
そもそも口下手、年中仏頂面の一般会社員がどれだけの徳を積んだら、一回り以上年下の異性と結婚できるというのか。父には男手一つで育てられた恩があるし、幸せを掴んでもらう分には大歓迎なのだが、さすがにこの物件は分不相応というか、何か裏があるんじゃないかと疑わざるを得ない。花子だけに、綺麗な薔薇には棘がある、なんてオチだけは絶対に避けなければならない。
考え込むほどに答えは謎に包まれ、
「どうしてそうなるのよ」花子は驚愕の表情を浮かべる。昼ドラに続いて始まった情報番組のコメンテーターよりもリアクションが大きい。
「結婚詐欺に違いない」
「違いあるわよ。失礼ね」
「じゃあ、外国のスパイだ。映画でよく見る、素性を隠して社会に溶け込む美人諜報員」
「素敵な濡れ衣を二着も仕立ててくれて、どうもありがとう」
勢いに任せて
まず花子の実家の山田家は、農業で類まれなる成功を収めていて、四宮家と比較するのもおこがましいほど裕福である。そこのご令嬢である花子が、一介のサラリーマンとお金目当てで結婚するとは正直考え難い。
ついでに言うと、製菓会社に勤める父に対してスパイ行為を働いたところで、得られる情報などたかが知れており、わざわざ結婚してまで取り入るメリットがあるかと言われると、肯定するのは容易ではない。
熟慮した結果、梓は余計に何も分からなくなってしまった。一方で、謎多き女はというと、「今思いついたんだけど、『スパイだ』と『スパイダー』って似てない?」と能天気に笑う。
「はぁ、降参よ。で、一体あんなのの、どこがそんなに良かったわけ?」
「ちょ、ちょっと。あんなのって言い方はないんじゃない? 一応、あなたの父親なんだけど」自ら焚きつけた手前、花子は遠慮気味に指摘する。けれど、すぐに照れ臭そうに頬を染めた。「あれで結構ロマンチストなのよね、健太郎さん。それに実は表情豊かなところとか」
花子の
表情豊か?お父さんが?
別人の話をしているとしか思えず、知らぬ間に首を傾げている。「笑顔を作って」と頼まれて、アルカイックスマイルを水で100倍に薄めたような無表情を浮かべた父が、表情豊かであるものか。あるいは父ではなく、花子の方が人並み外れた表情を読み取る能力を持っているとでもいうのだろうか。白色が厳密には200色以上あるように、無表情にも種類があんねん、と。
「梓ちゃんは、健太郎さんが好きな物って何だか知ってる?」
「仕事」
「ブッブー、ハズレ。正解は、パズルでした」
「パズル?」
全くもって初耳の情報に、梓は眉を
「一度ね、『どうしてパズルが好きなの?』って訊ねてみたことがあるの。そしたら健太郎さん、何て答えたと思う? 『諦めなければ、必ず完成するから』ですって」
嬉しそうに話す花子の笑顔が、梓にはとても眩しく感じられ、有りもしない幻覚まで見せる。穏やかな風が吹く丘の上の原っぱ。ビニールシートに広げられた花子の宝物。それを、指を咥えながら見つめる梓。
花子はさらにこうも続ける。
「その時ね、私ったら急に意地悪したくなっちゃって。『ピースを失くしたら、パズルは一生完成しないんじゃない?』って聞いてみたんだけど」
「……お父さんは、なんて」掠れる声で訊ねた。父が何と答えたのか、興味があった。
「『僕は絶対に失くさない。パズルのピースも、大切な物も』だって。あの時の健太郎さんは、いつにも増して格好良かったなぁ」
それを聞いた梓は、胸のザワザワがスッと引いていくのを感じた。普段は必要最低限しか喋らない父が、自分のいないところではそんなに気の利いた言葉を口にするのか。表情豊かだという彼女の言も、あながち間違いではなさそうだと思う反面、寂しさも感じる。
「でもね、健太郎さんったら、所構わずパズルを組み立てようとするのよ? ある時なんて、海にまでパズルを持ってきたんだから」
「へぇ」気のない返事をする。娘の知らないところでそんな
「だから言ってやったの。『海にまで来て、パズルはないでしょ』って。そしたら健太郎さん、それが原因でパズルやめちゃった」話しながら、花子は目端に涙を浮かべる勢いで笑った。笑うところか?とも思ったが、二人がいいならそれでいいのだろう。「あーあ。本当に可愛い人」
すっかりコップの中のお茶も冷めてしまい、花子が湯を沸かすためにキッチンに立った。
「そうそう。順平君とは仲直りできた?」
ソファーに寝転び、油断しきったところで撃ち込まれたキラーパスに、梓の心臓は飛び跳ねる。「何のこと?」昨夜の再会を花子に喋った記憶はない。とりあえず様子を見る。
「夜中の電話、順平君でしょ? 番号に見覚えがあったから」
「……そういうことか」恐らく着信履歴に残った番号を見つけたのだろう。観念した様子で、梓は答える。「仲直りって。小学生でもあるまいし」
「駄目よ、きちんと謝らないと。いきなり音信不通になって、心配かけたのは梓ちゃんなんだから。それまで順平君には、家族ぐるみで良くしてもらってたのに」
花子がコンロの前で振り返り、腰に手を当てて怒る。その時、ちょうど背後でヤカンの沸く音がした。彼女の可憐で整った顔も相まって、まるでドラマのワンシーンを見せられているかのようだ。現実味がない。
「親みたいなこと言わないで」という台詞が、梓の喉元まで上ってきて、音にはならず霧散した。かつて父が交際相手の花子を家に連れてきたその日から同じ屋根の下での生活が始まり、初めての衝突で、「家族でもないくせに」と罵ったがばっかりに、父と花子は翌日入籍、翌週末には結婚式を挙げてしまった。式場のスケジュールのゆるさにも驚いたが、何より梓は二人の行動力に度肝を抜かれてしまった。
そんな
そうこうするうちに、壁掛け時計が二時を告げる鈴を鳴らした。梓は、話は終わったとばかりに部屋へ戻ろうとする。
「いいの? それで」
「何がよ」
「私なら、どんな形であれ大切な人の近くに居ようとするでしょうね。お姫様はどうか知らないけど」
「……ねぇ、そのお姫様って呼び方、どうにかならないわけ?」
ムッとして、梓が足を止めた。だが、いつもならここで子供同士の口喧嘩みたいに言い返してくるはずの花子の声が聞こえない。エプロンの端を指で
「でも、でも、大石さんだって呼んでたもん。お姫ちゃん、お姫ちゃんって」
「おじさまとおばさまはいいのよ。私の親みたいなもんなんだから」
我ながら棘のある返しだと思った。けれど、花子はそれに気づいていないのか、ようやく普段の感じを思い出したように、「じゃあ、私もいいよね」と自分に都合の良い解釈をして、口元を綻ばせた。
「勝手にして」
「はーい。そうしまーす」
梓が立ち去った後、美人諜報員という響きが存外お気に召したらしい花子は、まんざらでもない表情で「私、そんなにイケてるかしら?」と鏡に向かって一人、ポーズをキメる。
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