1/30 Garden③
◆
大石順平は、娘の
「あ、猫ちゃん」
そう言って、有沙は前方へ手を伸ばす。当然その短い手が何かに届くことはなく、遂には順平の肩の上で暴れ始めた。歩いていれば肩に乗せろとわがまま言うくせに、乗せたら乗せたですぐ降りたがる。気まぐれ、マイペース、天邪鬼。一体どこの誰に似てしまったのだろうと首を傾げずにはいられない。
ご要望通り地面に降ろしてやれば、有沙は覚束ない足取りで公園のある方向へ走り出した。
「公園は行かないぞ。もう十分遊んだろ」と言っても、「でも猫ちゃんが」と繰り返すばかり。終いには順平の制止を振り切って、単独で園内に駆けこんだ。
急いで後を追ってみれば、入ってすぐの場所に一人と一匹は居た。娘の言う猫ちゃんとは、壁に前足を突き、器用に後ろ足だけで地面に立つ、あの黒猫の事らしい。首輪を身につけておらず、けれども野良猫にしては良い毛並みをしていた。
「そこから落ちちゃったの」
有沙は公園を囲むブロック塀を指さしながら言う。心配そうな面持ちで、しかしそれ以上接近すれば黒猫が逃げ出すと分かっているのか、無理に近づこうとはしない。
「見た感じ怪我はしてなさそうだし、猫だから平気だろ。それにしても、猫のくせに塀から落ちるとは、どんくさい奴め」
すると黒猫は、順平の言葉が理解できたかのように目つきが鋭くなった。赤ん坊がつかまり立ちするような恰好をキープしたまま、顔だけをこちらに向けて
「猫ちゃん、怒らないで。お歌を歌ってあげるから」
黒猫の視線の先に割り込んだ有沙が、覚えたての『ねこふんじゃった』を歌ってみせる。無邪気とは、時に悪意よりもよっぽどタチが悪い。本人は歌詞の内容までは把握していないようだが、一方で同族が踏んづけられる歌を聞かされた黒猫は、若干引いている風にも見えた。
そのまましばらく様子を窺っていると、黒猫が塀から足を離し、傍に近寄ってくる。おもむろに前足で地面を引っ掻き始めた。
「どうしたの? ねえ、パパ。これ、何て書いてあるのか読んで」
「ええ?」
「メソ2? いや、アルファベットのXYZか?」
「なにそれ」
「さあ」よく観察してみれば文字が並んでいるように見えなくもないが、そもそも猫が文字を書けるわけがない。「そんな事より、もうお家に帰るぞ」
「猫ちゃんと一緒に帰る」有沙が一心不乱に地面を耕す黒猫に抱き付いた。黒猫は驚いて一瞬目を大きく開けたものの、嫌がる様子はない。
「だめだめ。人によく馴れてるみたいだし、どこかの飼い猫かもしれない」
「首輪をつけてないよ。それに迷子かも。こんなに
「嘘をつくな、嘘を」
「えー。うちなら猫ちゃんの大好きなお魚が沢山あるのに」
「だから駄目なんだって」
妻の実家は竜宮城という寿司屋で、二号店はそれこそ街で一番繁盛していると言っていいほどの人気ぶりだった。
しかし、時が流れるにつれオーナーである妻の父と二号店店長との間に
順平は駄々をこねる娘を抱き上げ、無理やり黒猫から引き離す。だが、有沙は全く譲ろうとしない。「や。絶対に連れて帰るもん」それどころか、黒猫まで背中を追いかけてくる始末だ。
「仕方ないなあ。ママは自分で説得しろよ。パパは手伝わないからな」
「分かった!」
その時、視界の端にとらえた人影に、順平は思わず息を呑んだ。世界から音が消え、時が止まる。親や兄弟よりも長い時間を一緒に過ごしたんだ、間違えるはずがない。
「梓」
大切な娘の存在すら忘れ、その背中を追いかけようとしていた。が、振り返ったのは、まるっきりの別人。呆ける順平を不審そうな目で見ながら歩き去って行く。
「あー。パパがナンパしてる」
「してねえよ。ていうか、ナンパなんて言葉どこで覚えてくるんだ」
「パパには有沙がいるのに」
「なんだ? 一丁前にヤキモチ焼いてんのか?」
「そうだよ。りんきは女の七つ道具」
「まだ覚えてたのか、それ」順平の部屋の本棚から古びたノートを発掘してきた有沙。
「ねえ、パパ。お腹空いた」
「お腹空いた? そうか、もうそんな時間か」
「有沙ね、もうお寿司食べたくない」
「それはパパもだよ」順平は娘の素直な意見に苦笑しつつ、提案する。「なら、ユートピアでも行くか」
「いくー!」
「あ。でも、ファミレスなんて連れてくなってママにきつく言われてんだよなぁ。だから、ママには内緒だぞ」
「うん、内緒。やったね、猫ちゃん」
「……そうだ、猫も居たんだった。猫連れてファミレスは入れないよな、普通」
順平は、有沙が抱きかかえる黒猫を覗きこむ。黒猫は、そのビー玉のような目で、じっと順平を見つめていた。
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