漁夫の利⑤


 あの出来事から一週間が経ち、順平と梓は授業を受けるために理科室を訪れていた。

 激震が走った一組は、未だにその余波から立ち直れずにいる。情勢はこじれに拗れ、女子は香川先生を徹底的に無視。帰りの会をボイコットしようとして、隣の二組の先生に制止される事態に。

 「学級閉鎖なら小学生の時にも見たけど、まさか中学校で学級崩壊を拝めるとはなぁ」

 「手に負えないのは半分なんだから、学級崩壊じゃなくて学級半壊よ」

 向かいの席で欠伸を漏らす梓の言葉通り、敵対しているのは手のひらを返した女子生徒だけで、反対に男子生徒は奇妙な仲間意識を芽生えさせ、以前よりも距離が縮まったくらいだという。

 反発する女子と擁護する男子。そうこうするうちに今度は男子と女子が生徒同士で揉め始めた。給食の時間には机を寄せず、全員が黒板の方を向いたまま黙々と食べているらしい。そうなると普段から一緒の教室で給食を食べている香川先生は、向かい合わせでまさに針のむしろ状態。「香川先生まで黒板の方を向いて食べてたわよ」と梓はゲラゲラ笑っていたが、それだけ肩身の狭い思いをしているという事なのだろう。

 一冊のエロ本を巡って、真っ二つに分断されたクラス。剛腕で知られる学年主任でさえも、怒り狂う思春期女子は手に負えず、このままでは近く親たちの耳に入る可能性が高い。

 ちなみに風の噂によれば、あの一件以来、一組女子の間で『先生の車をチェックする係』なるものが非公式に新設されたそうだ。当番制で、窓から車内を覗く活動を続けているらしいが、今のところ成果を挙げるには至っていない。

 「香川先生、遅いわね」梓は準備室に繋がる扉に目をやりながら言う。授業開始を告げるチャイムが鳴ってから、すでに五分以上が経過しており、しかし肝心の香川先生の姿はどこにもない。

 「ごめんごめん、つい話し込んじゃって。すぐに授業を始めるね」

 そこからさらに三分ほどして現れた香川先生は、どこからか走って来たらしく、軽く息を切らしていた。

 「今日は前回の続きの実験からするので、プリントと筆記用具以外はしまってね。両側の窓に近い人は開けてください」

 そう指示を出し、自らも窓の方へ駆け寄ろうとした香川先生は、見事と言うほかないくらい綺麗に教壇の段差につまずいた。手に持っていた器具もろとも豪快にすっ転ぶ。

 幸い、まだ薬品は入っていなかったが、理科室の床に割れたガラスの破片が散乱した。

 「動かないで。危ないから」

 地面に頭から突っ込んだはずの香川先生が何事もなかったかのように起き上がり、傍の生徒に注意を促す。「大丈夫、大丈夫だから」と周りの心配する声に応えるような、あるいは自分自身に言い聞かせるような言葉を繰り返した。

 順平は急に居たたまれない気持ちで一杯になる。「まるでボロ雑巾だ」

 目の下にくっきりと浮かんだクマとこけた頬。かつて女子人気ナンバーワンと持て囃された男は、今や立っているのがやっとの状態で、背中から軽く突き飛ばせば、転んだままもう二度と立ち上がってこない気がした。

