wolf in sheep's clothing④


 午前一時、室内に流れる天国と地獄のメロディ。誰しも一度は耳にしたことがある運動会の定番曲であり、オッフェンバックが作曲したオペレッタの一部分。

 廻がこの曲を着信音に設定しているのは、お世辞にも登録件数が多いとは言えないアドレス帳の中で、二人だけ。一人は、患者から「神の手を持つ医師」とあがめられる男。もう一人は、幼馴染に「血も涙もあるだけ鬼の方がマシ」と言わしめた女の子だ。

 廻はこの着信音を聞くと、いつも徒競走のスタートラインに立たされる気分になる。ドッドッドッと心臓の鼓動が着信音を掻き消す。

 「廻か?」

 その一言で、電話の相手が誰なのか、すぐに分かった。同時に気分が落ち込む。

 「元気にしていたか?」

 父との電話では必ず登場する言葉だ。こちらの体調を気遣っているようで、実際は全く関心がない。つまり、「もしもし」と同じ意味だ。

 「母さんから連絡はあったか?」

 あるはずがない。

 「お前に話がある」

 ここからが本題だ。廻は、ようやく電話機から聞こえてくる音に集中する。

 「廻、生徒会長になりなさい」

 あまりの動揺に言葉を失い、耳を疑った。ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理してから、不満と反論を口にする。言われた通りの高校に入れば、自由にして良いと言ったはずなのに。

 「ああ、そうだ。自由にしなさい。これを聞いたうえで、生徒会長になるもならないも、お前の自由だ」

 自由とは一体何なんだ。あの梅雨の日を思い出す。勝手な大人の都合に振り回され、またもや我慢を強いられるのか。暗澹あんたんたる水底に、廻の心が沈んでいく。

 「お前の生活は、お前が言う勝手のおかげで成り立っている。ここでどんな言葉を並べようとも、所詮は子供の戯言たわごとでしかない。子供は大人にすがらなければ生きていけない無力な存在だ。人より賢いお前ならば、そのくらいは理解できるな?」

 いつもであれば、そこで何も言わずに引き下がっていただろう。話し合う価値もないと自分に言い聞かせ、静かに通話を切った後で、自己嫌悪に狂っていたはずだ。

 だが、その時の廻は内から溢れ出る怒りを抑える事ができず、電話越しではあったが、初めて父との会話で声を荒げた。

 「××××××××××××××」

 遠くで貨物列車の走る音が聞こえる。電話はすでに切られた後だった。


 「どうだったの、ライバルは」

 休憩時間、廻は梓と並んで廊下を歩く。無事に生徒会長選挙の立候補届を提出し終え、各種書類に記入した帰りだった。

 その際、ちょうど立候補者の一人である田中半平太たなかはんぺいたと顔を合わせる事になり、少しだけ話もした。正直なところ、廻の見た目から要らぬ敵対心や嫌悪感を煽ることにならないか心配だったが、意外にもそんな事はなく、田中半平太は不良の廻に対しても終始紳士的だった。

 「とても良い人だったよ。何て言うか、正義感が服を着て歩いてる、みたいな。もし彼が生徒の代表になれば、学校生活はさらに良くなると思う」

 「はぁ。もう白旗を上げてるようじゃ、前途多難ね」

 ちなみに今回の生徒会長選挙に立候補したのは三名で、廻と田中半平太を除くもう一人は、早々と立候補を表明した田中半平太の無投票当選を危惧した学校側が、無理やり用意した当て馬候補だともっぱらの噂だ。

 「ん、あそこにいるのって」

 「これはまた縁起の悪い相手と出くわしたわね。残念だけど、立候補は取り下げた方がいいんじゃないかしら」

 正面の階段をゆっくり下ってくる桂教頭の姿が見えた。各々好き勝手に散らばっていた生徒たちが、まるでモーセが海を割るシーンみたいにスッと廊下の左右に分かれる。

 普段ならばすぐさまUターンする場面だが、生憎あいにくと隣にいる四宮梓は、誰かのせいで進路を変更させられるのが大嫌いな性分で、それが教師であるならば尚更だ。じりじりと両者の距離が詰まっていき、遂にかち合ったところで教頭が足を止めた。「父上は、お変わりないかな?」

