落ち溜まり②
◆
放課後、30分遅れで定例の職員会議が始まった。つまり、帰宅時間も30分後ろにずれたという事だ。
会議は、各学年主任からの報告や議題について話し合う前に、まず教頭の『軽いお話』から入るのが、いつもの流れだ。
話が始まって数分が経ち、隣の席に座る黒木が机の端を指でコツコツと叩く。その口元には白い歯が覗いており、慶太は
今度は何だろうと首を
「それ、今答えなきゃいけませんか?」
「ええ。今です。逃げ場はありません」
小声でのやりとり。慶太はチラッと教頭の方を確認してから、視線を戻した。
「そこに学校があったからです」
「なるほど、想定外の回答ですね。じゃあ、そこに学校がなかったら、教師にはならなかったんですか?」
「そうですね」
「そこに空がありますけど、宇宙飛行士になろうとは思わなかったんですか?」
「空から宇宙を連想するほど、ロマンチックな青年期は過ごしていませんよ。それに僕は、ギャンブルがめっぽう苦手なので」慶太が小さくため息を吐く。そっくりそのまま質問を返してやることにした。「そちらこそ、なぜ教師に?」
すると黒木は、「よくぞ聞いてくれました」とばかりに目をカッと見開いて、椅子から立ち上がる。突然の事に慶太や周りの先生はぎょっとし、遅れて本人も今が何の時間か思い出したのか、「おっしゃる通りです」と言いながら教頭に向けて拍手を送り、どうにかその場を誤魔化そうとした。
けれど、恐らく適切な相槌ではなかったのだろう。教頭は咳払いをした後で、「黒木先生が生徒同士の交際に人並み以上の関心をお持ちなのは分かりましたから、とりあえず座ってください」と適当にあしらった。
「私、子供が大好きなんですよ。小学生ってほんと無邪気だし、中学生は少し生意気だけど可愛い。ただ高校の先生は違ったかなぁって、二年目くらいで気がつきました。高校生にもなると子供って言うより、猛獣? 自身の武器を理解しつつ、理性的に襲い掛かって来る、みたいな」
「確かに。大人と呼べるほどには想像力が働かないですしね」
黒木は「猛獣狩りに行こうよ、猛獣狩りに行こうよ」と懐かしいメロディに乗せて歌う。「あれって何がしたかったんでしょう。子供版のマッチングアプリ的な?」
重いお話が一段落つき、黒木が名指しで注意され、そして何故か慶太は、会議終了後に教頭直々の呼び出しを受ける事が決まった。
「キョ・ウ・ト・ウ」黒木が指を折りながら言う。
「あと三人足りませんね」
「松田先生は、小さい『よ』を一文字にカウントする派ですか?」
「ええ」
「うちの地域とは違いますね。まあでも平気ですよ。教頭が相手なら、三人なんてあっという間に集まりますから」ヤニだって持ってるもん、と黒木がポケットから出した煙草を指の間で遊ばせる。
来月に迫る文化祭についての話し合いの最中、一年の学年主任に緊急の連絡が入り、会議は一時中断と相成った。
「松田先生は、確かここの卒業生でしたよね?」
「はい」
「やっぱり学生時代と今じゃ全然違いますか? 学校の雰囲気とか、生徒の様子とか」
「そうですね。昔の方がピリピリしてたというか。もう少し勉強勉強って空気だったかもしれません。教師は結果を出すのに必死、生徒は授業に付いていくのに必死って感じで」
「へぇ、そうなんだ」
訊ねたはいいが、さほど興味はなかったのか、黒木は頭の後ろで手を組みながら欠伸をする。釣られて慶太も脳に酸素を送った。30分が45分、45分が一時間と、帰宅時間がずれるにつれて、気分がどんどん落ち込んでいく。
「松田青年は、きっと真面目な学生だったんだろうなぁ」
「ユーモアが足りない、とは言われてましたけど」
「何か卒業生しか知らない面白い話ってありませんか?」
