第6話 Tail

 触れた赤レンガの壁が崩れる――ぽろぽろと手に着いた粉を拭うそんな場所。

 思い出の中でもきっとそう――。

 まるで忘れられた坑道のようなその場所に母は何時もいた。体が弱いのか、精神的なストレスなのか、物心ついた時には母は寝たきりの生活で、歩くことすらままならなかった。

 時折父親だと言う人が来て、私は追い出される。母は父が来ると何時も辛そうな顔をして、父はその表情を見るたびに母を責め立てているようだった。

 父は母を愛していたが、母は父を愛していなかった。

 父は私を愛していなかった。その冷たい目が私を拒絶していた。

 私には姉が二人いる。二人の姉は私に優しかった。二人の姉が遊んでくれたし、二人の姉のお母さんが私に何時も良くしてくれたので、部屋を追い出されても私が困ることはなかった。

 ただ……ただ――得体の知れない壁のようなものを常に感じてはいた。

 多分きっと、二人の姉は私にどう接すればいいのか微妙なストレスを感じていたし、姉二人の母も、私に対して筆舌し難い微妙な空気でストレスを感じていた。

 それは正室と側室の子と言う仕切りだけではなく、それ以外にも含む所があったのだと感じる。優しさの中の僅かな同情を感じ取っていたのかもしれない。


 母は……しばらくして亡くなった。

 自分の頭にレンガを振り下ろして自殺した。

 赤いレンガの部屋は、レンガが赤いから赤いのか母の血が赤いから赤いのか、滑るそれだけが血の赤とレンガの赤の境界線を教えてくれた。

 葬儀は行われなかった。母の遺体は父に滅多打ちにされ見るも無残な姿になっていた。父の怒りは収まらず吊るされて放置され、鳥の餌にされた。母が腐って腐臭を発し鳥に食べられていく姿をぼんやりと眺めていた。足にある傷、歪(いびつ)に歪(ゆが)んだ骨、母が出て行けなかった理由がそこにはあった。

 地面に転がる鳥の雛のような赤い物体が、母と繋がっていた。

 母には好きな人がいたらしい。ところが母に一目惚れした父が、相手を殺して母を監禁してしまったようだった。

 父は母が死に泣いてはいたが、はるかに怒りが大きかったようだ。父がどれだけ愛を囁こうと、どれだけ抱こうと、どれだけ快楽付けにしようと母は父の物にはならなかったようだ。

 どうしても手に入らないものがあった。父はそれが許せなかった。母の遺体はさらに辱められ、燃やされ灰にされると彫像に塗りこめられてしまった。

 父は私が自分の子なのかそれとも母が愛した人の子なのか、判断がつかないようだった。なにせ魔術が使えなかったからだ。

 だから父は私のことも憎んでいるようだった。

 そんな父を、正妻の人は冷ややかに見て笑っていた。

 それからしばらくして、私は厄介払いのように王城へ連れていかれた。問題児として有名になっていた第六王子の御付きとして離れで暮らすことになった。

 王に魔術を施され、言葉を失った。

 実際には遥か高見より見下ろされていて、私は顔を上げていないから王がどのような方なのか見ていない。私の命は吹けば飛ぶように軽かった。

 第六王子の評判が良くなかったので、殴られたり、裸で締め出されたりする事を覚悟していたけれど、そんなことはなかった。

 第六王子は甘えん坊だった。

 良く抱き着いてきた。問題児と言う割には問題児ではなかった。王子は寂しいのかもしれない。父にも愛されず、母にも愛されず、私と一緒だ。

 胸に吸い付いてきて寂しいのねと。愛おしいとほんのりとした。赤ちゃんみたい。いいよ。いっぱい吸っていいよ。

 父とは違う。私を見る王子の目は好奇に溢れていた。

 何より、私に対して無邪気で無警戒だった。そんな事より私と触れ合いたいようだった。最初は戸惑ったけれど、私に拒否権は無い。王子を受け入れているうちにそれが普通になっていった。胸に触れて、王子が私を伺ってくる。体に触れて、王子が私を伺ってくる。後ろから抱き着いてきて、反応を確認してくる。