 廻は、怪訝けげんそうな表情を浮かべる梓を見て、自分が話しかけられているのだと理解した。「どうでしょう。かれこれ一年以上は会っていないので」

 「いやはや、そういうことか」教頭が何かに納得したように頷く。「実は、君の父上と私は同じ学び舎で切磋琢磨した仲でね。試験の際は、よく順位で競ったものだ」

 「はあ」

 「文武両道、浮ついたところも無く、質実剛健。まさにスーパーマンのような男だと思っていたのだが、……どうやら子育てだけは大の苦手だったと見える」

 そこで梓がおもむろに一歩踏み出そうとするので、廻はさり気なく腕で制した。

 「お言葉ですが、父は子育てに関与すらしていませんよ。僕はほとんど家政婦さんに育てられたようなものです。自分で言うのもなんですが、そのおかげで中学生まではご近所でも評判の優等生でした」廻は顔面に作り笑いを張り付けて言う。「この格好や髪のことでしたら、自分の意思なので父は関係ありません。先生だってその髪型、好きでそうしてるんでしょ?」それを聞いた梓が口笛を吹きつつ、満足した様子で退しりぞいた。

 予想外の反撃を食らった教頭は、頭頂部を手で押さえながら怒ることも忘れて目を白黒させている。周りの生徒から嘲笑が起きても、それをとがめる余裕もない。

 「あ、あれは何のつもりだ」

 「あれとは?」

 「生徒会長選挙の件だ」教頭が、ついに怒鳴り声を上げた。

 「ああ、それに関しては、止むに止まれぬ事情がありまして」

 「あの馬鹿げた公約は、私に対する当て付けかね?」

 「当て付けだなんてとんでもない。僕は本気でこの学校や生徒のためになると思って、提案しているだけです。それを選ぶかどうかは、投票する生徒たち次第ですよ」

 化学実験室の前で睨み合う銀髪と七三分け。教室内にいた生徒はもちろん、準備室で待機する先生までもが僅かに開いた窓の隙間からチラチラと様子を窺い、この睨み合いの行方に夢中になっているようだった。

 その時、試合終了を告げるチャイムの音が鳴り響いた。

 「推薦人を見て、少しは正気を取り戻したかと思ったが、勘違いだったようだな。素行を除けば、本校始まって以来の学業成績だというのに、なんと嘆かわしい。まあ、精々頑張りたまえ。貴様のような腐ったミカンが、我が校の生徒会長になれるはずなどないがな」

 しっかりと捨て台詞を吐き、教頭は足早に去っていく。一言も喋らずに隣でじっと待っていた生徒が、その背中を追った。

 「あれって、この間も一緒に居た奴じゃない?」梓はポケットから取り出した飴玉を廻に差し出す。

 「どこかで見たと思ったら、彼は田中半平太君の推薦人だよ」

 「そいつがなんで桂と行動してんのよ」

 「さあ」


 廻は、梓に外国人男性を連れた女子生徒の話をした。すると、梓はどんな魔法を使ったか知らないが、即座にその女子生徒は鈴木沙奈だろうと当たりを付け、言う。「怪しいわね。あの女が人助け? そんなわけないじゃない。絶対に何か裏がある。間違いないわ」

 「彼女の事は知らないって言ってなかった?」

 「廻。あれはね、生粋きっすいの悪女よ。悪女」

 「一体何を根拠に」

 「私の女の勘がそう囁いてるのよ」

 「なるほど。餅は餅屋か」

 女の勘だとか、神のお告げだとか、経験則からの予測だとか。とにかく。一度その気になった梓を止めるのは至難の業であり、鈴木沙奈に会えるかどうかも分からないのに、こうして街へ繰り出す羽目になったというわけだ。

 二人で街をほっつき歩いていたら、駅前に辿り着いた。何やら人だかりが出来ているので覗いてみると、一台の選挙カーが路肩に停められており、今まさに候補者が演説を始めようかというタイミングだった。

