漁夫の利⑦
◆
その後の説得にも失敗した順平は、もはや諦めの境地とも言える心持ちで、電車に揺られていた。
車内は暖房の熱風と休日の安穏とした空気に包まれ、非常に居心地が良い。裸足で座席に登ったちびっ子が目を輝かせながら車窓に
だが、そうは問屋が卸さない、もとい梓が許さないらしく、「ほら、あそこ」耳たぶを引っ張られて見た先には、壁に寄りかかる格好で本のページを捲る少女が立っていた。
「鈴木沙奈よ」と言われ、すぐには誰の事か分からず、順平は記憶の引き出しを手当たり次第に開けていく。
「誰? 有名人?」
「馬鹿。一組の鈴木沙奈。香川先生の手伝いに立候補した、もう一人の」
「ああ」
そこまで情報を貰って、ようやくピンとくるものがあった。
つい先日、顎下にしこたま脂肪を蓄えた校長先生が、中学生英語弁論大会なるもので、我が校の生徒が優秀な成績を収めたのだと自慢げに語っていた。何を隠そうその生徒こそ、鈴木沙奈その人だ。紹介を受け、壇上で
ならばなぜ順平は、すぐに彼女だと気づけなかったのか。それはひとえに、視線の先の読書少女が、鈴木沙奈のトレードマークであるところの眼鏡をかけていなかったからだ。
「どこへ向かっているのかしら」
眼鏡のあるなしなんて些細な事は、全くお構いなしの梓。人の陰で上手く自分の体を隠しながら、彼女のいる方向をチラチラと覗く。
「さあな。街に服でも買いに行くんじゃないか?」
「買い物? テスト期間中の、こんな大事な時に?」
どの口がそれを言うのかと、呆れてツッコむ気にもなれず、順平はうな垂れる。「学年きっての優等生って話だし、街の大きな塾にでも通ってるんだろ、きっと」
「怪しいわね」
「もしもし? 俺の話、聞いてた?」
「鈴木沙奈は、事件以前は香川先生にべったりだったそうよ。先生と生徒っていうより、それこそ彼氏彼女って感じで」声のボリュームを一段階落とした梓が囁く。「もしやこれから先生と密会、とか」
定例報告会でも一度も耳にすることのなかった情報に、順平は一瞬だけ面食らったものの、すぐに頭を振った。「そんなまさか」
数分後、そのまさかが現実味を帯びる。
鈴木沙奈は電車が次の駅に近づくと読んでいた本に栞を挟み、手提げカバンにしまった。それと同時に、「やっぱり」と梓が呟く。「私たちも降りるわよ」
人で溢れる駅構内を抜け、目抜き通りへと続く長い歩行者用デッキを、鈴木沙奈の背中を眺めながら歩いた。
「急展開ね。面白くなってきたわ」
「お得意の早とちりじゃなきゃいいけどな」
「この先で待ち合わせてるのかしら。車で迎えに来られたら厄介ね」
順平は、いつになく興奮気味で、無意識に普段より歩幅が広がっている梓を見て、呆れるような、恥ずかしいような気分になる。未だに住所の書かれたメモを取り出していないところを見ると、差し当っての目標を鈴木沙奈の尾行に定めたようだ。
標的と一定の距離を保ちながらデッキを半分ほど進んだ所で、突如背後から男たちが回り込んできて、順平と梓の行く手を
「羨ましいねぇ。その歳で女の子とデートかよ」
目の前に現れた三人組の男は、三人が三人とも『THEヤンキー』という風体をしており、特に真ん中に立つ男は、ニワトリのトサカのような髪形で、実際は生えてもいない
「電車の中でもイチャイチャしやがって。こちとら男三人で寂しく遊びに来たってのに、見せつけてくれるじゃねえか」そう言った男は、毛程も寂しそうではない。反対に下卑た笑みを浮かべる。それがただの難癖だという事は、中学生の順平にだってすぐに分かった。
「そこで物は相談なんだが。俺たち、君と違って一人身で寂しいからさ。せめて遊ぶ金を貸してくれないかな?」
男たちの表情には見覚えがあった。あれは時折教室や廊下で目にする、強い者が弱い者を支配して楽しむ時の顔だ。
そうこうする内に、二人は鈴木沙奈の後姿を完全に見失っていた。「すいません。ちょっと急いでるんで」と、男たちを避けて進もうとするが、再度立ち塞がるように囲まれてしまう。
「おいおい、まだ話してる途中だろうが。逃げんじゃねえぞ」