 怒らないとわかると嬉しそうに微笑んだ。

 今抱き着いてはいけませんと手で制すると、ムキになって抱き着いて来て可愛かった。

 王子は私に許されたい。拒否されたくない。受け入れてほしいと言っているように感じた。拒否をしないと王子は嬉しそうだった。自らを差し出すと王子は嬉しそうだった。

 あちこちに触れ這わせた。

 王子が望むことは受け入れた。舐められるのにも不思議と抵抗はなかった。そんな汚い所を王子に舐めさせるなんて、なんて不敬なのだろうと考えたけれど、けれど王子が望むなら受け入れた。良くスカートの中へ顔を突っ込んできて、股間に貼り付かれた。甘える王子が可愛くて、スカート越しに頭を撫でた。王子はきっと人肌恋しいのだ。

 家事や洗濯、炊事の手伝いをしてくれた。王族が絶対に行わないことを行うので、これで問題児なのだと察した。

 私の体まで洗ってくれた。

 王子は男の子で、私は女の子だ。王子は女の子に興味があるのだと察した。同時に、私も男の子には興味があった。

 私で良ければどうぞ。吹けば飛ぶような命だ。私に興味がある。王子が私に興味があると考えると、不思議と瞳孔が開くような感覚に囚われた。

 王子は私が笑うと喜んだ。私が気持ち良さそうにすると喜んだ。

 王子は私の笑顔が好きだった。それが何とも不思議だった。

 じんわりとする感覚。

 なぜ王子が嫌いじゃないのだろう。

 王子は魔術を使えないと言う話だけれど、普通に使用していて驚いた。それどころか、私に魔術を与えてくれた。王子は自分がどれほど偉大な事をしているのか、気づいていないようだった。誰かに言いたいとは考えていない。

 ざらざらと肌の表面を這う。削られるようなその感触。

 街中に買い物に行っている間、王子に何を食べてほしいか考えると微笑んでいる私がいた。

 王子は口にだけはキスをしなかった。その唇を眺めていた。

 唇の陰影に白い歯と覗く赤舌。その歯が肌を柔らかく噛む感触と感覚に脳裏が痺れる。

 王子のそれに這わせたい。回すように散らすように這わせたい。

 王子は口への接触を拒否した。拒否された事に対して内側から湧き上がる刹那の衝動。王子の手を抑えていた。抑えきらない衝動で決壊する。

 顔を背けて小刻みに震え、拒否する王子に心臓が痙攣するかのような錯覚を覚える。鼻で呼吸できない。口を開けて涎が垂れるのも構わず喉で息をしていた。

 抑えられなかった。この世にこんな気持ちいいことがあるなんて。なぞりなぞられるラインは、肌よりもこそばゆく指先よりも繊細だった。

 悶えるように狂おしい。

 混ざり合う水分を飲み込んで、飲んでも飲んでも物足りない。より密度を高めたい。より濃度を高めたい。より密接したい。指の先から足の先まですべてを密着させたい。王子が私を求める理由がよくわかる。這わせる理由が良くわかる。

 拒否されてムキになる王子の気持ちが良く理解できる。

 ダメ。拒否しちゃだめ。ダメなの。


 今まで、ごめんなさい。

 王子も、こうして欲しかったのですよね。

 目に焼き付く王子の形、より繊細な感覚ほど良かった。指よりは唇、唇よりは舌。慣れた匂いも場所によって異なり、鼓動、息遣い、臓器、喉、漏れる声に酔うようにゆらゆらゆらゆら。ピタリと張り付けて。胸の内側から全身へ駆け巡る得体の知れない波が心までもを痙攣させる。

 王子。王子。私を求める王子。その存在が、私にとって何よりも心を侵す。


 ある日、護衛の騎士に街中で手を握られ身を寄せられた。ひどく、血の気が引いた。周りの女性達は騎士をかっこいいと言うけれど、こういう人をかっこいいと言うのねと、そんな感想を浮かべていた。

