落ち溜まり⑤


 今年の文化祭も無事に終わろうとしている。生徒はすでに簡単な後始末だけ済ませて下校しており、一部の教師を除いて校内には誰も残っていない。昼間の活気溢れる様子とは打って変わって、学校はもぬけの殻と化していた。

 慶太は一人、未だ賑わいの余香が漂う廊下を歩く。明日の片づけが終わるまでは居残りが禁止されているため、全ての教室が早々と施錠されており、入室するには教師であっても所定の手順を踏まなければならない。軽い気持ちで各クラスの展示物を見学できないのは残念だが、扉の外から中を覗くだけでも、それぞれ文化祭に対する熱意や努力を感じ取る事ができた。

 目的地である三年七組の教室に辿り着くと、まずは扉がきちんと施錠されているか確認してから、鍵穴に鍵を突っ込んだ。扉を通り抜けるなり、壁や天井に施された飾り付けが目に飛び込んでくる。黒板には喫茶店風のメニューがずらりと書き出されており、くっつけて置いた学習机の上に、潔白のテーブルクロスが被せられている。

 だが、慶太はそれらに関心を示す事なく、教室の奥へと進んだ。窓際であちこち視線を彷徨さまよわせる内に、突然背後から声をかけられた。

 「そこで何をしているんですか?」

 気づけば扉の前に三人の男子生徒が立っていて、こちらの返事を待つことなく、つかつかと教室の中程まで踏み入ってくる。思わぬタイミングで声をかけられた慶太は虚をつかれてしまい、けれどそれを悟られぬよう極力冷静な声色で答えた。

 「見ての通りだよ。教室に備品を置きっぱなしにしているクラスがあるから、こうやって窓がきちんと施錠されているか確かめて回っているんだ」

 「なんだ、ウチの学校の先生か。コソコソしてるから泥棒かと思いましたよ」

 「おいおい、そんなわけないだろ。泥棒だって馬鹿じゃないんだから、盗みに入る時間帯くらい選ぶさ。そんな事より、君達こそ居残りは禁止されているはずだが、まだ校内に残っていたのか?」

 「俺たちは教室に忘れ物をしてしまって。ダメ元で戻ってみたら、鍵が開いていたので助かりました」

 そう言ってから、三人は目配せをして笑う。教師という仕事をしていれば、大人をからかう笑いというのは頻繁に見かけるが、それとも若干違う。何かもっと嫌な笑みだった。

 「だったら、早く忘れ物を取って帰りなさい」

 「はい、分かりました。おい」

 率先して慶太と会話していた茶髪で癖毛の生徒が、背後の男子生徒を顎で使う。前髪をゴムでくくり、おでこの上で立たせている姿は、お洒落しゃれというよりトリミングし立ての小型犬のようだ。

 犬に命令された男子生徒は文句ひとつ言わず、教室の後方へ向かった。周りの装飾のせいで存在が浮いている掃除用具入れに手をかけ、そこでわざと溜めるように一度こちらを振り返り、意味深な笑みを浮かべる。窓から差し込む夕日に照らされて、ひたいの広い顔がまるで猿みたく真っ赤に染まった。

 バタンと音を立てて、掃除用具入れの扉が開いた。と同時に、そこからパンツ一丁の枯木原が倒れ出てくる。手足をビニール紐で縛られ、受け身も取れない状態。口には大声を出せないようにタオルが巻きつけられていた。

 「どうしたんだ。大丈夫か、枯木原」

 慶太が慌てて枯木原の元へ走り寄ろうとするが、犬の背後にいたもう一人の男子生徒が先回りして進路をふさいだ。「まあまあまあ」声が高く耳障りで、きじの鳴き声に似ている。

 「邪魔だ、そこをどきなさい」

 「先生、落ち着いてくださいよ」

 「お前たち、自分が何をしているのか分かってるのか」

 犬、猿、雉の顔を順に睨みつける。だが、どいつもこいつもニヤニヤしたまま、余裕のある態度を崩さない。おもむろに犬がポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。

 「先生こそ、自分が何をしたのか分かっているんですか?」

 その手には、人間の耳の形をした物体が握られており、慶太はそれを見てハッとする。

 「どこでそれを」

 「いえね、昼間に教室の飾り付けを担当した女子が、記憶にない飾りがあるって騒いでいたもんで。その時の枯木原の様子が妙だったので、少し問い詰めてみたんです。そしたら、これはいじめの証拠を集めるための盗聴器だって言うじゃないですか。しかも、仕掛けたのが松田先生、あなただって」

 「なっ」慶太が枯木原の方を見る。枯木原は寝転がったまま、目を逸らした。

 「言い逃れは出来ませんよ。こいつは何もかも白状しましたから」

 教室内に物音一つしない静寂が訪れる。犬は未熟な身に宿らせた嗜虐性しぎゃくせいを駄々漏れさせながら、慶太の表情の変化をまじまじと観察して、さらに追い打ちをかける。

 「これから俺たち、ここで枯木原の撮影会をしようと思うんです。裸にひん剥いて、そこにあるエプロンだけを着せてね。その写真をネットでばら撒いちゃおうかな」

 「何をふざけた事を」

 「もちろん先生は見逃してくれますよね。っていうか、これは命令です。文化祭の間は女子の更衣室も兼ねてる教室に盗聴器を仕掛けてた、なんて誰にも知られたくないでしょ?」

 言葉に詰まる慶太を前に、犬は近くの机を蹴って大きな音を立てた。取って付けたような謝罪の言葉と共に、口の端を吊り上げる。「おっと、失礼。足が当たっちゃいました」

 「……君らはもうすぐ受験のはずだ。こんな馬鹿な真似をしてる暇があるのか」

 「生憎あいにくと塾の先生には、少々手を抜いても志望校にはまず受かるだろうとお墨付きを貰っていますし、要は卒業するまでの暇潰しですよ。俺たちが卒業したら、そこで勘弁してあげます。でも、それまでは俺たちに絶対服従です。いいですね?」

