落ち溜まり①

 ◆


 敷地の端の端。外周を囲うブロック塀と校舎との間に出来上がった空間、というよりは隙間という言葉の方が相応しいその場所は、『落ちまり』と呼ばれていた。

 学校は、その何とも言えない広さのスペースをもったいないとでも思ったのか、ほんの気持ち程度の屋根付き駐輪場がえられており、ただし生徒は誰一人としてその駐輪場に自転車を停めようなどとは考えない。正門から遠すぎるのはもとより、そんな事をすればどうなるか、タイヤがパンクするだけでは済まないと皆知っているからだ。

 落ち溜まりの由来は文字通り、落ちこぼれの溜まり場で、落ち溜まりだ。掃除の分担区域から外れ、屋根は錆だらけ、支柱は植物のつたがこれでもかと絡まっている。

 年がら年中、周辺には煙草の吸殻が落ちており、ある教師が言うには、塀の外側から吸殻を校内に投げ捨てる不届き者がいるそうだが、誰しもそれが嘘だという事は分かっている。言うまでもなく、その教師もだ。頑張ればよじ登れなくもない高さの塀の向こう側に、誰が好き好んで一年中吸殻を投げ入れ続けるのか。火事の危険性があるにも関わらず、頑なにカメラを設置しようとしないのは、映るはずのものが映らず、映るはずのないものが映ってしまい、問題にせざるを得なくなるのを学校側が嫌ったからだろう。

 落ちて落ちて、零れて零れて。そんな人間が最終的に行き着く受け皿。

 落ち溜まりには、今日も怯えた人影がある。そいつはさっきからずっと「来るな。来るな」と、まるで念仏みたいに唱え続けている。一方で、「来るだろ、そりゃ」と呆れるような、諦めるような声が頭の中で聞こえた。「今までそう言って、来なかったためしがあるか?」

 ざっ、ざっ、ざっ。昨夜の雨で湿った地面を踏み固めるような足音。「ほらな」首を振って、頭の中の声を追い出そうとするが効果はない。「今日はいくらだろうな?」うるさい、黙れ、消えろ。足が小刻みに震え、口の中が異常に乾く。無意識に、あの歌を口ずさんでいた。

 「いけいーけ、レッドライダー。地平線の彼方まで」


 校長先生の話というのは、古今東西退屈なものと厳格に定められているのだろうか。

 かつて同級生と肩を並べて聞いた校長先生の話は、それ以降の人生に何か一つでも影響を与えるようなものではなく、遠慮のない言い方をすれば、まさしく時間の無駄だった。

 それは時が流れ、教師の列に並ぶようになった現在も特別変化があるわけではない。慶太は話の中に頻出ひんしゅつする校長の口癖、網の上で肉でも焼くみたいな響きの『重々』という言葉の登場回数を数えながら、こっそり欠伸を噛み殺す。

 あるいは校長には校長なりの自論や矜持きょうじが存在し、「たった一人でも興味を持ってくれるのであれば話す意味がある」だとか、「退屈なのは受け取る側が、きちんと意図をみ取れていないからだ」とか、まるで誰にも相手にされない小説家のような言い分があるのかもしれない。

 「マツケイはいいよね。集会で、ぼーっとしてても注意されなくて」と、生徒に嫌みたらしく言われた事があるが、とんでもない。教師だって同じ場所で同じように面白くない話を聞かされ、あまつさえ生徒に注意をして嫌われなければならないのだから、なんて理不尽なんだと反論したくなる。子供が聞いて面白くない話は、大抵大人が聞いても面白くはないんだよ。ただそれを顔や態度に出さない努力をしているだけなんだよ。

 遂には教師が並ぶ真ん前の列でも女子生徒が二人、私語を始めた。列の並びからして一年生だろう。入学して半年近くが経ったとはいえ、まだ中学生だった頃のあどけなさが残っているようにも見える。