「そうですね。面白くはありませんけど、同年代の卒業生しか知らない話なら。実は中庭は、僕が在学中に一度、取り壊されそうになってて。そこに駐輪場を移設する計画が持ち上がったんですけど、その年の生徒会長選挙で計画の撤回を公約に掲げた生徒が当選して、見事中庭を守り抜いたんです」
「生徒が学校に刃向かったんですか。それは中々、ガッツのある子がいたんですねぇ」
「ええ。その生徒会長は、我が校、最初で最後の不良でした」慶太は言い終わってすぐに訂正する。「ああ、すいません。最後かどうかはまだ分かりませんね」
「不良ですか。うちって、それなりに伝統のある進学校ですよね?」
「しかも、その不良は天才でした。全国模試で常に一桁順位に名を連ねるような化け物です」
「それは凄い」
「ちなみに彼が選ばれた年の生徒会長選挙は、学校史上最悪の生徒会長選挙って呼ばれていて、これに関しては
微笑んだ慶太を見て、黒木が訊ねる。「その生徒会長さんとは、お知り合い?」
「うーん。正確には、知り合いの友達くらいの関係ですかね。彼はこんな事も言っていましたよ。『今の世の中は天使に近い人間よりも、獣に近い人間の方が成功するようになっている』」
「もしかしてパスカルですか? 本当に高校生ですか? その人」
「大学で初めてパスカルに触れた時、僕も同じ事を思いました。他にも、『人は歳を重ねる毎に大人になる。大人になるとは、元からある獣性を理性で抑え込む事であり、それをせず歳だけ重ねた者は、人ではなくなる』だそうです」
「人生を何周したら、高校生の口からそんな格言が飛び出すんですか」
「まったくです。僕みたいな凡人には、未だに天才が言いたかった事の十分の一も理解できません」
結局、一時間半遅れで職員会議が終わった。同僚が各々家路に就く中、慶太は予告通り教頭に呼び出しを食らい、一枚の紙を手に追加の事情聴取が始まった。
「お葬式で休みたいと。身内の方ですか?」
「いえ」
「では、どういった関係の?」
「強いて言えば、知り合いでしょうか」
「松田先生ね、クラスを受け持ったのは初めてでしょ? だったら、今が大事な時期だって事は分かりますよね?」
「はあ」そう答えながら、慶太は急な体の不調に襲われる。目の焦点が合わず、視界がぼやける。でも何故だか知らないが、あまり不安な気持ちにはならなかった。むしろ腹立たしい教頭の顔が見えなくなって、都合がいいとさえ思ったくらいだ。
「それを困るんですよ。知り合いの葬式くらいで休まれちゃさ。こっちは君のためを思って、忠告してあげてるんだから。分かる?」
「はあ」
昔懐かしい話をしたせいか、無性に三年七組の教室を訪れたくなった。慶太は他の先生が帰宅した後も一人、夜の校舎に残る。灯りもなく、生徒もいない学校の廊下は、昼間の面影が残っておらず、まるで別世界に通ずるトンネルのようだ。
鍵を差し込み、回す。扉を横に滑らせた。慶太の目線が、自然と教室の中央へと吸い寄せられる。
蛍光灯のスイッチに手を伸ばしたところで、席に何やら大きな荷物が置かれている事に気が付いた。最初はギターケースが放置されているのかと思ったが、違った。それはもっと人のような形をしており、というよりも、明らかに人が座っているようにしか見えない。慶太は自分の顔からサッと血の気が引くのを感じる。と同時に、集会で女子生徒が話していた言葉が脳裏を過った。
「ねえ、倉庫のアズサさんって知ってる?」
腰を抜かすというのを初めて体験した。無様にもその場で尻餅をつき、起き上がることさえ出来ない。
「人は不測の事態に出くわすと思考が鈍り、動きが止まる。故に不測の事態を失くすべく、あらかじめ、ありとあらゆる事態を想定した訓練を積むのが
