m+other⑥


 「仲間の一人に辰巳という男がいる。君は覚えていないだろうが、運転手をしていた眼鏡の男だ。辰巳は、妻と子供を同時に交通事故で亡くしていて、……いや、交通事故ではないな。正確には無免許運転かつき逃げだ。犯人は捕まったが、まだ未成年だったために、重い罰は受けなかった。少年院へ送られた後、すでに表の世界に戻っている」

 「家族を失った辰巳は、塞ぎ込み、酒に溺れ、家族以外も全て失った。そして、裏の世界に足を踏み入れた」

 「ひき逃げで家族を失った辰巳が、運び屋なんて仕事に就いたのには理由がある。言わなくても大体察しがつくと思うが、奴はその犯人を探し出して、家族と同じ目に遭わせるつもりなんだ」

 「怨みってのは恐ろしい。辰巳は目的のためなら何だってする気でいる。法外な情報料のためにせっせと働き、犯人が一番苦しむ轢き方を求めて、日夜ドライビングテクニックを磨いてる。奴はすっかり復讐に憑りつかれた怪物さ。救いようがない」


 「戌亥は、君もその目で見ただろ? 決して悪い奴じゃないんだが、何と言うか、色々と歯車が狂ってしまったんだ」

 「戌亥が小学生の時に両親が離婚し、どちらも彼を引き取らなかったために、母方の祖母に預けられた。以来、戌亥は学校に通わせてもらえず、それどころか、祖母が他界するまで一歩たりとも敷地の外へは出してもらえなかった」

 「相当酷いこともされていたようで、祖母について訊ねると口を固く閉ざし、今なお怖がっているように見える。八年もの間、衣服を剥ぎ取られ、食事はドッグフードを与えられ、用便は庭に垂れ流し。そんな生活を続けてりゃ、嫌でも気狂おかしくなっちまうんだろうな」

 「……初めはおとりにでも使ってくれと紹介されたんだが、情が沸いちまったんだなぁ。実を言うと、俺は戌亥を表の世界に戻してやりたいと思っている。あいつは、俺や辰巳みたいに転落して、こちら側に来たわけじゃない。もっと良い世界がある事を忘れてるだけなんだ」


 「俺の不幸話は、二人に比べれば物足りないかもしれない。実は強盗殺人の容疑で、警察から指名手配を受けているんだ」

 「あれはまだ俺がちんけな空き巣をしていた頃だ。とある人物のもとで順調に腕を磨いた俺は、旧知の情報屋と組み、盗みを働く家々で連戦連勝を飾っていた」

 「失敗するなんて毛の先ほども考えてなかったし、失敗する奴は一か八かで盗みに入る素人だって吹かしてたくらいだ。でも、そうやって成功を重ねる内に慢心していたんだろうな。標的の調査や監視をおろそかにして、いつしか情報屋の情報を頼りに盗みを働くようになった」

 「その日の獲物は、それなりに大きな家だった。とはいえ、より大きな豪邸に忍び込んだ経験もあったし、不安はない。想定通り、トラブルなく屋内に侵入できた。が、入って早々に、その家の息子に見つかった」

 「部屋の扉を開けた途端、ばったり鉢合わせして、お互いに体が固まった。当然相手も混乱していたが、俺の方がもっと混乱していた。情報屋からは、住人は全員翌日まで留守だと聞いていたし、そもそも息子の存在すら知らされていなかったんだ」

 「運の悪い事に、息子は片手にリンゴ、もう片方の手に包丁を持っていた。剥いて食べようとしていたんだろうが、次の瞬間にはリンゴを放り捨て、両手で包丁を握っていた。その時の表情は、今でもよく夢に見る。息子は気が触れたみたいに、笑顔を浮かべていた。多分、『泥棒なら殺したって構わない。これは正当防衛だ』とか考えてたんだろう」

 「そこで俺は完全にぶるっちまった。両足がガタガタ震えて、身動きが取れない。息子はそんな俺を前に優越感に浸り、目だし帽を脱ぐよう命令してきた。もちろん、一も二もなく従ったよ。息子が露わになった俺の顔を見て、『想像した以上の負け犬面だ。社会に適合できない、畜生にも劣る蛆虫が』と大笑いしやがった」