 身を寄せられるのが嫌だった。手を握られるのも嫌だった。王子に舐めて頂いたところに、騎士が触れるのが嫌だった。

「君が好きだ。付き合って欲しい」

 好きだ。付き合って欲しい。その言葉の意味を理解できずに何度も反芻する。

 好きは少なくとも嫌いでは無いと言う事。嫌われていないのは良い事。付き合うと言うのの意味が察せられない。付き合うとはなんなのか。何処に付き合うのか。何をするのか。

 私は王子の御付きなので貴方に付き合うのは不可能です。

 嬉しいですが、それは不可能ですと首を振ると強引に引き寄せられ、近づく顔が嫌で手で押さえてしまった。騎士の唇が手に触れて激しい拒否感に襲われた。見知らぬ匂いを拒絶していた。気づくと騎士の頬を叩いていた。

 怖くなって逃げだした。付き合うとはどういうことなのか。好きと言われてもどうすればいいのか。

 騎士が、父と重なり怖かった。

 父が、母に迫る態度によく似ていた。

 水で何度も手を洗った。洗っても洗ってもあの騎士の感触が残っていて嫌だった。草でごしごしと擦った。水たまりに手を突っ込んで砂利で擦った。やっと薄れた感覚に王子に今すぐに会いたかった。王子の傍へ行きたかった。王子の姿が視界に入ると溢れて抑えられなかった。王子の背中に手を回して力の限りを込めた。握った服、手の平を何度も擦りつけた。耳元で脳を揺さぶるその声色。その手で唇に触れて欲しかった。同時に騎士の唇が触れた手が王子の唇に触れるのが堪らなく嫌だった。


 騎士を王子が退けてくれた。

 だけれど、もう片方の騎士からは注意を受けた。

 同時に女性騎士の視線が、王子の足先から顔までを撫でるように走るのがわかった。気持ちがわかる。王子の形に目を奪われる気持ちはよくわかる。

 膝枕……。ベッドに座るその姿に、男性騎士の事を忘れていた。

 モモに埋もれていい。櫛を通すより大雑把なのに地肌に触れるほどに安らぎを覚える。

 王子が男性騎士に対して嫉妬していると聞いた。なんだろう。心が跳ねるように嬉しかった。同時に、女性騎士の視線が脳裏を過り、王子を隠してしまいたくなった。

 王子も傷ついていたのと疑問を浮かべて表情を見る。

 私が騎士と仲良くして傷ついて嫉妬していた。そう考えるだけで妙な高揚感に襲われた。何も言葉はいらない。王子が私の下で眠りについた後、王子が女性騎士と仲良く買い物に行く姿を何気なく想像し、喉がひりひりするような痛みに囚われた。嫌、仲良くしないで、そんなの嫌、予想以上の拒絶に悶えた。

 私は王子にこんな気持ちを与えていた。そう考えて涙が零れた。

 ごめんなさい王子。もう二度とこんな痛みは与えないと強く心に誓った。

 眠る王子に寄り添った。王子。王子。王子。王子を求めてやまなかった。王子の体に体を擦りつけ、満たされるような痙攣の後に眠りにおちた。


 それからしばらくして私は考えた。

 王子は私に唇を寄せるのが好き。這わせるのが好き。私は王子に唇を寄せられるのが好き。ざらざらと撫でられるのが好き。じゃあ逆に王子も私に唇を寄せられるのが好き、ざらざらと撫でられるのが好きなはずだ。