そうこうする内に、教室の電気が灯る。慶太は眩しさのあまり思わず目を瞑った。しばらくして恐る恐る目蓋を上げると、正面に一人の男子生徒が立っていた。
「君は、枯木原君?」
「はい」
「ど、ど、どうしてここに?」
枯木原は返事をせず、また、倒れている慶太に手を貸すこともなく、席へと戻っていく。幽霊の正体見たり枯れ尾花。訓練では到底得られない、実践ならではの教訓だ。幽霊の正体見たり枯木原。
「先生は、僕の事を知っているんですか?」
集会で注目を浴びていたからね、とは言えず、曖昧に返事をした。廊下側の壁を支えに何とか立ち上がった慶太が訊ねる。「それよりも下校時間はとっくに過ぎてるはずだけど。守衛さんが鍵を閉めに来ただろ?」
「来ましたけど、隠れてやり過ごしました」平然と言う枯木原。
「……そっか。えっと、僕は二年七組の担任で」
「松田先生ですよね。担当教科は化学と生物」
「あ、うん。よくご存じで」
「先生こそ、何の用事ですか? ここは二年七組の教室じゃなくて、三年七組の教室ですよ」
「それは、その」
慶太は本当の事を話すべきか一瞬悩み、口ごもる。
と、そこまで思考を巡らせたところで、そもそも何故こちらが問い詰められているんだと、
「先生はこの学校の卒業生ですよね?」
母校について自分から言いふらした覚えもないが、別段隠していたつもりもない。これまで関わりのなかった生徒が知っていたって、不思議はないだろう。
「そうだけど」
それでも不快感が滲み出てしまう。こちらの事は何でも知ってるぞと、暗に言われているような気がした。
「先生が学生の頃は、いじめってありましたか?」
思いも寄らぬ波状攻撃に、慶太はまたしても床に崩れ落ちそうになる。ああ、来るんじゃなかった。さっさと家に帰って、ビール片手に録画した映画でも見ていれば良かった。先輩の事なんか、懐かしいと思ったがばっかりに。
「はぁ? 人のせいにしてんじゃないわよ」
先輩の怒った顔が思い浮かぶ。理不尽に叱られることは数多くあったが、今回ばかりは彼女の言う通りだ。
出し抜けに慶太が口笛を吹いた。小鳥のさえずりに似た高い音程。タタタタタタタタタタターと、神社の階段を駆け上るような軽快なリズム。慶太の持つ教室の鍵が蛍光灯の光を反射して、あたかもナイフの切っ先かのように
「ああ、ごめん。いじめがあったかどうか、だよね? うん。あったよ、いじめ。学校は絶対に認めないだろうけどね」
枯木原は、慶太の声が届いているのかいないのか、黙ったまま何も書かれていない黒板をじっと見つめている。
「あの頃は、今とは勉強の量も進度も違って、皆振り落されないようにするので精一杯で。まあ、『クラスメイトを全員ライバルと思え』って洗脳されてた特進クラスに比べれば、僕らはまだマシな方だったんだろうけど。そのうちに何人かが授業に付いていけなくなって、クラスで浮くようになった。陰で落ちこぼれなんて呼ばれて。その辺りからだよ。クラスに、いじめる人間といじめられる人間、そして、その他大勢が生まれたのは」
心ここにあらずといった様子の枯木原が、ようやく慶太の居る方を向いた。ゴクっと唾を飲み込んでから、声を発する。「先生は」その先の言葉は聞こえてこなかった。だが、聞こえずとも何が続くはずだったのかは理解できた。
「いじめてくる奴らの事が憎い?」
「はい」
「どれくらい憎い?」
「どれくらいって。……凄く」
「うーん。『凄く』だと、ちょっと伝わらないなぁ。もっと具体的に」慶太は薄っすらと笑みを浮かべる。虚ろな目の奥には、どす黒い何かが
「枯木原君さ、倉庫のアズサさんって知ってる?」
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