落ち溜まり④


 「なんでやり返さなかったのよ」

 「先輩、声が大きいです」

 「あんたなら二対一でも勝てたでしょうに」

 「……さあ、どうですかね。俺はこれまで弱い者いじめしかしてこなかったんで」

 どこからともなく現れて、梓がビールケースに腰を下ろした。一方、慶太は落ち溜まりの地面に横たわったまま、流れてくる雲を眺める。服は砂まみれ、顔は所々赤く腫れており、どうにか上半身を起こして吐いた唾には、砂と血が混ざっていた。

 「馬鹿ね。私のせいにすればよかったのに」

 落ち溜まりで邂逅かいこうを果たした二人は、その後、本当に学校を抜け出して、ファミレスへと向かった。そこでどんな会話をしたのか、内容はイマイチ記憶に残っていない。こっそりと盗み見た、漫画を読みふける彼女の顔ばかり鮮明に思い出される。

 午後からも登校せず、良い頃合いで解散して、そのまま家に帰った。帰宅後、慶太が金魚すくいのポイくらい狭い情報網で調べたところによると、彼女は三年生の先輩で、四宮梓という名前らしい。その言動から一筋縄では行かない人物だろうとは思っていたが、予想を遥かに超える変わり者だという事が判明した。学校創立者の銅像を女装させる、放送室をジャックする等、彼女の奇行は枚挙にいとまがない。風紀にうるさいこの学校では停学、どころか退学になっていてもおかしくない所業だ。

 さらに言えば、あのヤンキー生徒会長と親しい仲らしい。変わり者同士、似た者同士で気が合ったのだろうか。少なくとも、陰で噂されるような関係ともまた違うのだろうな、とは思った。

 慶太が制服の砂を払い、駐輪場の屋根の下に移動する。梓が座るビールケースを羨ましそうに見ながら言った。

 「普通は怪我人に気を使って、譲ったりしませんか?」

 「なんで私が後輩に気を使わないといけないわけ? わざわざ来てあげたんだから、あんたが私にお茶でも出しなさいよ」

 「はあ」慶太は言い返す気にもなれず、その場にお尻を下ろす。「二人とは、元々仲が良かったんです」と聞かれてもいないのに喋り始めた。

 最初は記念受験のつもりだった。まさか合格できるなんて、家族や本人さえも思っていなかった。沢山の人から祝福され、中でも一緒に暮らす祖母が涙を流すほど喜んでくれたのが、とりわけ嬉しかった。

 ただそんな浮ついた気分とも、すぐにオサラバとなる。入学して二ヶ月後には授業についていけなくなり、周りとの出来の違いを痛感した。自分なりに必死に努力したつもりでも、それに結果がともなう事はなかった。

 学年が上がっても状況は好転せず、むしろ酷くなる一方だ。教師から期待されていないのをひしひしと感じる。クラスメイトから白い目で見られるのも、しょっちゅうだった。

 そんな連中が自分の他にも二人いて、当然の成り行きと言うべきか、自然と仲良くなっていた。三人とも悩みの根本は同じ。入学以来初めて、互いに苦しみを理解し合える仲間ができたような気がした。

 でも気づいた時には、その三人組からも弾き出されそうになっていた。元はと言えば、け者で構成された三人組。そこから弾き出されたら、正真正銘の一人ぼっちだ。だから二人の言う事を何でも聞いた。そうしなきゃ、孤独でどうにかなってしまいそうだったから。

 どうやら二人は、以前から慶太には内緒でカツアゲ行為を繰り返していたらしい。ところが、ちょっとしたミスで教師に目をつけられてしまい、身動きが取り辛くなってしまった。そこで慶太に白羽の矢が立ったというわけだ。

 まずは二人が獲物を脅す。その獲物から慶太が金を受け取る。そして受け取った金を二人に渡す。

 一見すると無駄な工程を挟んでいるようにも思えるが、仮に慶太が二人に金を渡す場面を教師に見つかったところで、仲間内での貸し借りだと言い訳が立つ。また、獲物が慶太に金を渡す場面を見つかったとしても、二人は存ぜぬ事だとしらを切ってしまえばいい。そうなれば、悪人として裁かれるのは慶太だけだ。

 「何時ぞやの詐欺の手口みたいね」黙って話を聞いていた梓が口を挟んだ。「もしくはマネーロンダリングの真似事ってところかしら」

 「マネーロンドン? 初めて聞く言葉ですけど、もしかして学校で習ってますか?」

 「マネーロンドンじゃなくて、マネーロンダリングよ。海外マフィアが犯罪で得た汚いお金を洗浄して、利用できるようにする事で、授業に出てくる類いの言葉じゃないわ」

 そうですか、と返事をした慶太が再び話に戻る。「俺が思うに、カツアゲで一番罪悪感を覚えるのが、お金を受け取る時なんです。あいつらはリスクだけでなく、罪の意識も俺に押し付けたんです」

