m+other①

 「どうして梓にはママがいないの?」

 父にそう訊ねたのは、多分、入園して少し経ってからだったと思う。

 きっかけは、それこそ同じ質問を幼稚園の友達、今では顔も思い出せない程度のその友達に訊ねられたからだった。

 「どうして梓ちゃんはママがいないの?」

 当時、ママという言葉で真っ先に頭に浮かんだのは、大石家のおばさまの顔だった。だが、彼女は言うまでもなく順平やその兄弟たちの母親であり、梓のママではない。結局、梓は返答にきゅうし、それで家に帰ってから父に訊ねた、とかそんな感じだった。

 「ママがいなくて寂しいか?」

 父は、娘の質問に対して質問で返した。

 そこで梓が何と答えたのか、今となってはまるで思い出す事ができない。首を振って否定したのか、あるいは曖昧に頷いて誤魔化したのではないだろうか。身も蓋もない言い方になるが、最初からいないものに寂しさなど感じようがない、というのが梓の本心だった。

 返答こそ思い出せないが、覚えている事が一つだけある。その頃からすでに、ありとあらゆる感情を削ぎ落としたような顔をしていた父が、「寂しいか」と訊ねながら凄く寂しそうな表情をしていた。父があんな表情を見せたのは、後にも先にもこの時だけだ。

 以来、梓は母親についての一切を心の中に閉じ込め、周りにも口にさせなかった。過剰なほど徹底的に、異常なほど潔癖に、母親というものを拒絶してきた。


 早朝のまだ人通りがない道は、自分の部屋の中よりもずっと空気が澄んでいるように感じた。自宅マンションの扉の前に立ち、ポケットから取り出した鍵を慎重に差し込む。極力、音がしないようにと祈りながら回す。ふと、深夜や早朝に帰宅することが多い父も、よくこんな気分になるのかなと思った。

 「おかえり、お姫様。こっそりと朝帰りだなんて、隅に置けないわねぇ」

 扉が半分ほど開いたところで、奥のリビングから声が届く。夜間外出がバレた気まずさよりも、まあそうだろうなという諦めの気持ちの方が強く、そこからは何のためらいもなしに扉を開けた。

 「ただいま」

 声の主は、すでに梓から興味を失ったのか、テレビの置いてある方を向いて、湯気の立ち上るカップを傾ける。画面左上に表示された時刻は、まだ午前五時を回っていない。真剣な顔で原稿を読むキャスターの声も、普段より何割か増しで低い気がした。

 「朝ご飯、いる?」

 「いい。食べてきた」そう言って、梓は冷蔵庫から取り出したペットボトルの水に口をつけた。

 「あら、そうなの。夜中にお腹が空くのも分かるけど、コンビニやファミレスの食事は体に良くないって聞くし、ほどほどにね」

 「それは無理な相談ね。だって、体に良くない物ほど美味しいって言うじゃない。それに、この時間帯の食事には罪悪感っていう料理を格段に美味しくする調味料が入ってるのよ」

 「梓ちゃんの場合、食事より夜更かしの方が問題かもしれないわね。睡眠不足は万病のもと。何なら私みたいに早寝早起きに挑戦してみない?」

 「あなたのは、もはや早寝早起きってレベルじゃないでしょ。修行とか懲罰とかって言われた方がしっくりくる気がする」

 梓の反論を笑って受け流す彼女は、毎日必ず夜の十時に床に就き、朝の四時に目を覚ます。その規則正しい生活リズムには脱帽だが、眠りの深さに関しても、彼女の右に出る者はいない。少々の騒音や地震であれば、まるで死人のように眠り続けている。

 そのせいで昨晩、延々鳴り響く電話に梓が対応しなくてはならなくなり、あの感動的な再会に繋がったというわけだ。図ったように、留守番電話機能も昨晩に限ってオフになっていた。

 「早寝早起きって本当に気持ちがいいのよ? こう、時間になったら自然と目蓋が開いてね」

 「なんだかロボットみたい」

 「そんな事言わないで。梓ちゃんも一緒に早寝早起きしましょうよ」

 「嫌」

 「ええぇ。もう。健康に良いのに」

 「健康なんて」梓が喉まで出掛かった言葉をぐっと飲み込み、訊ねる。「……お父さんは?」

 すると彼女は年甲斐もなく、少女のように頬を膨らませた。けれど、少しも不快ではない。「それが聞いてよ、梓ちゃん。健太郎さんったら、また仕事が忙しくなるから、会社に泊まり込みだって」怒っていたかと思えば、すぐに沈んだ顔になる。コロコロと表情が変化する。「もうすぐ結婚記念日だっていうのに、酷いと思わない?」