 王子は激しく抵抗した。

 前に嫁入り前の口へのキスはダメだと言っていた。つまりキスをするのは夫婦。王子がダメと言うのは夫婦に関する事。夫婦とは愛し合う二人のこと。番の事。

 王子と夫婦。王子と夫婦。王子と夫婦。顔は笑んでいた。

 体が跳ねあがった。理性を失いそうな顔。

 その様子、一枚の絵のように魅力的だった。

 王子をもっと知りたい。王子に求められたい。

 匂いの異なる液体でいっぱいいっぱい。何処もかしこもいっぱいいっぱい。

 自分が正常なのかすら判断に危うく、蕩けるほどにまみれていた。

 視線は私の理性を破壊し、そのラインは私を魅了してやまなかった。

 一言で言えば、多分、そそるってことなのだと――。

 それがとても好ましく、私をもっと壊して欲しかった。


 王子は不思議な魔術を使う。私の知らない魔術を使う。魔術の本にない魔術を使う。街に買い物に行き、私は自分の私財を全て投じて魔術を覚えた。

 そのどの魔術書にも王子が使えるようにしてくれた魔術は存在しなかった。そのどれもが殺傷能力と利便能力に優れていた。

 王子が私の姿をした女性を魔術で作った。私は刹那、内側から滲み出るような炎に揺られていた。魔術で作られた女性が自分だと気付いても、女性を模した魔術に対してどうかしていると自分でもわかるのに。でもなぜだか今すぐにでもこの魔術を壊したい衝動に駆られてしまった。王子は私にその魔術をくれた。私のものになってもその魔術が嫌いだった。

 魔術を王子から遠ざけた。その目でその女を見ないで。こんな気持ちが自分に存在するなんてと戸惑ってしまった。わかっているのに、他の女性にその視線を向けられるのが嫌だった。おかしくなりそう。

 王子と遊んだ。魔術を使って遊んだ。殺傷能力の高い魔術でお互いを慈しみながら遊んでいる。その事実に私の心は満たされていた。王子になら傷つけられてもかまわない。その優しさで傷けられたい。痕が残るように傷つけられたい。


 王子の【ドッペル】を見た。自分がぐにゃりと曲がるような感覚を覚えた。王子にそっくりなのに……。王子にそっくりなのが許せなかった。王子はここにいる一人だけ。一人だけなの。そう心が叫んで仕方なかった。だから王子にお願いして王子の【ドッペル】も譲り受けた。

 王子がこの魔術を使うのが許せない。許せなかった。

 王子は貴方だけ。

 水魔術でびしょ濡れになった服を絞る。王子が私を見て目線を反らしていた。いつも見ている私から照れるように恥ずかしそうに目を反らしていて、私の足を撫でる視線に気がついた。

 王子の手を寄せると嬉しそうで可愛かった。内側からあふれ出る温かで蕩けるようなもどかしさと荒れ狂うように溢れる相反するような二つの気持ちが、微睡みのように狭間でゆらゆら混ざり合い、私の中で蠢いていた。

 その視線も温もりも肌触りも向けてほしかった。

 手でゆっくりとたくし上げていくほどに、甘菓子を焦がすような匂いがした。


 ある日、使いが来て王城へ呼ばれた。

 王城へ行くのは嫌だった。王子を籠の中に閉じ込めておきたかった。でもそうはいかない。嫌な予感がした。

 王城へ着くと二人の姉にあった。懐かしい姉。優しい姉。成長した姉。美しい姉。姉が王子と話していても何も感じない。王子の向ける視線が私を見ている視線と異なるからだ気が付いた。

 二人の姉と話した。王子は挨拶に行くと別れた。王子の邪魔をしてはいけない。王子が、私を厄介ごとから遠ざける時の仕草をしていて嬉しかった。でも心の甘菓子は王子と離れたくないと暴れている。それを宥めるのまでも心地よかった。