 「ねえ、倉庫のアズサさんって知ってる?」

 「何それ、知らない」

 「部活の先輩から聞いた話なんだけど、この学校の七不思議なんだって」

 「うそ、こわーい」

 前に座る女子生徒が、肩越しに後ろの女子生徒に言う。怖いと言うわりには顔に笑みを浮かべており、むしろ興味津々といった様子だ。

 「何でもアズサさんは、実際に昔この学校に通っていた生徒らしくてさ。人一倍正義感が強くて、クラスでいじめられてる子をかばったりしていたの。でもそのせいで、アズサさん自身も体育館倉庫に閉じ込められてしまって。どうにか天井の小窓から外に助けを求めようとしたんだけど、不運にも足場にしていた跳び箱から落下して、頭を打って死んじゃったんだって」

 「へぇ」

 「それ以来、一人で体育館倉庫にいると助けを呼ぶアズサさんの声が聞こえたり、誰もいないはずの体育館で倉庫の扉を叩く音がするって噂よ。あとは、この学校でいじめがあると、いじめた方にわざわいが降りかかるって言われてるの」

 「災い? どんな?」

 「前日の行動が詳細に書き記された手紙が下駄箱に入ってたり、隠し撮りされた写真がメールで送られてきたり」

 「え、怖。ストーカーじゃん」前に座る女子生徒の声には、今度こそ感情が籠っていた。

 「でしょ? でも、倉庫のアズサさんには対処法があって、先輩が言うにはコロッケパンと苺オレをお供えすればいいとか何とか」

 「アズサさんの好物かな?」

 「それが用意できない時は、お母さんの話をすれば、アズサさんは怖がって逃げていくみたい」

 その頃には、すでにそこら中で話し声が聞こえており、ざわざわと、まるでスズムシが輪唱するみたいに、一人一人の声も次第に大きくなる。

 「うるさいぞ。どうして高校生にもなって、静かに校長先生の話が聞けないんだ」

 司会進行役の先生がマイクを手に注意した。校長の話が途切れる。すると、何処からともなく、「話がつまんないからだよ」と野次が飛んだ。

 「誰だ、今言ったのは」今度は三年の学年主任が怒鳴った。彼の右目の下には刃物で切ったような傷跡があり、外見はどう見てもその筋の人間だ。四月に入学してきた新入生がこの顔を拝むことで、「学校でヤンチャするのはやめよう」と心に誓うのが、我が校での恒例行事とされている。

 体育館は先ほどまでの騒がしさが嘘だったかのように、しんと静まりかえっている。

 「誰だと聞いているんだ。犯人が名乗り出るまで、いくらでも待つからな」

 床で体育座りする生徒たちからは、不満の声が上がった。が、大きくはない。ここで変に目立ち、あらぬ疑いまでかけられたくはないからだろう。

 学年主任は鋭い目つきで、ひとパック200円の卵みたいにきちんと整列して座っている生徒たちを睨みつける。立場上は上司である校長すらもその殺気にすくみあがっているのか、話が中断させられているにも関わらず、お行儀よく待ち続けている。ふと、実家の飼い犬が餌を前にしてよだれを垂らしながら、お預けを食らっている場面が蘇った。

 さらに時間をおいて、一人の生徒がおもむろに立ち上がった。

 「すみませんでした」ひょろひょろとした見た目。長身かつ手足が長いので、ナナフシを連想させる。その長い腕で、かけている眼鏡を押し上げた。

 「三年か。組と名前を言いなさい」

 「……」

 「早くしなさい。周りに迷惑をかけてるぞ」

 「七組。枯木原勝かれきばらまさる、です」

 「まったく。もうすぐ受験だというのに、受験生としての自覚がないのか。放課後、生徒指導まで来なさい」

 「はい」とも「はう」ともつかない返事をして、枯木原は再び体育座りに戻った。

 その様子を見た同じクラスの生徒がクスクス笑ったり、嫌な笑みを浮かべていた。その瞬間、慶太は背中が粟立あわだつのを感じる。確証があるわけではないが、多分彼は言っていないんだろうなと思った。


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