 「仕方ないでしょ。仕事なんだから」素っ気ない返事をして、梓が踵を返した。「じゃ、私は寝るから」自分の部屋の方へと戻っていく。無意識のうちに、扉を閉める腕に力が入ってしまった。


 はっと気づくと、目の前に父が座っていた。辺りを見回せば、そこは見慣れたファミリーレストラン・ユートピアの店内で、これまたいつの間にか運ばれてきたフライドポテトに舌鼓を打っているところだった。

 以前に二人が揃ってこの場所を訪れたのは、梓がまだ小学校に上がりたての頃だ。そのせいなのか、梓は父のことを自然に「パパ」と呼び、それに反応した父が顔をこちらに向けて、「火傷しないように、ゆっくり食べなさい」と言った。その一言だけで、梓の胸の中は温かいもので一杯になる。

 素直に言いつけを守り、ふーふーと息でポテトを冷ましてから口に運ぶ。一口食べ、顔を上げると、父の隣に女性が座っていた。

 父がその女性を親しげに「ママ」と呼ぶので、梓は微塵も疑うことなく、その女性が自分のママなのだと認識した。

 ママの顔は、よく見ようと集中すればするほどぼやけ、輪郭りんかく陽炎かげろうのようにぐにゃぐにゃと形を変える。何か変だと正面の席を窺うが、父はまるで気にする様子がない。

 突然、背後から「ピンポーン」という大きな音がして、梓は驚き振り返る。レジ前の電光表示機が『25』という数字をチカチカと点滅させていた。

 視線を戻すと、先程までそこにいたはずのママの姿がなく、その場所にはぽっかりと穴が開いていた。穴は、幅が座席一つ分の大きさで、底が見えないくらいに深い。

 しばらくして、その深い穴の底から椅子を載せた新しい床が、回転しながらせり上がってくる。ちょうどネジを外すみたいに、クルクル、クルクルと。どうやら椅子には誰かが座っているらしい。床は周りの床とピッタリ同じ高さのところで、上昇をやめた。

 父はその光景に疑問を抱くことなく、床や椅子と一緒に穴の底からせり上がってきた女性の事を、親しげに「ママ」と呼んだ。

 そこでようやく梓は、夢の中にいるのだと自覚した。

 彼女の名前は、四宮花子しのみやはなこ。父の再婚相手であり、父は梓に気を使ってか、未だに家の中では花子さんと呼ぶ。そのため彼女のことを親しげに「ママ」と呼ぶはずがなく、……いや、よく考えてみれば、父の顔は初めから波のない湖面のような無表情であり、一人目のママと呼ばれる女性に関しても、親しげだったかどうかは自信が持てない。もしかすると、そこには梓の願望が大いに反映されていたのかもしれない。

 四宮花子。金髪、色白で鼻が高く、顎が尖り、やや吊り上がった目をしている。背は高く、モデルさながらのスタイルと美貌を持ち、外見はどこからどう見ても立派な西洋人だ。本人曰く、クォーターだそうだが、外国人の遺伝子とはくも頑強なものなのかと感動すら覚えてしまいそうになる。

 ちなみに旧姓は山田。山田花子。話せる言語は日本語だけで、中学英語もままならないというのだから、見かけ倒しもいいところだ。

 「どうしたの? お姫様。そんなにジッと見つめられたら、照れちゃうわ」

 「やめて」

 梓はすでにこれが夢の中の出来事だと分かっており、どうやって目覚めるかに思考を切り替えていた。

 「それなら早寝早起きがいいわよ」花子が眉一つ動かさずに言う。

 「お願いだから黙ってて」

 「こう、時間になったら自然と目蓋が開いてね」

 前回その発言を聞いた時と同様に、梓はロボットを思い浮かべていた。無機質な部屋に寝かされ、関節から無数のコードが伸び、時間がくれば自動で目蓋を開く。だが、それは自分ではなく、自分に姿かたちがよく似たロボット。

 「本当にやめてったら!」

 ほとんど悲鳴に近い声を出した梓。それを皮切りに、どんどんと不安が胸に充満していく。起きなければ、今すぐに起きなければ。気持ちだけがはやり、けれど、どうすれば目覚められるのか、梓には分からない。

 前を向くと、父の姿も花子の姿もなくなっていた。がらんどうのファミレスに、たった一人だけ取り残されている。恐怖のあまり、半狂乱で叫んだ。

 そこで目が覚めた。


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