m+other⑦

 ◆

 

 気づいたら、けたたましいサイレン音と共に赤色灯を回す救急車の中にいた。

 どのようにして通報したかも定かでない。トラックの運転手が顔面蒼白で消防に電話をかけていた気もするし、通行人が集まってきて代わりに119番してくれた気もする。少なくとも終始うわの空で、財布も携帯も持たない梓が呼んだのでないことだけは確かだ。

 救急車が到着し、トラックに撥ね飛ばされた花子が担架で収容され、梓も一緒に乗り込んだ。ここ十数時間ほどは、本当に現実離れした出来事ばかりで、「実はあなた眠ってますよ」と種明かしされたとしても、「ああ、やっぱり」とすんなり受け入れられる自信がある。というか、この一連の出来事が夢なんだとしたら、自身の花子に対する拒否反応は常軌をいっしていると言わざるを得ない。

 横たわった花子の隣に座り、何気なく救急車のフロントガラスに視線を移す。視界に青色が広がった。梓は思わず、「海」と呟く。

 しかしながら、実際に梓が目にしたのは海でも何でもなく、T字路の突き当りにある飲食店が、改装工事のために店の正面をブルーシートで覆っているだけだった。

 途端に梓の体は電流が走ったみたいにぶるっと震え、忘却したはずの記憶を呼び覚ます。どうしてこんな大事なことを忘れてしまっていたのか、自分の事ながら不思議でしょうがない。

 それは梓が小学生の頃の夏休み。家族同然の大石家は一家で帰省しており、梓はやむなく一人ぼっちで過ごすはずだった。ところが、珍しくもその日の四宮家には、父である四宮健太郎の姿があった。

 「どこか行きたい所はないか?」

 そう訊ねられ、梓は面食らった。何しろ昼間に父が家に居ることがすでに珍事であるのに、まさか外出先の希望を訊ねられるなんて思いもしなかったからだ。

 小学生の梓は困り果てた挙句、無難な所で『海』を挙げた。夏の旅先といえば、海か山のどちらかだろう。順平の帰省先は山の方だと聞いていたので、それに対抗する意味合いもあった。

 「海で何をするんだ?」

 「そりゃあ、泳ぐんだよ」

 当然でしょ?と首を傾げる梓に、父は感心した様子で「梓は物知りだな」と言った。

 「そんな事ないって。普通だよ」

 「学校で習ったのか?」

 「ううん」

 「そうか」広げていた新聞を丁寧に畳み、所定の位置へ寸分の狂いもなく置く。「パパはママから教わったんだ。海では何をして、何をしてはいけないか」

 父の口から突然母親の存在が登場したため、梓は困惑した。そして、あの寂しそうな父の顔がフラッシュバックして、どうしたらいいか分からず泣き出しそうになる。

 父はそんな梓を見て、あやすわけでもなく言う。「海でパズルを組み立てようと思ったんだ」

 「パズル?」

 もしや冗談かとも思ったが、父は相変わらず仮面舞踏会に素顔で参加できるほどの無表情をキープしていた。

 「それでママに言われたんだ。海まで来てパズルはないよ、と。海では泳いだり、釣りをするのが普通だそうだ。そこでパパは、『じゃあ、山でパズルはいいのか?』と考えたんだが、一々訊ねるのも悪い気がして、それ以来、パズルはやめてしまった」

 きょとんとする梓を、父はしばらくの間、ジッと見つめていた。遠い過去をしのぶようなその目は、梓を通して、在りし日の母に向けられていたのかもしれない。

 救急車の強めのブレーキで現実に戻された梓は、あの後に二人きりで海に行ったのか、どうしても思い出せなかった。さっきまで鮮明に浮かんでいた父とのやりとりも、砂が風で巻き取られるみたいにサラサラと消え去っていく。

 何故だか無性に苛立って、梓は居ても立っても居られなくなった。とはいえ、医療の『い』の字も知らない人間にできる事など元からなく、苛立ちに任せて狭い車内で暴れるわけにもいかず、やり場のない拳をポケットに突っ込んだ。何か固い物が指先に触れる。

 取り出してみると、それは寅卯から返却された写真だった。母親と赤ん坊を交互に眺めながら、何となしに裏返してみる。そこに文字が書いてあるなんて、それまで気づきもしなかった。