 最初から返事は期待していないのか、または反論なんてあろうはずがないと確信しているのだろう。続け様に犬が猿に命令を飛ばす。

 「やれ」

 どうやら犬は、勉強のみならず猿回しの腕も優秀らしい。命令を受けた猿が、身動きの取れない枯木原のそばへ歩いて行き、どこからか取り出したはさみで手足のビニール紐を切っていく。口のタオルはそのままにして、唯一身に纏った下着に手を伸ばした。

 「よせ、やめろ」

 慶太は目の前の雉を押し退け、枯木原の元へ走り寄る。猿を力づくで引き剥がした。

 「何してるんですか、先生。こいつを職員室へ届けてしまいますよ」

 「うるさい。お前はもう黙っていろ」慶太は枯木原の口を塞いでいたタオルを外した。「服はどこだ」枯木原は黙って首を横に振る。

 慶太が教室の後ろに並んだロッカーを漁る。入学と同時に配られる南京錠で鍵をかけられる仕様だが、多くの生徒は面倒臭がって施錠しておらず、誰でも開けられるようになっていた。端から手当たり次第にロッカーを開けていき、中に体操着のジャージを発見すると枯木原へ放った。

 「それを着るんだ」

 「勝手に人のロッカーを開けるなんて、いーけないんだー、いけないんだー。先生に言ってやろー」

 「早く着替えなさい」

 枯木原はわずかに躊躇ためらった後、慶太の権幕を見てすぐに指示に従った。

 「あーあ。せっかくこれからが楽しいところだったのに。でも仕方ないですね。それなら別の遊びで楽しませてもらいましょう」

 「待ってくれ」

 「こいつは学校に提出させてもらいます」

 「頼むから、話を聞いてくれないか」

 煮えたぎるような怒りで全身を震わせながら、慶太がその場にひざまずき、床におでこを擦りつける。

 雉は胸ポケットから携帯端末を取り出すと、その姿を何度も撮影した。「スッゲ、大人のガチ土下座だ」「おい、俺にも見せろ」「ほら」「おお、よく撮れてんじゃねえか。後で送ってくれよ」猿が画面を覗きこみ、手を叩いて喜ぶ。

 「分かりました。そのみっともない土下座に免じて、話を聞いてあげましょう」

 「どうかその機械の、耳の穴にあるスイッチを押してみてくれないか」

 「スイッチ?」犬はあからさまに怪訝けげんそうな顔をし、手の中の物体を覗きこむ。「まさかデータを削除して、証拠を消し去る魂胆ですか?」

 「断じて違う、信じてくれ。それに、もし仮にそうだったとしても、教室に盗聴器を仕掛けたこと自体が言い逃れようのない行為なんだから、君たちには何の不都合もないはずだ」

 「んー、一理ありますね。けど、どうしよっかな」悩む素振りを見せながら、犬は視線を飛ばした。それを受け取った猿が、今までになく目をキラキラと輝かせる。彼はその命令が出るのをずっと待っていたのかもしれない。まるで飛び跳ねるかのような軽い身のこなしで慶太に近づくと、その横腹を容赦なく蹴り上げた。

 床に転がり悶え苦しむ慶太をよそに、犬がスイッチを押した。

 すると、教室に居る五人のものではない声が何処からともなく聞こえてくる。犬は、すぐさま周囲を警戒するが、その声が手の中の機械から流れていると分かると、肺の空気を一気に吐き出し、強張こわばった肩の力を抜いた。

 「猛獣狩りに行こうよ、猛獣狩りに行こうよ」押す度に繰り返し流れる女性の声。

 「先生、これは一体何ですか?」

 その声に耳を傾けながら、犬が訊ねる。が、さっきまで床に転がっていたはずの慶太の姿はそこにない。いつの間にか起き上がり、壁際へと移動していた。開いた扉を静かに閉め、内側から鍵をかける。

 「猛獣狩りに行こうよ。猛獣狩りに行こうよ」女性の歌声に合わせ、慶太の口元が微かに動いている。

 「ま、松田先生?」

 慶太の様子がおかしい事に、いち早く気が付いたのは枯木原だった。まるで別人のような雰囲気に、底知れぬ恐怖を覚える。地球上に恐怖心をあおる存在は数多あまたあれど、そのいずれとも異なる。得体の知れない何かと対峙する恐怖。

 それは他の三人も例外ではなく、犬は無意識のうちにその場から後ずさる。汗が顎を伝い、床にポタリと落ちた。

 「そいつは盗聴器じゃなくて、ただのボイスレコーダーだ。使い勝手が悪い上に、録音時間も短い。はっきり言って、盗聴器としての実用性は皆無と言っていい」

 「そ、そんな苦し紛れの言い訳、誰も信じませんよ」犬が精一杯の虚勢を張る。

 「違う違う。本物の盗聴器はこっち」慶太はかけていた眼鏡を外してみせた。「ここのつるの先を押すと録音が始まるんだ。こっちなら半日ほど録音できるから、盗聴器として十分使える」

 枯木原は背中に鳥肌が立ち、経験したことのない激しい胸騒ぎに襲われた。やがてそれは周りにも伝染していった。ただ一人を除き、教室内の全員がまるで金縛りにかかったみたいに身動きが取れない。故障してしまったのか、女の声は狂ったように延々繰り返し続けている。

 「槍だって持ってるもん」

 慶太が天井に向けて元気よく腕を突き上げた後で、上着の内ポケットに手を入れた。

 「鉄砲だって持ってるもん」

 上着から引き出したその手には、拳銃が握られている。


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