30/30 utopia②


 ああ、なんて素晴らしい気分なんだろう。

 慶太は目を閉じて、肺一杯に空気を吸い込んだ。鼓膜を優しく刺激する、噴き上がった水の音。遠く澄んだ空に星が浮かび、降り注ぐ光の粒に意識が溶ける。この体が宇宙に近づくのを感じた。

 ゆっくりとまぶたを開ける。こんな特別な日は、普段見ている景色も違って見えるものだ。飾り気のないベンチ、花の散ってしまった花壇、その奥の白くて大きな建物。まるで絵画のように全てが調和しており、うっとりせずにはいられない。

 木枯らしが吹き、それと同時に、慶太のこめかみ辺りがズキンと痛む。あんなにも気分が良かったのにどうして、と首を傾げる。ふと、昨日の出来事が脳裏に蘇った。

 忌々いまいましい黒猫。ベンチで横になる慶太の周りをウロウロし、追い払っても、しつこく付きまとう。そして何分かおきに、こちらの神経を逆撫でするような鳴き声で鳴いた。

 畜生などは死ぬ事こそが唯一の善行だというのに。

 だから慶太は、黒猫に石を投げつけてやった。上手く狙いが定まらず、そのほとんどがあらぬ方向へ飛んでいく中、ついに渾身の一投が脇腹をとらえた。黒猫は苦しげなうめき声をあげ、みっともなく退散していく。その姿を見て、わずかに溜飲りゅういんを下げたのだった。

 その時、突如として慶太の眼前に光の柱が出現した。その円柱形の柱は、空から地面に突き刺さるように立ち、周囲の太陽光を飲み込むほど眩しい。

 状況が理解できず困惑する慶太をよそに、光の柱がみるみる円の範囲を広げていく。すると、柱の中心を通って、何者かが天空から下りてくるようだ。背中に白い翼を広げ、ヴェールで顔を隠した女が、こちらに向けて優雅に手を振っている。

 女が地上に下り立ち、慶太の耳元で囁いた。途端に全身が震え、涙が溢れ出る。

 「やっと会えた」

 道半ばで夢を諦めた俺を、あなたはよく頑張ったと言って抱きしめてくれるだろうか。何も為せずに壊れてしまった俺を、あなたは思い出の中と同じ、夏空のような笑顔で笑ってくれるだろうか。

 叶うならば、あの日々に戻ろう。

 「先輩、そこにいたんですね」


 その日、公園のベンチで一人の浮浪者が息を引き取った。死因に不審な点はなかったが、偽造した身分証を所持しており、警察は詳しい捜査が必要と判断した。

 同日、その公園のそばにある高校で多数の遺体が発見された。場所は校舎の裏手で、遺体は地中浅くに埋められていた。

 どうやら被害者は別の場所で殺害され、一度保管された後、ここに移動させられてきたらしい。殺害された時期がバラバラなため、一部腐乱した状態の遺体もあり、その後の捜査で、いずれもこの学校の卒業生であることが判明した。

 なお、遺棄の方法がずさんだったせいか、真新しい遺体が野犬に掘り返されたうえ、食い荒らされており、発見時には血溜ちだまりで溺れているようだったという。


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