 筆圧が弱く、揺れた線が多いものの、丸みを帯びた可愛らしい字。まるでプリンターで印刷したかのような父の字とは似ても似つかない。とすれば、書いたのは一人しかいない。

 「私の大切なお姫様」

 それは梓の母親の字だった。


 消毒液や薬品の臭いが漂う無機質な廊下に、梓はどれだけの時間座っていたのだろう。花子の遺体が安置された部屋は、もう目と鼻の先。エレベーターで同じ階までは降りて来たが、そこから中々踏ん切りがつかずにいた。

 病院に到着した梓は、看護師にうながされるままに父に連絡をした。放心して、そんな大事なことさえ思いつかず、むしろ誰かがしてくれているだろうくらいに考えていたのだから、「そういう所が、まだまだ子供なんだ」と、脳内の大石順平がため息つくのも無理はない。

 大体、この期に及んで自分は何をためらっているのだろう。面と向かって「家族ではない」と言い放った自分には、顔を合わせる資格がないことくらい分かっている。だとしても、あの絶望的な状況から救い出され、トラックに撥ねられる間接的な原因を作ったのだから、たとえ恥知らずと罵られようとも、この扉をくぐらなければならない。自分にはその責任があるはずだ。

 ようやく覚悟が決まり、静かに扉を開けた。大音量の心音をBGMに、目に飛び込んできたのは、使用者のいない空のベッド。梓は部屋を間違えてしまったかと慌てて振り返る。

 「わ!」

 つかの間、梓の心臓は確実に鼓動を止めていただろう。すぐ目の前には亡くなったはずの花子の顔があり、どうやら物陰に隠れて梓を驚かせようとしていたらしく、その成果を確認するべくニコニコしながら顔を覗き込んでくる。「どう? 驚いた?」

 「……ううっ」

 「あ、あれれぇ? 刺激が強すぎたかしら」

 一旦零れ出した涙は、とめどなく溢れ続けた。息苦しいほどの嗚咽おえつ、生まれて間もない赤ん坊の如き号泣。昨日今日のストレスだけでなく、ここ数年で溜め込んだあれやこれやが、涙となって梓の体の外へ流れ出していく。

 花子は、本来自分が横になっているはずのベッドに梓を座らせると、呼吸が落ち着くまで優しく背中をさすった。

 「トラックに撥ねられたはずじゃ」

 「そうね」

 「何ともないの?」

 「この程度、どうってことないわ」花子が事も無げに言ってのける。

 この程度って、どの程度?生身でトラックに撥ねられる程度?

 あらぬ方向に折れ曲がった足や、アスファルトにできた血だまりを思い出す。脳内の大石順平が、「夢だぞ」と確信を持って告げていた。

 だとしたら、この霊安室は?懸命に救命処置を施した隊員も、真剣な顔で宣告をした医者も、全員グルだったというのか。「昔ね、この病院で色々と世話になったのよ」と、花子は言うが、だからってここまでするとは到底思えない。わけが分からない。

 「へぇ、そこも似てるんだ」

 「え?」

 「健太郎さんもね、想像を超える驚きに直面した時、こう、いつもより鼻の穴が広がるのよ」

 右手で拳を握った花子が、その拳を精一杯広げながら微笑む。無表情のまま、鼻の穴だけが普段よりも広がった父の顔を想像して、梓も思わず笑った。

 「他にはないの? 私とパパの似てるところ」

 「そうねぇ。例えば、家の外ではやりたい放題してるくせに、家の中では妙に気を使ってるところでしょ」

 その後も、次から次に梓と父の共通点を挙げていく花子。梓は、よく見てるなぁと感心すると同時に、自分は何も見えてなかったんだなぁと大いに反省した。

 「じゃあ、私とママの似てるところは?」

 『ママ』という単語に花子が微かに反応したが、わざわざ野暮な確認はしない。

 「それはもちろん、悪い男に騙されやすいところね」

 「はい?」

 「パパみたいな男に騙されたのが運の尽き」

 「なるほど」

 「他人事じゃないのよ? あなたの場合は現在進行形で、そうなんだから」

 「はぁ? 私がいつ、誰に騙されたって?」とは言うものの、梓は今しがたの奇襲を思い出して、段々と腹が立ってくる。

 「まず言えるのは、あなたの父親の職業。週休二日とは言わないまでも、あんなに休みがない職業は、この国に存在しません」変だと思わなかった?製菓会社って、何するところか知ってる?と、花子は立て続けに質問する。「お菓子の国じゃないんだから」

 奇しくも、この二年後の同じ日、同じこの病院で、四宮梓の人生は幕を下ろした。

 

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