道の真ん中に順平と梓が横並びに立ち、それを囲むように男が三人。そして、その横を素知らぬ顔の大人たちが通り過ぎていく。忙しい人は足早に、別に忙しくない人も、さも視界に入らないといった様子で。
「頼むよ。俺たち、お小遣いが少なくてさ。カラオケに行く金もねえんだわ」そう言いながら、また一歩にじり寄る。
ふと梓の様子が気になった。梓は、あまりの不意打ちに虚を突かれたのか、いつもの強気な態度はどこへやら。不安そうな面持ちで、順平とトサカ男の間を視線が行ったり来たりしている。
「なあ、さっきから何黙ってんだよ。人の話、聞いてんのか?」
トサカ男が語気を強めると、隣の梓の体が反射的にびくんと跳ねる。順平も、今にも震えだしそうな腕を、ぐっと拳を握る事で我慢した。梓を庇うように一歩前に出る。
「ひゅー、彼女の前だと勇敢だねぇ。妬けちゃうなぁ」トサカ男は仲間二人と目配せをした後で、「何? 俺たちとやる気?」と言いながら、拳を振り上げる。それに
「お金はない」搾りだすような順平の言葉に嘘はなかった。
そもそも順平にとってお小遣いとは、日々のお使いや文房具購入のお釣りを母に請求されなかった際に、偶発的に発生するものであって、多いとか少ないとかではないのだ。本来であれば電車賃だって惜しいこの財布の中身で、彼らが納得するとは到底思えない。
しばし三人との睨み合いが続いたが、「おっ、彼女の方は物分かりがいいね」という言葉に、順平は慌てて振り返る。梓が財布からお金を取りだそうしていた。
「よせ、出すな」
「でも」梓が心配そうな顔を向ける。
「ほら、彼女もこう言ってる事だしさ。ここだと通行の邪魔になるから、とりあえずあっちで話そうか」と、男の一人が馴れ馴れしく肩に腕を回してきた。順平は、それを振り払う。
「あ?」
ドスの効いた声で威圧するトサカ男。彼らの顔から軽薄さが消え、未熟な猛獣の一面が漏れ出してくる。
すると、それまで無関係、無関心を貫いていた通行人の中から、順平と梓を救わんとする者が現れた。「コラ! お前たち、子供相手に何してるんだ」ただしその大人をヒーローと呼ぶには早計で、素直に喜べない事態だった。
「若者は元気だねー。でも、カツアゲはしちゃ駄目でしょ。弱い者いじめ、反対」
歳の頃でいえば高校生くらいの三人組よりも、さらに年上のチンピラ風な男が二人、駅とは反対の方向からゆっくり近づいて来る。
上には上。あるいは、この場合は下には下だろうか。
二人組の男は、雰囲気の物騒さで言えば、トサカ男とは天と地ほどの差を感じさせた。先程まで弱者をいたぶってゲラゲラ笑っていた三人が、弱者そっちのけでペコペコと頭を下げている。順平には、彼らが何を謝っているのかまでは理解できなかった。
この時、逃げ出すという選択肢も、あるにはあった。今や三人組の包囲から解放され、全速力で来た道を戻れば、駅の構内まで一分とかからない。陸上のペンギンの群れを思わせる、駅の人混みに紛れさえすれば、どんなに凶悪な相手だろうと容易く撒けたはずだ。
それなのに順平の足は、その場に根が生えたみたいにピクリとも動かなかった。緊張か、恐怖心か。ひょっとすると、『困った時は大人が助けてくれる』という戯言を、まだ心のどこかで信じていたのかもしれない。
往々にして期待とは裏切られるものだ。二人の内、サングラスをかけた方の男が、「いけっ」と猟犬を放つかのような掛け声で、三人組を解放した。
その場には順平と梓だけが取り残された。
さらに隣の金髪男が、まるで料理番組の下ごしらえを終えたみたいに言う。「それでは準備も整いましたので、こちらのお二人から慰謝料を頂きましょう」
「慰謝料じゃなくて、謝礼金な」
「そうだっけ? ま、どっちでもいいや」金髪男は、連れの訂正に気を悪くする様子もなく、鼻先を指でこすりながら表情を緩める。「最近のガキは意外とたんまり持ってんだって」
目まぐるしく変化する状況に、順平の思考は全く追いつけていない。先ほどまでは僅かに
「ほら、財布出しな。あいつらにいくら盗られそうになってたの? あのままだと、お金を盗られたうえに、何発か殴られてたよ? 良かったね、俺たちに助けられて」