 姉二人と昔に戻って踊った。

 ドレスを着せてもらった。

 二人が可愛いと、美人だと言ってくれた。

 王子に見て欲しい。王子は私を見て、どんな反応をするのかしら。

 可愛いと、美人だと言ってくれるかしら。

 王子の反応は可愛らしくて胸が張り裂けそうだった。もっと好きになって、もっと夢中になってと迫った。

 王子が小さい頃に暮らしていた部屋からは王子のニオイがしなかった。

 前々から考えてはいたけれど、王子と私の体の作りは違う。男女の違い。どうして男女で違うのだろう。

 王子はダメだと言った。

 あっこれ、夫婦の奴だと私はほくそ笑んでいた。

 王子は私の事を一番に考えてくれる。嫁入り前でお口にキスはダメ。多分、王子は私がこの先、誰かのお嫁さんになった時を心配しているのだと感じた。

 私は王子以外と番になる。

 王子は私以外と番になる。

 言葉にならない。内で揺らめいているこの炎が王子を焼いてしまえばいいのに。

 王子はダメと言った。でも、二人の気持ちいいところ合わせたら、二人とも気持ちいいのではとずっと考えていた。

 王子はダメと言いつつ、それを望んでいるようだった。腰が浮いて入り込もうとしていた。私と王子の形は違う。私には中があり、王子には外がある。

 唸る姿が可愛い。葛藤している姿が可愛い。大丈夫だよ。

 嬉しかった。一気に――。

 背骨を突き抜けるような――。

 硬直。顔を隠そうとする王子のうめき声とうねり。

 抗えないほどの痛みで動けないのを無理やり動かして。もっと顔を見せてほしかった。腕を無理やり顔からどかせると、半開きの口と強く閉じた目、垂れる涎にも抗えないその様子に悶えお腹がうねりあがる。

 まるで境界を破壊するみたいに――。

 包み込んだ顔。ひくひくと鳴る鼻。

 あぁ……はぁ……。

 口を開けて息をしていた。自分の呼吸音が耳に良く響いていた。口じゃなきゃ呼吸できない。足を滑り落ちていくぬめり。猫になってしまいそう。


 鐘の音。広場に向かうのは苦痛だけれど、王子の立場を考えれば外すわけにもいかないの。


 私はどうやら殿下に気に入られたらしい。

 私の、何を気に入ったのだろう。私は殿下に相応しい女性ではないのに。

 殿下に差し出された手に戸惑った。側室というその言葉が壁に弾かれるように何処かへ飛んで行った。嫌です殿下。

 殿下はとても素晴らしい男性です。その魅了の魔術で触れなくとも、みなは貴方を好きになるでしょう。ですが殿下、どうかどうか、私だけは許してください殿下。

 女性は皆恍惚の表情で殿下を見つめる。その容姿もそのご尊顔も、知性溢れるご様子も、さぞ魅力的なのでしょう。ですが、殿下、どうかどうか、私だけはお許しください殿下。

 誘いを断ることは決してできない。殿下となればなおさらで、王子の普段の顔の奥底に、それは嫌だと言っているのが見えていた。それと共に、長い年月が王子と私の間に降り積もっているのも感じる。それはゆるぎなかった。

【ドッペル】を纏って殿下の手を取るしかない。


 殿下の誘いは本当に鬱陶しかった。

 殿下の誘いを無下にすれば、王子が困ってしまう。なんて面倒くさいのだろう。私の嫌いな【ドッペル】に殿下の相手をさせた。【王家の楔】で王子に声を触れさせられないのが嫌だったけれど、【ドッペル】で殿下の相手をするのには便利だ。

 殿下が如何に素晴らしいか、殿下に愛されることが、好かれることがどんなに素晴らしいかと周りの人間が呟く。殿下は私に対して甘い蜜のように優しさと好意を振りまいた。

 その目。その瞳。流れる髪。視線と肩と鎖骨。目の中へ入って来る好ましいと言う情報。

 筋肉質な体つき。太い腕。袖から覗く二の腕と見下ろす眼差し。

 あの腕に包まれたら――そんな殿下に好かれるなんて羨ましいと言われた。

 心の底からどうでも良かった。

 なぜどうでも良いと感じるのだろう。

 殿下と離れて王子に会うと、王子は申し訳なさそうな顔をしていた。私の心が離れるかもしれないと、それも仕方ない、でもそれでも取られたくない……とそんな顔をしていた。何時も一緒にいたから、王子の気持ちが手に取るようにわかる。

 殿下と王子ではあらゆる条件で殿下の方が勝るのでしょうね。

 でも金も権力も周りの評判もそんなものは私にとってはどうでも良かった。

 王子の心を求めている事に気が付いた。

 王子の心が私に向いていることを望んでいる。

 私の心が王子を求めている。

 五感だけじゃない。

 殿下と【ドッペル】が一緒にいる時、王子はリョカと言う公爵令嬢と一緒にいた。あの二人は仲睦まじく、昔から仲が良かったと聞かされた。昔からと言う割には、離れにいた時は一度も会いにこなかったね。