 そんな時、慶太は矢崎進に出会った。矢崎は慶太と違って賢いのに、何故かクラスに馴染めておらず、今考えれば、頭の回転の速さ故に口達者なところがあり、そういう部分がクラスメイトに敬遠される要因になったのかもしれない。

 「お金は渡しますから、一度腹を割って話し合いませんか? キャバクラでもホストでも、お金さえ払えば嫌な顔一つせず、客の話を聞いてくれるもんですよ。そうでしょ?」

 金を受け取る際にそんな事を言われ、慶太は開いた口が塞がらなくなってしまった。後から聞いた話では、矢崎は二人の前でも同じ台詞を言ったらしく、その時は腹ではなく、飛んできた拳で眼鏡が割れたそうだ。

 矢崎の言葉に妙に納得させられてしまった慶太は、あっさりと口車に乗せられ、「じゃあ、少しだけ話してみるか」と考えたのが運の尽きだった。いや、この場合は僥倖ぎょうこうと言うべきかもしれない。以後、慶太は誰からも金を受け取ることはなかった。

 「二人にはキッパリと手を切ると伝えました。あと、矢崎にはもう関わらないで欲しいと。断るようなら、自分はどうなっても構わないから全てを学校にぶちまけるつもりだって言ったら、あいつら目を丸くしてましたよ」

 「二人は約束を守ると思う?」

 「どうでしょう。けど、もしもの時は俺も容赦しません」

 「それだけボロボロな顔で言うと説得力が増すわね」と梓は笑みを零し、その後で表情を引き締めた。「あんた、これで今までの事が全て許されるなんて勘違いしちゃ駄目よ。友達一人救ったからって、カツアゲの片棒を担いだ事実が消えるわけじゃないんだから」

 「はい」慶太は絞り出すような声で返事をした。カツアゲという言葉よりも、友達という言葉に対して、心臓がぎゅっと締めつけられる。「俺が受け取った金は、時間がかかるかもしれないけど、全部返すつもりです」

 「そうね。そうしなさい」

 「先輩は爆走戦隊チャリンジャーって知ってますか?」

 話が突然とんでもない方向へ飛んだからか、あるいは聞いた事もないようなトンチンカンな固有名詞が登場したからか、梓は面食らった表情を見せた。

 「何よ、それ。まさか学校で習ったなんて言わないでしょうね」

 「違います、違います。僕らが幼い頃に流行った戦隊モノの特撮ですよ。矢崎とも懐かしいって、話が盛り上がるんですけど」

 「知るわけないでしょ、そんなの」

 「そうですか? ブルーライダーの俳優がイケメンだって理由で、女の子にも人気があったんだけどなぁ。そしたら番組の制作陣まで人気にあやかろうとして、ブルーばっかり贔屓ひいきするんです。怪人にトドメを刺すのはいつもブルー。当時の男の子からは非難囂々ひなんごうごうでした」

 「あっそ」

 「俺は誰が何と言おうとレッドライダー派でしたけど。だって、逃げ惑う市民のもとへ一番に駆け付けるのは、いつもレッドだったから。俺は、ずっとレッドみたいな弱い者の味方になりたかったんです」照れ臭さに薄っすら頬を染めたのも束の間、慶太は顔を曇らせる。「弱い者の味方って、よく考えたら強い者の敵ってことなんですよね」

 「いいじゃない、強い者の敵。強い者の取り巻きで威張るより断然マシよ。廻も、ああ、廻って生徒会長のことね。あいつ、将来は警察官になりたいそうよ。さっきも高校を卒業したら警察学校に入るんだって、一人で息巻いてたわ」

 「警察学校ですか。あれ? でも、たしか生徒会長って、代々提携校への推薦入学が決まってますよね?」

 それを聞いた梓が「そうよね」と言いながら、慶太の鼻頭を指さす。「興味がなくても、そのくらいの噂は耳に入ってくるわよね?」

 「ええ、まあ。事実かどうかは知りませんけど」

 「はぁ。知らぬが仏か」 

 「ちなみに先輩は」

 将来の夢ってあるんですかと訊ねる前に、軽々と身をかわされてしまった。「内緒」

 「……そうだ、先輩。以前に先輩がした質問の答えですけど」

 「質問? 私、何か質問したっけ?」

 「殴られた方が痛かったです」

 梓がプッと吹き出して、笑う。「当然よね」


 文化祭当日、まだ生徒がほとんど登校していない時間帯。各教室や廊下は催し物の飾り付けがされており、正門には明日の一般公開に向けて、文化祭のシンボルとなるゲートが設置されていた。

 我が校における文化祭とは、受験生にとっての最後の息抜きとなる場だ。何年も前から、それこそ慶太が学生の頃から時期を移す計画が存在するものの、奇跡的にその案は採用されていない。むしろ準備や片づけ、在校生参加の日と一般参加の日を含めて、トータル四日間という期間がかれるようになったのだから、こんな閉鎖的な田舎の学校でも、時は流れているのだなとつくづく実感した。

