漁夫の利⑧
◆
白髪の警官に連れられ交番に行くと、そこには居心地悪そうに椅子に座る、鈴木沙奈の姿があった。どうやら騒ぎに気づき、警察を呼んでくれたのは彼女だったらしい。交番にいた二人の警官が、両方とも彼女を置いて飛び出して行ったものだから、どうしたら良いか分からず途方に暮れていたそうだ。
「塾の友達と待ち合わせしてたら、通せんぼされてる四宮さん達が見えて。えっと、大丈夫だった?」
心配そうに訊ねる鈴木沙奈に対し、梓は、むすっとしたまま一切の反応を示さない。はじめは恥ずかしがっているのかとも思ったが、恐らくは同級生に貸しを作ってしまった事が許せないのだろう。代わりに順平がお礼を言い、何度も頭を下げた。
「じゃ、私は塾でテスト勉強をするから」と言い残し、鈴木沙奈が交番を後にする。去り際、電車内から気になっていた事を訊ねてから別れた。「ああ、これ? 学校以外では眼鏡じゃなくて、コンタクトなの。コンタクトって、あまり先生たちの受けが良くなくて」
二人は、白髪の警官から自宅に連絡するかと訊ねられ、それを丁重に断った。親戚の家に向かう途中だと嘘を伝えると、人が良さそうな白髪の警官は簡単に騙され、道のりの説明と地図を用意してくれる。
「車やトラックに気を付けなさい。信号が青でも、周りをよく見るんだよ」
結局、順平と梓が交番を去るまで、足の速い警官が戻ってくることはなかった。
貰った地図を頼りに、見知らぬ土地を並んで歩く。
「運が良かったよな、俺たち」
梓から返事はない。けれど、後ろをついてくる足音はするので、構わず進む。
十字路で赤信号に捕まり、立ち止まった。どこからも車が接近する気配はなかったが、何となく赤信号を無視する気にはなれない。
「先生の家に着いたらどうするんだ?」
「知らないわよ。自分で考えなさい」
すっかり普段の姫様梓でホッとするやら、げんなりするやら。なかなか青にならない信号機と睨めっこを続けていると、梓が呟く。
「大人って嫌い」
『大人』というのが何を指すのか、順平は量りかねていた。頭の中には、今日出会った大人たちの顔が、まるで走馬灯のように流れる。子供を獲物としか見ていない二人組、その脇を見て見ぬふりして通り過ぎる大人たち、悪人の姿しか目に入らない警官、子供の嘘にコロッと騙される白髪の警官。
「私、かっこ悪かったよね」
こんなに弱気な梓の発言を聞いたのは、人生で二度目だ。順平は内心で仰天しつつも、表情や言葉には出さない。信号が青に変わり、また赤に変わる。梓がさらに続けた。
「あの三人組と私、やってる事が同じだ。相手を選んで粋がって。学校の中じゃ大人にだって歯向かえても、肝心な時に怖くて何も出来なかった」
順平は何と答えたものかと思案し、今度こそ自らの手で蛇口を捻る。「俺たちは意外と守られてる」
「え?」
「学校ってのは不思議な場所だ。学校で大人相手にどんな馬鹿をやっても、叱られるか、精々、小突かれるくらいで済む。本気で殴られたり、金を盗られたりはしない。子供というだけで、大人は守ってくれる」
「そうね」
「けど、一歩でも学校の外に出たら、そんなのは通用しない。これこそが、俺たちが生きている世界の本当の姿。大人はそれを上手く隠してる」その時、信号の色がちょうど青に変わった。正解です!と称えるようでもある。「それが今日知れて良かったじゃないか。お互いに少しだけ大人になれて」
「別に私は大人になりたいわけじゃ……」梓が拗ねるように言った。
「それならそれでいいよ」順平はようやく一歩を踏み出す。「梓は無理に大人にならなくていいよ。代わりに俺が大人になるから」
順平が歩き出した事で、遅れて梓も足を動かす。歩行者信号の点滅が始まり、横断歩道の最後の方は二人で駆け足になった。渡り切ったところで、順平は言う。「大人にならなくていいけど、勉強はしろよ。高校に筆記用具と教科書だけ持って行ったって、つまんないからさ」
さすがは道案内のプロ。はたしてその呼び方が警察官にとって誇らしい事なのかどうかは不明だが、何にしても初めて訪れる土地で迷わずに目的地まで辿り着けたのは、白髪の警官の懇切丁寧な説明と地図があったおかげだ。
陽が傾き始めている。空がグラデーションされ、ちらほらと会社帰りの背広姿を見かけた。
中学校の校舎よりも遥かに高いマンションの外壁を眺めながら、どうしたものかと頭を悩ませていると、見覚えのあるシルエットの車が駐車場の前に滑り込んできた。気の早いヘッドライトに照らされ、つかの間、順平の視界が奪われる。
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