 周りの人間は王子が兄と比べてどれだけ劣っているのかを言う。魔術が使えない。体格がなよなよしてまるで女の子みたいだと。教育を受けていないから貴方も大変だったでしょうと言われた。

 リョカを見ていて【ドッペル】ほど嫌いじゃないと笑んだ。仲が良さそうに見えるのは上辺だけ。王子が私と一緒にいる時は、もっと動揺していて可愛い。王子がリラックスしている時は、もっと優しい目をしている。時折優しい目でリョカを見ている時があり、リョカの向こうに私の事を考えているのだとすぐにわかった。

 だって部屋に帰って来た王子が、私を見つけた時の表情と一緒なのだもの。

 ベッドの中で目を覚ましたあの時の、あの温もりが離れがたい。

 あの視線で見つめられると目を閉じそうになってしまう。

 王子の声が脳の中で何度も反芻する。甘い声、驚いた声、ふざけた声、耳元で囁かれれば、身動きすら取れなくなる。

 王子の腕の中にいたい。


 殿下は私を側室にしたいらしい。私は殿下を愛しておりませんとはっきり言いたかったけれど、王子の手前我慢した。殿下と結婚するのは至上の幸福。受ける以外は不敬で死罪。隣に座るか聞かれた時はなぜ貴方の隣に座らなければならないのか疑問だった。殿下を見ても何とも思わない。他の女性と私は感性が違うようだ。

 王子の目元。まつ毛。口元。手の形。お腹のライン。脇の形。顎のライン。もみあげ。耳タブ。貴方の指を咥える白昼夢を見る。

 積もり積もった貴方を糧に実っていく。それはきっと甘くて甘くてほろ苦い。

 滴り流れる一滴が、足へとぽたり。

 思い出の一枚一枚を織り上げて作り上げたあつあつの果物パイをグチャグチャにするみたいに。いっぱいの苦いクリームで彩られるそれを、舐めとり啜り、満たされているはずなのに、もっともっとと蠢いて。そっと触れて来る手に悶えて目を覚まし、合わせた視線になめとられ失い、また甘い吐息と温もりで目を覚ます。

 温かく満たされたお腹を撫で、伸ばした手で握る貴方の手。私を見るその眼差し。

 上になればもっと――撫でられる感触と体温に満たされる。

 初めて作った野イチゴジャムの、最初の一口。

 口についたそれを、拭って舐めとるかのように。

 ずっと、こうしていられたらいいのに。


 父からの手紙を王子から受け取った。

 王子と離れる準備をするように書いてあった。

 一緒に自領へ帰る旨が命令形で記載されていた。

 あの時の、私を見る父の目。私は、母ではないのに。


 父の使用人から手紙を受け取った。

 夕食への招待状。

 王子が招待状に何かを書いて差し出して来た。好きと書いてあった。王子は照れるように目を反らした。心臓の鼓動が早鐘のように高鳴る。あの父の手紙が、大好きなものに変わってしまっていたことに気が付いた。