 慶太は特別棟通路を横切り、中庭を抜けて、校舎の裏手へ回る。かつて『落ち溜まり』と呼ばれていたその場所は、今ではすっかり様変わりしていた。錆だらけで今にも落ちてきそうな屋根の駐輪場は影も形も無い。人によっては違和感を覚えるかどうかという程度の、何もない空間が広がっていた。

 慶太は、その何もない空間をぼーっと眺めながら、落ち溜まりは一体何処へ行ってしまったのだろうと考える。落ち溜まりと、そこにいた落ちこぼれは一体何処へ消えてしまったのだろう。今からでも地面をスコップで掘り返してみれば、煙草の吸殻の一つや二つ出てくるかもしれない。それに混じって、落ちこぼれたちの嘆きや鬱憤が化石となって姿を現しはしないだろうか。あるいは行き場を失った落ちこぼれ自身が、地面の下に埋っていないだろうか。

 早朝の澄んだ空気に乗って、校舎の方向からアコースティックギターの音色が漂ってくる。文化祭でバンド演奏を披露する生徒のものだろうか。慶太はその曲に聞き覚えがあった。レットイットビー。世界的なバンド、ビートルズを代表する曲の一つだ。

 「そのままで良いんだ」慶太がポツリと呟く。

 この曲を初めて聞いたのは、大学の必修英語の授業中だった。自重じじゅうに目蓋の筋肉が耐え切れず、ほとんど目を瞑った状態で喋るお爺ちゃん先生が、何かと理由をつけては自前の洋楽CDを持ち出し、リスニングで使うプレイヤーに突っ込んで曲を流した。

 ある時、彼はこんな事を言った。「おい、君。目の前で、人質に銃を突きつけた悪党が暴れていたらどうする。この場を平和的に解決する方法とは何だ」

 「馬鹿者。警察なんぞ待ってる間に、悪党が見境なく銃をぶっ放すぞ。その後は警察と悪党で泥沼の銃撃戦だ。醜い獣同士の潰し合いという意味では、世界平和に繋がるかもしれんがな。この場合の正解は、皆でビートルズを歌う事だ」

 「なんだ、最近の学生はビートルズも知らんのか。ビートルズってのは、人種差別やら階級社会やら、ありとあらゆる問題を歌で解決してきたロックバンドだ。だから困った時には、とりあえずビートルズを出しとけば、大抵の事は丸く収まるのさ」

 「彼らの曲は全て抜群だが、特にレットイットビーが素晴らしい。この先、君らは社会に出て辛い思いもするだろう。大きな壁にぶつかり、自分が嫌になる事があるかもしれない。そんな時は、この曲を思い出しなさい。レットイットビー、そのままで良いんだ。他の誰に文句をつけられようとも気にする必要はない。何故ならば、他でもないビートルズが『そのままで良いんだ』と歌っているのだから」

 それに対する学生の反応は散々だったが、慶太は必修英語の考査で答えが分からない問題に、彼の言葉の通り『ビートルズ』と書いて提出した。おかげさまで単位はきちんと貰えていたが、あの部分がどういう風に処理されたのか、詳しい事は分からないままだ。

 「あ、本当に居た」

 「うお!」

 古い記憶に没入していたせいか、慶太は背後の人影に気づくのが遅れ、口から心臓が飛び出しそうになる。振り返って確認するまでもなく、声の主は黒木だと分かった。

 「驚き過ぎですよ、松田先生。っていうか、探しましたよ。こんな場所で何してたんですか?」

 「何というわけでもありませんが、その、少しだけ思い出に浸っていました」

 「へぇ、こんな場所に思い出が。ははーん。校舎裏ってことは、さては女の子からの告白ですか?」

 「いえいえ、そんな甘酸っぱいものではありませんよ」

 そう言って、ようやく慶太が正面を向く。その顔を見て、黒木が驚いた表情を浮かべた。

 「あれ? 松田先生、眼鏡なんてかけてましたっけ?」

 「ああ、これ。実は最近、視界が突然ぼやける時があって。眼科で診てもらったばかりなんです」

 「あら、大変。ひょっとして眼鏡が必要なほど悪かったんですか?」

 「それが検査では一切異常が見つからず、原因も分からず終いでした。医者の勧めで眼鏡は作ってみたのですが、はたして意味があるのかどうか。っと、そんな事より僕に何か急ぎの用事ですか?」

 「あ、そうだった。用務員さんが鍵の件で至急お話がしたいとかで、先生の事を探しておられましたよ」

 「ああ、その件でしたか。すいません、助かりました」

 慶太は今は亡き落ち溜まりを一瞥いちべつしてから、黒木と共に職員室へと戻った。


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