一つも助かった心地はしなかった。にもかかわらず、金髪男は純粋無垢な子供のような表情で、何とも恩着せがましい物言いをする。サングラスの男の方は、それが分かっているのか、くつくつと笑い声を立てた。
もしかすると自分より弱い者の獲物を横取りするのが、彼らの
ふと夏休み明けに罰として与えられた自由課題、そこにページ数稼ぎとして書き込んだ、一つの故事成語とその由来が頭を過った。
『漁夫の利』
貝を食べようとした鳥が、逆にその嘴を貝に挟まれる。
「ねえねえ、黙ってないで何とか言いなよ。お兄さんたち、実はこう見えて忙しいんだ」
「お金はありません」
「本当にぃ?」
正直に話した順平に対し、金髪男が疑いの目を向ける。何ならその場で、小銭しか入っていない順平の財布をぶちまけてもよかった。けれどサングラスの男は、お金の匂いでも嗅ぎ分けられるのか、さっさと順平から興味を失うと、ターゲットを梓へと変更した。「彼女の方はどうだ?」
「見られてますよ」
その言葉が順平の口をついて出たのは、本当の本当に偶然だった。例えるならば、触れてもいない水道の蛇口から、不意に雫が一滴零れ落ちたようなものだ。そこに順平の意思や思惑は乗っておらず、だから間髪入れずに金髪男が、「誰に?」と訊ねてきた時には、つい「誰にって何ですか?」と訊ね返してしまいそうになった。
順平は大急ぎで思考を巡らせる。金髪男の疑問は至極もっともであり、通りすがる大人たちは巻き込まれまいと、順平や梓には目もくれない。そもそも順平の発言自体、意図せず蛇口から零れ落ちたばかりか、出てきたのは水ではなく、得体の知れない液体だったのだから、返答に困るのは当然のことだった。
僅かの間に必死で考えて、どうにか浮かんだのが、「悪さをすれば、神様はそれを見ていますよ」という陳腐な言葉。これは父方の祖母に繰り返し言い聞かされた言葉であり、四人兄弟のいたずらを片っ端から見抜く母こそ神様なのだと、幼い頃の順平が勘違いしてしまったのは無理もない。
順平は「神様」と口にしかけて、寸前で言葉を呑み込んだ。今この場で口にしたところで、「今さら神頼み?」と失笑を買うだけだろうし、人を脅す事に手慣れ過ぎた二人組が、その二文字で改心するとは思えなかったからだ。
言葉を飲み込んだ順平の喉は、性懲りも無く別の言葉を吐き出す。「漁夫」それはまさしく前回水道内に残っていたものが、押し出されるようにして零れ落ちただけだった。
しかし、意外にもこの言葉は、金髪男の興味を引くものだったらしい。
「ギョフって誰だ?」
順平に訊ねてから、サングラスの男にも同様に訊ねる。男は首を傾げて、「さあ。呂布なら分かるけど」と答えた。
「呂布って、あの三国志の?」
「ああ」
「それなら俺だって知ってるよ。身の丈一丈、
「コイツ普段は何にも知らないくせに珍しいな」
「うへへ。だって俺、三国志オタクだもん」
金髪男は、相方との軽妙なやり取りに続き、少年のようなキラキラした目で、三国志の話を始めた。聞く限りそれは史実と虚実がない交ぜにされた内容で、そうだっけ?と、首を捻りたくなる部分もあったが、本人はいたって真剣に、遂には得物を手に架空の敵を斬り伏せる真似まで披露した。
その様子は順平の目に、いかにも隙だらけに映ったが、一方でサングラスの男の方は、そうではない。会話の最中もずっと顔を順平の方に向け、妙な動きがないか見張っている。冷静沈着。
話の内容が、羽扇から光線を飛ばす
「馬鹿言え。呂布なんて、とっくの昔に死んじまってるよ。どんなに強かろうが、人は死んじまったらそこでお終いだ。今じゃ骨すら残らずに大陸の土か、コンクリートに混ざって高層ビルの土台にでもなってんだろ」
「ふーん。よく分かんないけど、時の流れって残酷だね」
「そうだぞ。ちなみに俺たちがアニキにお使いを頼まれてから、優に一時間は経ってる。帰ったら確実に説教だ」
「えー、マジかよ。だったらさ、こんな場所でグズグズしてないで、早く帰ろうよ。アニキの説教、長いから嫌いなんだよ、俺」