 「いよいよ俺はパニックになって、手近にあった物を出鱈目に投げつけ、その隙に屋外へ逃げ出した。どうにかアパートに戻った後は、頭まで毛布に包まって怯えていたよ。住民と鉢合わせしたのは初めてだし、顔も見られていたからな。通報される心配よりも、息子が包丁を持って殺しにくるんじゃないかって、一晩中、玄関の扉を見張ってたんだ」

 「翌日、その息子が死体で発見された。死因は包丁で胸部を刺された事による失血死。俺はそれを、テレビのニュースで知った」

 ことのほか饒舌じょうぜつな寅卯に呆気に取られつつ、話せるくらいには落ち着きを取り戻した梓が訊ねる。「一体誰が息子を」

 寅卯は小さく、ゆっくりと首を振る。とても疲れた顔をしていた。「だが、その家から必死の形相で飛び出してくる俺の姿が、監視カメラにばっちり映っていた。決定的な証拠さ。誰がどう見たって、俺が一番怪しい。俺が見たってそう思うよ」

 「そんな」

 「後になって知った事だが、息子は働きもせず親のすねをかじって生活していたらしい。これは俺の勝手な推測になるが、親が我が子を始末するために、裏の力を頼ったのだろう。好都合にも、そこに俺というカモが現れた。まさか素顔を映像に残してくれるなんて、連中も予想してなかっただろうがな」

 「冤罪ってこと?」

 「難しいところだな。その家に盗みに入ったのは事実だから」すると突然、隣の部屋で食器の割れる音がした。寅卯は即座に椅子から腰を浮かせて、音の出所に対する警戒を強めるが、「またか」とだけ呟いて、気怠そうに視線を戻した。「それにしても、なぜ情報屋は俺を裏切ったのか。それが未だに分からない。自分としては良好な関係を築けていると思っていたんだが。あるいは、俺の態度が鼻についた同業者に騙されたか。今となっては確かめようもないことだ」

 言葉のニュアンスからして、絶賛絶縁中だから顔を合わせづらい、とかそういう類の話ではなさそうだ。確かめようにも確かめられない。それはつまり、そういうことなのだろう。「死んだの? その人」

 「俺が盗みに入ったその日に殺されたそうだ。こちらはニュースになっていないがな」

 寅卯が腕時計にチラッと目を落とす。おもむろに姿勢を正すと、ジャケットの内側に手を突っ込んだ。「喋り過ぎたか。君を届けるまでの猶予がなくなってきたから、最後に質問させてくれ。ただし、この質問には誤魔化したりせず、きちんと答えて欲しい。そうでないと判断した場合、悪いが少々痛い目にあってもらう」

 そう言うと、寅卯はまるで手品師のような手際で、ペンチやバタフライナイフといった拷問器具を次々に取り出す。その使い道を想像するよりも、それを一体どこに収納していたんだ?という疑問の方が先に浮かんだのは、疲労と度重なる恐怖のせいで思考回路がおかしくなっているからかもしれない。

 再び意識が遠のきかけた梓は、捨てばちのつもりで言う。「ら、乱暴していいわけ? 勝手なことをしたら、クライアントとやらが怒るんじゃない?」

 「心配するな。俺は君に、引き渡した後のことは分からないと答えたが、あれは正確とは言えない。確かにクライアントのもとで何が行われているのか、末端である我々は知る由もない。が、最終的にどうなるかくらいは知っている」

 「……どういうこと?」

 「自動販売機を思い浮かべてみてくれ。金を入れて、ボタンを押せば、ジュースが出てくるだろ? 利用者はそれだけ知っていれば十分だし、小難しい事は意識しないで済む。けど、実際は中で機械が色々と働いてるはずなんだ。金額をチェックしたり、在庫があるか調べたり、商品を運ぶために部品を動かしたり。要はそれと同じだ。我々は女を連れて行く。そして、小難しい事が色々とあった末に」寅卯の声色は、何も変わらない。平坦なままだった。「死体になる」