 言わなくとも伝わる言葉なのに、その言葉を紡いでくれる行為自体に、芳しい王子の匂いに酔いしれる。王子の気持ちに私の気持ちを混ぜ合わせる。形にすると唇が震えた。

 受けとった王子の嬉しそうな顔。

 王子が嬉しく感じていることに蕩けてしまいそう。

 貴方のその笑顔は私のもの。

 それが欲しいと手を伸ばすのに、王子は意地悪にもそれを遠ざけて。


 せっかく良い気分だったのに――。

 ――食事の席で父が王子を責め立てた。

 頭から血を流して倒れた母の顔は、疲弊と絶望でいっぱいだった。

 父は母を最愛の女性だと言うけれど、母にとって貴方は最愛の人じゃない。

 母は私を産んだことを最後まで後悔していた。生きながらえるのではなかったと言っていた。私も、母には、愛されていなかったのかもしれない。

 おそらく、多分、母は私を自分の好きな人の子供だと、最後の砦にしていたのだ。でも私がそうではないと気付いて絶望した。落ちた雛鳥に絶望した。

 父は母とは違うようだけれど……その目、その目で私を見る父が可笑しくて仕方がない。

 母じゃないもの。

 父にも母にも愛されてはいなかった。本当に自分の子かと猜疑心を持った父と、本当にあの人の子かと猜疑心を持った母。

 最後に墓参りをしなさいと言われた。

 母を見る目で私を見る父が滑稽で仕方なかった。私は娘でもないらしい。

 それから数日、王子が死んだ事を告げられた。

 実感がなかった。

 殿下に対する反逆の罪でリョカに断罪されたと言われた。

 私は城へ連れ戻された。

 これ見よがしに王子の腕を見せられた。

 それは確かに王子の腕だった。

 心の中が急速に冷え込んでいくのを感じた。墓すら作られなかった。腕は城下に晒され、最悪の犯罪者として王族の歴史に名を刻んだ。離れから反逆の証拠が出たと――そんなわけはないのに。

 父は既に亡くなっている。

 謀反が失敗した事により絶望し自害したものと処理された。

 笑っちゃった。違うの。だって父ってば……だから。

 そして私に拒否権などなく、謀反の関係者として部屋を与えられ見張り付きで幽閉された。幽閉されたその日に殿下は私の部屋を訪れて、乱暴に私の【ドッペル】を抱いた。

 その時はね。王子が死んだのを聞かされて、一週間も経っていなかったのよ。

 優しく声をかけたが反応がなく失意を装った私の【ドッペル】に業を煮やして乱雑に犯していた。


 このまま命を絶ってしまおうか――。


 すべてがシナリオ通りだった。

 殿下は陛下にミューレス公爵令嬢を差し出し、王妃に第三寵姫を差し出した。

 ミューレス公爵令嬢は陛下の愛人だった。病弱なんて全くの嘘。第十二王女はミューレス公爵令嬢のお子だった。

 第三寵姫は陛下の愛を失い、寵姫という立場は保たれたものの幽閉された。

 王子を謀反に唆した張本人として差し出されたの。

 数日後、王子の罪は払拭され冤罪だったと説明された。じゃあ誰が王子を誅した責任を取るのかと言う話。その責任を取らされたのは寵姫だった。

 第三寵姫が殿下の地位を確実とするために、憂いを断つために王子を謀反人に仕立て上げた事になった。第三寵姫は失墜し、その側近一同が粛清された。隣国の人達が国政に携わるのはおかしいものね。

 可笑しいの。

 だって殿下が弟に対してなんてことをしてしまったのだと、その責で第三寵姫を責めるの。涙ながらに王が寵姫を責めるの。絶望した寵姫の顔。全てを呪う寵姫の顔。

 こうして陛下はミューレス公爵令嬢を、殿下は私を、リョカは王妃の座を、そして王妃とミューレス公爵令嬢は王家の正常化を手に入れた。

 真実の愛に気づいたって陛下が言うの。

 王妃はもう陛下に期待などしていなかった。

 ごめんなさいと言われた。国のためだと。

 冤罪を受けたカインツロウ侯爵家は王家より手厚い保護を受けることになった。

 ミューレス・ド・ベアトリーチェ・アルシエノト公爵令嬢。

 アルシエノトは最初の王に仕えたグランデューク。

 リョカは殿下の新たな婚約者となり、王妃候補に躍り出た。

 何もかもがうまく回りすぎていて吐き気がした。


 冤罪が晴れると私は王家に嫁がされた。望んでいないの。それが貴方にとって最善でしょうって王妃が言うのよ。第一王女の哀れみの目。手を振って去る王女を見送った。

 使用人たちが、如何に私が幸せか、如何に殿下が貴方を寵愛しているかを熱弁し、殴ってやめさせた。無表情の私に悲鳴を上げ、申し訳ありませんと頭を下げるのを見ていた。

 毎晩私を犯しに来る殿下を見て、母が自殺した理由を知った。

 毎晩好きでもない男が自分を犯しに来るの。母もきっと気が狂いそうだった。

 殿下は私の【ドッペル】を物のように扱い、無下にするほど夢中になった。

 腐敗していく彼の腕を、遠くから見ていることしかできなかった。

 それからしばらくして、私はどうやら子供を身籠っていたようだった。子供なんて作ったつもりはない。そう考え、王子と睦むことが子作りだったのだと気付いた。あれが子作りだったのねと気が付いた。王子が嫁入り前にと言った意味がようやくわかり、私は声もないのに大声で笑ってしまった。