「いや、グズグズしてたのはお前なんだけどな」サングラスの男は苦笑いを浮かべた後で、首をくるっと回転させ、順平をあごで指す。「そういうわけだ。怪我したくなけりゃ、さっさと金出せや」
お世辞にも真っ当とは言えない空気を纏うサングラスの男。片や金髪男は、身なりこそガラが悪いものの、雰囲気は人懐っこく、
金髪男が言う通り、呂布が助けに来てくれるのであれば、どれだけ心強いだろうと、順平は内心で嘆く。だが、生憎とそんな事は絶対に起こらない。この世に絶対はないと言うけれど、こればかりは絶対だ。町々を横断するように伸びる線路を、赤い毛色の赤兎馬が駆けてくる。そして、
「とりま、移動しよっか」金髪男が軽い調子で促す。どうやら悪党というのは、すぐに場所を変えたがるらしい。「ここじゃあ、皆さんの邪魔になるでしょ?」自分たちのやっている事は棚に上げ、往来の邪魔になる事ばかり気にする。
それでも順平と梓が動かないことに我慢が効かなくなると、「そっちの女の子も顔に傷なんか作って帰ったら、お母さんがビックリしちゃうよ?」と言った。
言ってしまった。それがマズかった。
四宮梓の前で、彼女の母親の話を持ち出すのは、本当にマズい。
ここまで長らく大人しかった梓のスイッチが切り替わる音が聞こえた。本来は本人以外に聞こえるはずのない音。だが、生まれた時からずっと傍にいる順平の耳にだけは、しっかりとその音が届いた。「ああ、終わった」背後に視線を向けるまでもなく、梓の目の奥に灯る炎の熱を感じる。
やるしかない。順平は即座に腹を括った。梓の暴走は、順平の人生にとって切っても切り離せない、宿命のようなものだ。これまで何度となく巻き込まれてきたように、きっとこれからもそうなるのだろう。
ひとつ、ここにきて初めて分かった事がある。それというのも、どうやら大石順平の中にあるスイッチは、四宮梓のスイッチと連動する場合があるらしい。
「かかってこい」
順平は震える体を意志の力で押さえつけ、見様見真似でファイティングポーズをとった。いつもであれば大人に歯向かう梓をたしなめ、止めに入るのが順平の仕事だ。けれど、こと今回に関しては、違う。肩を並べ、
順平の様子がおかしいことに気づいたのか、男たちは一度だけ視線を交わす。どうやら窮地において獲物が態度を急変させる事にも慣れているらしく、動揺は見られない。すぐにあちらも戦闘態勢に入った。一触即発の空気を感じ取り、周りの通行人が足を止める。
「お前ら、そこで何してる!」
そこに今度こそ正真正銘の救世主が現れた。と言っても、神様が助けに来てくれたわけではない。当然、呂布でもない。
「警察だ、そこを動くな」
駅の反対側から、青い制服に身を包んだ警官が近寄って来るのが見えた。
「やべえ、サツだ。逃げるぞ」
二人組は、全速力で走る警官を確認すると、一目散に駅の方向へと駆けた。それを追うように、警官が順平たちの横を凄い速さで通り抜ける。
「馬鹿者! 保護対象を置き去りにして行く奴があるか!」足の速い警官が現れた方向から、もう一人警官がやって来る。けれど、こちらは鈍足なうえに、見るからに
二人目の警官は、先ほど通り過ぎていった警官よりもかなり高齢のようで、帽子からは整った白髪がはみ出している。
「君たち、怪我はないか? あいつらに何かされなかったかい?」
白髪の警官の優しい声色に、順平は一気に肩の力が抜けた。ホッと胸を撫で下ろし、振り返る。
と、そこにあるはずの姿がなく一瞬だけ慌てるが、顔を下へと向ければ、地面にへたり込む梓がいた。恐怖から解放され安堵するような、そんな表情。発散には失敗したものの、炎は無事に鎮火したらしい。
「あー、あー。無茶しやがって」
白髪の警官は手すりに肘をつき、帽子を取って頭を掻く。順平はその目線の先を追ってみる。二人組の男が歩行者用デッキの途中にある階段を降りた先、路地へと逃げ込むのが見え、それを追う足の速い警官が、ビルの二階ほどの高さにある階段の踊り場から飛び降りる瞬間だった。
「後先考えずに張り切っちゃって、まあ。ありゃあ出世はできないなぁ」
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