30/30 utopia①

 ◆


 地上のあらゆる如何いかがわしいを集めたような空間。マトモとは程遠い人間が多く利用する店の最奥に、一般的には規律と道徳に厳しいとされる警察官が、我が物顔で陣取っているのだから、とんだお笑いぐさだ。

 「不満そうな顔だな」

 店で最も高価な椅子に腰掛けた長野が、振り向きもせずに言った。当然背後に立つ廻の顔が見えているはずもなく、けれど何か特別な方法で視認したのではないかと不安にさせるような、迫力のある声だった。

 「人を上手く操るものだと感心していただけですよ」

 廻が空席になったばかりの椅子に目をやる。つい先刻までそこに座っていたのは、まだ成人も迎えていないような若者であり、言い換えてしまえば、ただの子供だ。

 その子供が周囲の大人に反発し、道を逸れ、挙句道の先で出会った別の大人に、良い様に使われている。少ない駄賃でそそのかされ、今ではすねに傷を持つ立派な犯罪者というわけだ。

 「まさか、まだ怒ってんのか? 俺がハゲ教頭の依頼を受けて、お前に不良を差し向けたこと」

 「別に怒ってませんよ。あの頃ならともかく、もはや怒れるような立場でもないでしょ」

 「ふむ、確かに。そりゃそうだ」

 長野は納得したように頷くと、珍しく自らライターを取り出して、煙草に火をつけた。その煙を吸い込んだ廻が咳き込む。

 「子供はいいぞ。いくらツンケンしていようが、ちっと褒めてやりゃあコロッと騙されて尻尾を振りやがる。純真ってのは何物にも代え難い利点だよ。そういえば、近頃誘拐で捕まった犯人がいただろ」

 「誘拐? ああ、例の」

 長野が言いたいのは、連続学童誘拐監禁事件の犯人の事だろうとすぐに分かった。小学生の低学年ばかりを誘拐し、無断で住み着いた廃墟に監禁する。その後の被害者の証言から、犯人は誘拐した子供の衣服を剥ぎ、用便を庭に垂れ流させ、食事にドッグフードを与えるという異常性が見られたと報告が上がっている。

 「年々犯罪の手口が巧妙化する中で、逆に動機は単純になりつつある。要するに金だな。だが、あれなんてのはどうだ。理性を持たず、本能に忠実。まさしく人が獣である証拠じゃないか」長野は、あれもある意味では純真だよなと言い、自分の言葉に酔いしれるかのように続けた。「今こそは獣の蔓延はびこる時代だ」

 それに対し、普段は上司の軽口をあっさり聞き流す廻も、ついボソッと呟く。「そんなのは人じゃない」

 「人じゃない? 何言ってんだよ。昔のお前はそれに憧れたんだろうが」

 高校卒業後、一度は進学を選んだものの、夢を捨てきれず、大学を中退して警察官になった。それから八年は真っ当にお巡りさんを務めたのだが、ある日突然、長野と再会した。

 「やっぱりな。こんな珍しい苗字の奴は、他にそうはいないと思ったんだ」

 長野は、過去に廻も関わった詐欺事件の手柄を足がかりにして警察内で目覚ましい出世を果たしており、一介の巡査では口も利けないような立場となっていた。しかも、変わっていたのは立場だけではなかった。

 それは単純な向き不向きの問題だったのだろう。とどの詰まり、彼は人に従う側の人間ではなく、人を従える側の人間、あるいは人を支配する側の人間だった。正義の味方にあるまじき狡猾さ。その部分において、他に抜きんでる才能を秘めていた。

 裏表のない人間はいないとよく言うが、かつての明るく、どこか抜けているけれど憎めない、そんな彼は裏表のどちらでもなく、ただの幻だったのかもしれない。

 廻は、その後の急な配置転換で長野の下に付き、様々な仕事を経験した。そこは警察という組織の中でも特別な部署で、綺麗事じゃどうにもならない事ばかりが日常的に起きた。

 「この世に必要悪は存在しない。それは正義にすがりつく事しか出来ない、弱い連中の言い訳だ。どんなに取り繕ったって、所詮悪は悪。正しくあろうとすればするほど、醜い言い訳にまみれる」長野の言葉は、同じ警察官の言葉とは到底思えなかった。少なくとも、部屋に呼んだ女を脅迫し、無理やり抱きながら吐いたそれは、血の通う人間の言葉ではなかった。「今時、潔白な人間なんて誰一人いやしない」

 ハッと気づくと時計の針が十分ほど進んでおり、長野が扉から外に出ようとしているところだった。「次だ、次。次の仕事に向かうぞ。表に車回せ」

 「すいません。先にお手洗いに行かせて下さい」

 「ったく。ボーっとしてる暇があるなら、その間に行っとけっての。急げよ。男子トイレは出て右だ」

 「はい」

 洗面台の前に立ち、中央にヒビの入った鏡を覗く。薄く刻まれたシワ、目の下のクマ、丁寧にアイロンがけされたワイシャツ。生きてるのか死んでるのかも不確かな日々の中で、唯一の救いは、こんな姿を四宮梓に見られないで済むことだろう。

 死んだ魚のような目。それはまさしく、過去の廻が忌み嫌ったものだ。

 「ああ、父には世界がこう見えていたのか」


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