 殿下は大喜びで、心の底から面白かった。貴方の子供ではないのよ。

 そんな私をリョカは面白くなさそうに遠くから見ていた。

 この先やがて生まれてくる子は取り上げられて、王妃となるリョカの手で育てられる。男児であれば、次期王位継承者として。

 私は子供に未練が全くなかった。

 父と母が私に興味がなかったように、私もどうやら子供に興味が無いらしい。

 子供がお腹にいる間でも、殿下が私を抱きに来て気持ち悪かった。【ドッペル】で再現するのは難しいのに。やがて医者に止められて、やっと平穏を得た。大きくなっていくお腹と、お腹の肉が裂けて跡が出来た。

 王妃がやってきて、私をひたすら窘める。王族に嫁いでしまったからには全てを諦めなければいけない。全てを受け入れなければいけないと、私にひたすら言い聞かせてきた。

 自分は寵姫の子を受け入れなかったから、このようになったのだと後悔しているようだった。ひたすらにどうでも良かった。

 机の上の花瓶で殴ったら、さぞすっきりするのに。

 やがて生まれて来た子供は男の子だった。野生動物みたいだと残酷な感想を浮かべてしまった。よくやったと殿下が抱き上げて連れていかれ、すぐにリョカの元へ届けられた。

 そして産後間もないと言うのにまた殿下がやって来て、私の【ドッペル】を抱く日々が始まった。体調を崩したと療養を頂いたけれど、二カ月で連れ戻され、体調を崩すのと殿下の相手をするのとで、私の日々は埋まっていった。

 もう子供を産む気などさらさらなく、殿下を受け入れる気もさらさらなかった。

 殿下は媚薬などを私の料理に混入していたようだけれど、解毒魔術が使える私には意味がなかったし、そもそも殿下の相手をしているのは私の大嫌いな私の【ドッペル】だった。

 なんで生きているのかって。

 もう未練はないんじゃないかって。

 私もそう思うの。でも……もしかしたら王子はまた生まれ変わって現れるかもしれない。

 ここで終わったら、もしかしたらもうあの人にはもう二度と会えないかもしれないと脳裏を過ると、命を絶つのを躊躇っていた。

 私を通り過ぎた圧倒的な痛みは、私の感情をアッと言う間に反転させて、あんなに愛していた王子が、今は憎くて仕方がなく、私にこのような痛みを与える王子が憎くて憎くて仕方がなかった。早く生まれ変わってね。そうしたら、貴方の人生を残りの私でめちゃくちゃにしてあげる。

 殿下にも最後に教えてあげたい。

 あの子は、貴方の子供じゃないのよって、最後に教えてあげたいの。

 王位を譲ってから言ってあげたい。優しく言ってあげたい。手を添えて言ってあげたい。聖母のように言ってあげたい。今際の際にも言ってあげたい。何度でも言ってあげたい。

 私はその日が来るのをひたすら待っている。

 クローゼットの中でひたすらその日を待っている。

 あの人の【ドッペル】を見ると何時も、これはどう見てもあの人じゃないという衝動で鈍器を振り下ろしてしまう。

 お墓が出来たの。でもね、あの人はいないの。今すぐにでもグチャグチャになるまで壊してやりたいのに――死骸に寄り添う夢を見る。

 言っていなかった言葉。貴方に言っていなかった言葉。

 口元、足の指、靴下、笑い声、体温、匂い、吐息。

 笑っちゃうの。

 だって愛も伝えられていない【まま】なのだもの。

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