 梓は言葉を失った。耳から入った言葉を受け入れられない。父と囲んだ夕食後よりもよっぽど鮮明に、屍となった自分の姿が脳裏に浮かんだ。

 「事前に用意された条件を満たしていれば、あちらは多少状態が悪くても何も言わない。そして、君をわざわざ仕事場に運んだのも、我々の過去を話したのも、君がいずれ死体になると決定していたからだ」

 動揺する梓の前に、よく見えるように一枚の紙を広げた。それはどうやら梓の所持品であるユートピアの食事券のようだ。

 「さて、最後の質問だ。これを一体どこで手に入れた?」

 その時、不意に猫の鳴き声がして、二人の視線が一斉にその方向へ集まる。場違いなほどのんびりとした鳴き声の黒猫に、二人は目を奪われた。

 「猫がどうやって此処に」

 梓も同じ疑問を抱いていた。窓は塞がれ、扉が閉めきられたこの部屋にどうやって入って来たのか。猫が最初から部屋の中に居たのだとすれば、これだけの時間気づかないというのも不自然だし、そもそも寅卯の困惑した様子が説明つかない。黒猫は戸惑う人間たちをよそに、尻尾をくねらせながら悠然と欠伸をする。

 「あの時の捨て猫」「もしかして小太郎?」

 二人が別々の言葉を発した。ただ、小太郎であればつけているはずの首輪が見当たらず、そうなると梓が思いつくのは、この猫を置いて他にいない。「トラなの?」

 直後、戌亥が出入りした扉の隙間から黒煙が勢いよく侵入して、部屋の中に充満していく。音も無く、電気が消えた。

 「何事だ」寅卯が血相を変えて扉へ駆け寄る。開けてみると、隣の部屋から火の手が上がっていた。「どこだ、戌亥!」梓のところまで、炎の熱が伝わる。

 耳元で囁き声がした。

 「お待たせ、お姫様」

 梓は目を見開き、唾を飲み込んだ。「どうして」そう訊ねる暇もなく、椅子から立たせられる。いつの間にか手足を縛っていたロープがなくなっていた。

 「トラが」

 「あの子なら大丈夫」

 先導されながら、梓も部屋を出た。隣の部屋は、すでにかなり火の手が回っており、煙で視界が悪い。先に出て行ったはずの寅卯は、忽然と姿を消していた。


 建物を後にした花子は、火事を通報するような素振りもなく、さっさと現場から離れていく。梓は数メートル先を歩く背中を追いながら、訊ねずにはいられなかった。

 「どうして」

 どうしてここが。どうしてあなたが。どうして助けてくれたのか。聞きたい事は山ほどあったが、全て喉でつっかえたまま言葉にならない。

 花子が振り返る。「ひ・み・つ」梓をからかうようにウインクする。つくづく自身の性別が女で良かったと思った。仮に男だったら、この色香に抗えた自信はない。

 知らない街を歩きながら、過去にも同じような体験をした気がした。これがデジャヴというやつだろうか。花子は目的地が定まっているらしく、迷いなく足を動かす。

 横断歩道に差し掛かった時、急に花子が振り返って、言った。「ごめんなさい」歩行者信号が点滅を始める。

 何に対しての謝罪なのか、訊ねることも、返事をすることも出来なかった。次の瞬間、花子の体は巨大な力の塊にぶつかって、真横に吹き飛ばされた。

 絶体絶命の窮地から救い出された梓は、またもや肝心な場面で己の無力を晒し、救世主である花子は、呆気なくも信号無視のトラックにねられてしまったのだった。

 その昔、初めての遠足を明日に控えた梓に対して、笑顔を検知するカメラに背景として処理されたエピソードを持つ父が、こう言った。

 「遠足は、家に帰るまでが遠足です」

 さすがパパ。良いこと言うなぁと子供ながらに感服していたのだが、実際は誰もが知る有名な言葉だと分かり、正直言ってガッカリしたのを思い出す。

 救出は、家に帰るまでが救出では? 


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