漁夫の利③

◆中学生


 教室の床と椅子の脚が擦れる独特の音が響き、つかの間、クラス中の注目が一カ所に集まる。一様にまん丸な目で、思わぬハプニングを期待するようなその視線は、残念ながら大した事ではなさそうだと分かると、あっという間に散り散りとなった。

 順平は椅子から転げ落ちそうになるのを、すんでのところで体勢を立て直し、辺りを見回す。ドクドクとバスドラムのような低音が耳元でうるさい。健気にも心臓が体の隅々まで血液を送ろうと頑張っているのだが、その割に頭はひんやりと冷たいまま。マラソン後の酸欠気味のような感覚で、反応が鈍い。

 「おはよう、順平」

 そう挨拶する梓は、順平の手首を掴んだまま、ニタニタと笑う。どうやら授業中、先生の話に耳を傾けながら眠ってしまったらしい。その眠っている人間の手首を掴み、引っ張るという悪質な悪戯を仕掛けた犯人は、捜すまでもなく発見されたようだ。

 「覚えとけよ、梓。絶対にいつか同じ目に遭わせてやるからな」

 「上等よ。でも、あんたに出来るかしらね。どちらが遅くまで起きていられるかの勝負をした時、顔中に落書きされたのを忘れたの?」

 「おい、そんな昔の話を持ち出すなよ。汚いぞ」

 高笑いする梓は、顔を上げた順平の手元を見て、同情するかのように言った。「大変そうね。ご愁傷様」机の上に広がっているのは、授業中も隠れて勤しんでいた課題の名残だ。

 「なに『自分は関係ないです』みたいな言い方してんだ」

 「さて、何の事かしら」

 「そもそも俺は巻き込まれただけで、主犯はお前だろ」

 「あーあー。何にも聞こえなーい」

 二学期の始め頃、梓は「学校に化粧をして来た」という理由で、ある男性教師から呼び止められた。ただし、それは事実無根の疑いであり、彼女は化粧などしておらず、生まれつき肌が色白なだけだった。夏休み明けで、ちょうど周りが小麦色の肌をしていたこともあり、余計に彼女の肌の白さを際立たせてしまっていたのかもしれない。

 さらに悪い事に、その男性教師というのが、思い込んだら周囲の声が届かなくなるタイプの厄介者だったようで、梓を強引に手洗い場まで連れて行き、顔を洗わせ、顔面をタオルでゴシゴシと擦ったのだそうだ。

 当然ながら、大人からそのような横暴な仕打ちを受けて、黙っている四宮梓ではない。

 その後に何が起きたかを端的に説明すると、翌日、男性教師が愛用のタオルで顔を拭いたところ、顔中がまるで白粉おしろいを塗ったかのように真っ白になるという事件が起きた。どうやら何者かの手によって、チョークの粉まみれにされたタオルと入れ替わっていたらしく、そこに待ってましたと言わんばかりに、手にホースを携えた梓が登場。チョークの粉でむせる男性教師の顔面めがけて、容赦なく放水を行った。

 事件収束後、共犯者の大石順平共々、校長室へと連行され、様々な事情を考慮した結果、二人には罰として反省文三枚、自由課題ノート一冊が言い渡されたのだった。

 「そんな事よりも、ちょっとついて来て」梓は順平を椅子から立ち上がらせると、手を引きながら廊下をずんずん突き進んでいく。

 「おい、今度はどこに連れてく気だ」

 「面白いところ」

 「どこだよ、それ」

 「いいから順平は黙ってついて来なさい」

 「またそれか」

 進行方向からして、梓の目的地はどうやら二年一組の教室らしい。すでに教室の前には人だかりが出来上がっており、何も聞かされずについて来た順平にも、それだけの人が興味をかれる何かがある事だけは分かった。

 「邪魔よ、道を空けて。どいてったら」

 同学年とはいえ、他所のクラスの教室に踏み入るのは気が引ける順平とは違い、梓は大胆に人垣をかき分けながら、遠慮なしに奥へ奥へと進んでいく。

 教壇にはちょうど一組の担任である香川先生が立っており、その周りを多くの男子生徒が取り囲んでいた。顔ぶれを見るに、全員が一組の生徒のようだ。

 「で、これは一体何の騒ぎなんだ?」

 「はあ。相変わらず察しの悪い頭ね。脳みそが半分しか詰まってないんじゃないの」

 「異議あり。察しの悪さと脳みその量の因果関係は認められておらず、単に悪口を言いたいがための発言と思われます」

 「おおむね正解よ。でも、異議は却下します」

 「何でだよ、ふざけんな」

 「あんたこそふざけてないで、もう一度よく観察しなさい」

 そう言われ、順平はしぶしぶ指示に従う。ぱっと見には、教室内に異変は見当たらない。よくある学校生活の一コマ、見慣れた風景だ。

 すなわち、梓が言わんとするのは、やはり教壇周りの人溜まりで間違いないのだろう。沢山の生徒に囲まれ、困り顔で返事をする香川先生。サッカーで点を決めた選手が受ける祝福のようであり、世間に不祥事がバレて追及を受ける記者会見のようにも見える。

 「先生、ついに結婚でもするのか?」

 「ハズレ」梓は大きなため息を吐く。「香川先生、学校にエロ本を持参したらしいわよ」

 「は? 今なんて」

 「だから、エロ本よ、エロ本。先生が車に載せてるのを一組の女子が見たんだって。それでこんな騒ぎになってるってわけ」

 「なるほど」男子ばかりが先生の傍に集まって、女子は遠巻きにして見ているのは、そういうわけか。言われてみれば、扉の前に人垣を作っているのも大半が男子生徒だ。「それはそれとして、先程の発言についてですが。『察しの悪い頭』でしたっけ? たとえ脳みそがきちんと詰まっていたとしても、これっぽっちのヒントで正解を導き出すのは無理がありませんかね?」とは言わなかった。梓に対する真っ当な抗議が意味を為さない事を、順平は誰よりも身に染みて分かっているからだ。

 「あ、チャイム」梓が黒板の上の時計を見上げる。

 「マズい、次の授業はホームルームだ。梓、急いで教室に戻るぞ」

 「えぇー。せっかく本人から話を聞こうと思ってたのに。ったく、順平のせいで出発が遅れたからよ」

 文句を垂れながら、名残惜しそうに廊下へ出る梓。男子の垂れ下がった目尻と、反対に女子の非難轟々なつり目。思春期渦巻く一組の教室を、順平も慌てて後にした。


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