 「誰よ、あのジジイ。知ってる?」梓が選挙カーの屋根に登った老人を視界に入れながら、いかにも興味なさそうに訊ねる。

 「知ってると言えば、知ってるような」

 「不良のくせに何で知ってんのよ」

 「不良は『先生』って呼ばれるものが無条件で嫌いだからね。嫌いだからこそ、気になってしまうのが人間のさがだよ」

 と言いつつも、実際のところはあの老人が現職の候補者であり、政治家特有の黒い噂が数々あるという事くらいしか、廻は知らない。「選挙に負けそうになると、途端に相手方のスキャンダルや不正が発覚するんだってさ」

 「あんたの都市伝説好きって、そっち方面もカバーしてるわけ?」呆れ顔の梓が、何かに気づいたように急に辺りを見回す。「やけに警備が物々しいわね」

 「近頃はこの辺りも物騒だから。なんでも夜中に女性が一人で歩いてたら、コートを着た男が近づいてきて、いきなり素っ裸を披露する事件が多発してるらしい」

 「聞く限りじゃ、警備の物々しさとは関係がなさそうだけど。その露出魔も深夜にコソコソ犯行を重ねるんじゃなくて、昼間のこの数の観衆を相手に裸になれたとしたら、見上げた根性だと思わない?」

 「いやぁ、どうかな。その手の人間にとっては、むしろご褒美なのでは?」

 「……正義感でさえ服を着てるってのに。もはや妖怪ね」

 梓はため息をついた後で、演説を締めくくってお辞儀する候補者の老人を睨みながら、「あんなに笑顔が似合わない人間っているんだ」と独り言のように呟いた。

 その後も二人で駅前をブラブラしていると、見覚えのあるお爺さんがスーツ姿の若者と喋っているのを見かけた。廻が近づいて行くと、若者は何度も頭を下げ、その場を後にする。

 「おお、誰かと思えば、廻ちゃんじゃないか。本当に久しぶりだなぁ」

 時代劇に登場する水戸黄門そっくりのお爺さんが、真っ白な髭を触りながら快活に笑う。隣に立つ梓が訊ねた。「だれ?」

 「ほら、前に出前でざるそばを頼んだ事があったろ? そのお蕎麦屋さんの先代、つまりは今の店主のお父さんだよ」

 「どうも、店主のお父さんです」お爺さんは約半世紀分も年が離れた女の子に向けて、丁寧に頭を下げる。「大きくなったな、廻ちゃん。髪もこんなになっちまって」と銀色の髪を手荒に撫で回した。

 「今の人、お知り合いですか?」

 「ああ、それがなぁ。よそ様にこんな話をするのも恥ずかしいんだが、どうやらせがれの奴がしくじったみたいなんだ」

 それまで太陽みたいに明るかった表情が一転、下唇を噛み、眉根を寄せる厳しいものに変わった。

 「何かあったんですか?」ただならぬ事情を察した廻は、お爺さんの話を詳しく聞いてみる事にした。

 驚くべきことに、お爺さんの口から語られた話は、ここ最近、都会を中心に被害が拡大しているという詐欺の手口と丸っきり同じだった。

 掻い摘んで説明すると、今朝方、お爺さん宅に見知らぬ番号から電話がかかってきた。電話の相手はどうやら息子のようで、取引先に渡すはずだった新開発の部品を、届ける途中で紛失してしまったのだという。取引先と話し合った結果、違約金で片を付けることになり、会社に迷惑をかけたくないので、どうにか都合してもらえないかという話だった。

 ただ先程も話題に上った通り、お爺さんの一人息子は蕎麦屋の店主であり、新開発の部品という言葉には違和感を覚える。それに多額の金銭を受け渡す場所として、わざわざ不特定多数の往来がある路上を指定する理由も想像がつかない。

 「きっと蕎麦にのせる用の斬新奇抜な天ぷらを出前の途中で落としてしまったのね」梓が至って真剣な面持ちで言う。無能な名探偵二号が誕生した。

 「それでお金、渡しちゃったんですか?」

 「倅も電話口でひどく動転しててな。金で解決できるんなら、それでいいかと」

 廻はすぐに周囲を見渡して、例の若者を探した。すでに手遅れかとも思ったが、どうやらタクシー待ちの列に捕まっていたらしい。「お金を渡したのって、あの人ですよね?」

 「ああ、そうだ」

 若者はちっとも進まないタクシーの列に見切りをつけ、徒歩で移動を始める。「僕、ちょっと行ってきますね」廻が駆け出し、梓もそれに続いた。


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