 「憂鬱ね」梓は心底ウンザリというような声を出す。

 「同感。あれじゃ、あまりにも気の毒だ」

 「違う」

 「違う?」

 順平の顔をじっと睨みつけた梓が、億劫そうに頬杖をつく。「香川先生なんてどうでもいいの。私がうれいてるのは、来週のテストよ」

 「お前、この状況でよくそんな酷い事が言えるな。実は、血も涙もないサイボーグか?」

 「失礼ね。学生なんだからテストの点数の方が大事に決まってるでしょ。生徒に総スカン食らったくらいでメソメソしてる教師なんて知らないわよ」

 「それを言うなら、半スカンな」順平は誤りを訂正した後、意外そうな顔をする。「そんなことより、テストの点数なんて気にしてたのか」

 「何よ、悪い?」

 「悪くはないが、その理由が分からない。急にどうしたんだ」

 「うるさいわね。私にだって色々と事情があるのよ。その、親とか色々」

 「別に赤点を何個取ろうが、おじさんは怒ったりしないだろ」

 「それは、……その通りだけど」不貞腐れるように唇を突き出した梓が、次の瞬間にはパッと顔を輝かせる。「そうだ。またテスト勉強に付き合いなさいよ」

 それに対し順平は、何も答えずに視線を逸らした。「何なの。何が不満なわけ?」むくれる梓を無視し、箒とチリトリを手に割れたガラスを処理する理科教師をぼんやり眺める。

 そもそも四宮梓は勉強が不得意なわけではない。小学生の頃は全ての教科で満点を並べていたし、前回なぜかうちの母親に頼まれて勉強を見てやった時には、一週間足らずの試験勉強で平均点を軽く上回って見せた。

 要するに、やれば出来る奴だ。そして、やれば出来るのに、やらないだけの奴だ。

 その事を直接本人に伝えてみても、結果は見ての通り。九回裏ツーアウト、走者なし。宝の持ち腐れもいいところだ。

 故に順平は、梓に明確な心境の変化が見られるまでは、その手の頼み事を引き受けないと心に決めた。これは意地悪でもなければひがみでもない。本人の怠慢が招いたむくいであり、それをきちんと受け止めなければ、将来的に梓自身が困る事になると判断したからだ。そりゃあ観客だって、空の塁上よりも逆転の走者で埋まった塁上を見せられた方が応援に熱が入るってもんだ。

 「私、貝になりたい」取り付く島もないと見るや、どこぞの映画タイトルのような現実逃避を始める梓。「学校もテストもないなんて、海の底って楽園ね」

 「貝の苦労も知らずに何言ってんだか」

 「はぁ? なら、あんたは貝の苦労が分かるって言うの?」

 「いいや」

 「ほら、見なさい。あんただって分からないくせに、ゴチャゴチャ言わないでよね」

 「でも梓は貝にはなれない。その決定的な理由がある」順平は指先でペンを回しながら、以前に読んだ本の内容を思い出す。「『貝は、体の外に吐き出せなくなった異物を核として、長い月日をかけて真珠を作ります。それは異物から自身の体を守るための防衛本能であり、真珠の主成分はカルシウムです』」

 「それのどこが決定的な理由?」

 「もう一度言うぞ。『真珠の主成分はカルシウムです』」

 「……つまり、私は牛乳が嫌いだから、貝にはなれないなんて言い出すんじゃないでしょうね」

 「その通り」

 「呆れた。そもそも、貝は牛乳飲まないじゃない」梓はジトっとした目で順平を睨みつける。「ただの屁理屈よ」

 「そうだ、屁理屈だ。けど、考えてもみろ。貝から真珠が取れるのは、身の危険を感じた貝が、それに懸命に対処したからだ。一方で、日々の勉強すらまともに頑張れない梓では、貝になれたとしても、あっけなく死んじゃうんじゃないかな」

 思わぬ方向から学習態度の不真面目さを指摘された梓が、頭に血を登らせて反論する。「いーや、ただの詭弁きべんね。そう言うあんたこそ、納豆食べられないじゃない」

 「納豆は仕方ないよ。だって、腐ってんだもん。道に落ちてる物と腐った物は食べるなって、母さんにきつく言われてるんだ」

 投げつけられた裸の消しゴムが、順平の頬に一瞬くっついた後、落ちて床に転がる。消しゴムを拾い上げようと腰を折った梓は、机から顔の上半分だけが覗くようにして言った。「開いてる」

 「はい?」声が小さく、よく聞こえなかった。順平は手のひらでお椀の形を作り、耳の後ろにくっつけて聞き返す。

 「開いてるってば」

 「何が開いてるって?」

 「チャックが開いてんのよ、このハゲ!」拾い上げられたばかりの消しゴムが、再び顔面めがけて剛速球で飛んでくる。

 どうやら休憩時間に用を足した後、うっかりズボンのファスナーを閉め忘れたらしい。存外そそっかしい所のある順平にとって、ままある事ではあるのだが。つい先刻、説教染みた注意をかました手前、すんなりと過ちを認めるのも格好悪い気がするし、何より梓にミスを指摘されるというのが本当にしゃくである。

 だから順平は自信満々のキメ顔で、こう言ってやる事にした。

 「開けてんのよ」

 先生、窓は開けておきました。


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