第17話

 次の日、朝からお風呂――体を綺麗に、体毛などを整える。髪が長いと襟足などを自分で剃るのに苦労する。ラーナさんは産毛等を気にしていて、オレの顔色を窺っていたので肩の産毛を剃る前に舐めたり唇を付けてモゴモゴしたりしたら喜んでいた。自分では毛深いと考えているらしい。気にしていないと伝えたけれど、乙女心がわかっていないと返された。

 実際わかっていない。オレの考える女性像と実際の女性はやはり違う。男のオレには未来永劫理解できない女性だけの大切なものなのかもしれない。

 最強の女性とか恥ずかしい事を考えた。

 理想の体型など人それぞれで、それはオレが決める事ではない。

 小麦色は光を受けて淡く、うなじを流れ、流れる雫は曲線を描き、前面から直視するのも憚られる。剃り用のナイフを遠ざけて。

 触れていると酔っているような状態になってしまい、そっと背後からお腹に腕を通して抱き着いてしまった。抱き着いてしまっただなんて、子供っぽくて困る。でもそれを抑えられなかった。

「なぁに?」

 その問いにため息が漏れるほど酔っている。特に意味などない。特に意味なんてない。特に意味もなくこうしてくっついている。もっと密着したい。触れあえるだけ触れ合いたい。

「特に……意味なんてない」

 振り返えられると目を反らしてしまう。徐々に、埋められて、心臓の鼓動だけが耳元までせり上がって来る。包まれてしまう。全てが、無い物になってしまって困る。そんなわけはないのに。

 撫でられる手の上から、手を重ねて頬に当てて、夢でも見ているようだ。

「……どうしたの?」

「こうして触れさせてもらえることが、嬉しく……何度でも、抱きしめて、触れても構わないだろうかと」

 オレが、人殺しであることを、忘れそうになる。

「え? つまり、こうするってこと?」

 それを隠している事を、忘れそうに、なる。

 純粋無垢だなんて、なんて都合の良い妄想だろう。

「違うよ……」

「女はねぇ、好きな男を受け入れたいものなのよ」

「そうじゃなくて……ただ、傍にいて」

「傍にいられるだけで私は幸せにはならない。意外とロマンチストなのね」

「ロマンッちっちがうよ」

「貴方は私に埋もれてればいいの」

「ちょっと……」

「ふふふっ捕まえた」

「……おかしくなりそう」

「おかしくなればいい」


 落ち着いたらランプーシャンを使い髪を洗う。

 この世界の髪の色は独特だ。例えばラーナさんなら日の光りの下ではブロンドに、影の中では濃いブラウンになる。これはジョゼさんも同じで、明るい所では淡いブロンドに、影の中では黒色になる。これらは体毛にも影響する。

 お風呂場から出てのんびりしていたら部屋に連れていかれる。

 ラーナさんがポンポンと膝を叩き、頭を乗せるように誘導してくる。耳掃除してくれるみたいだ。終わったらラーナさんの耳も掃除する。起きたばかりなのに眠くてしょうがない。すぐ触れたくなる。すぐ抱き着きたくなる。背後からくっついて、まるで甘えているみたいだ。実際甘えている。酔ったように、ふらふらするのに気持ちいい。


 キッチンで朝食――日差しの傍ら、陰と風を感じて目が細まる。

 手慣れた朝食の準備と流れ、手際の良さにラーナさんを感じる。

「さぁ、食べて」

「いただきます」

「なにそれ」

「感謝しているの。作ってくれたラーナさんに」

 手を握らずにはいられない。頬に当てずにいられない。愛おしいと感じずにはいられない。貴方が大事なのだと奥底から湧き上がって来て仕方がない。

「これから、ずっと一緒にいられると思うと、嬉しい」

「……そう?」

「うん」

 明日も、明後日も、その次も、目覚めるとラーナさんが傍にいる。脳裏を過る映像に綻んでしまう。

「明日も、明後日も、ずっと、一緒だね……」

「マリア……貴方、私に、襲われたいの?」

「……なんて?」

「貴方、私に襲われたいの?」

「……なんで⁉」

「貴方が卑怯技を使うからでしょ‼」

「意味がわかりません‼」

「はぁーッ⁉ もう……なんなの? めちゃくちゃにされたいんでしょ⁉ いい度胸じゃない‼ いいわよ‼ かかってきなさいよ‼」

「ご飯ですけど‼」


 ご飯を食べているとラーナさんが猟兵に復帰するための装備を持ち出して来た。

 地面を引き擦り持ってきた大きなカバン。

 手には長い――取り除かれた布から黒い金属を用いて作られたと考えられる槍が姿を現す。傷とたわみより、硬度と柔軟性が察せられ見て取れるようだった。先端は十字状で細く、鋭く伸びた刃が鈍い光沢をチラつかせて瞼が瞬き困る。

 カンゾウと呼ばれている品種のキノコで作られたステーキを頬張るオレの目の前でラーナさんは装備に着替えていった。いや、目の前で着替えるのはどうなのだという話で、オレが飯食っている目の前なのにラーナさんは気にもしない様子だった。気にしてほしい……んだけど。いちいち顔が熱くなり困る。

 ニヤニヤしながら着替えるのはやめてほしい。

「貴方が仕掛けて来た勝負よ」

 なんの勝負だ。

 薄手のピッタリとラインに沿う灰色の皮鎧を身に纏い、同じく黒色の籠手、黒の少しダボついたズボン、環状の頭防具と……頭上からオデコにはめて頬と顎下までを保護しているようだった。

「少し胸がきつくなったかしら」

 さらにジャケットを羽織る。膝までのブーツを履いたら終わりらしい。

 少し酸味のあるキノコに顔をしかめ、口に咥えながら傍へ歩き、ブーツに触れる――ガワに金属が使われており硬い。ブーツ自体は皮で出来ているようだった。独特のニオイ。汗と革と血の入り混じったニオイがする。

 解析データを表示する。特に特殊な効果は見受けられない。

 強いて言うなら見た目では判別の難しい細かい傷が幾つかある。所々に劣化の痕跡も見られる。特に上着の背中、一点の隙間がある。

「これ、何ていう金属なの?」

「コクダンよ? 知らない?」

「知らない」

「コクビャクダン」

 この世界の金属の成り立ちを聞いた。

 この世界の金属は植物由来らしい。地中に埋まった植物が長い年月をかけて石化、金属化して生成されるようだった。

「コクビャクダンはね。硬いけど粘り気があるし、良くしなって安価なのよ」

「そうなんだ」

「リグナムやジンダイ、シタンの装備は高いしね。一点ものも多いし壊れると修理も難しいの。宝物はもっての他だし、気軽に使えるものじゃないわ」

「ふーん……」

 コクビャクダンのデータは取れた。これは収穫だ。

 金属の種類に関してラーナさんから少し聞いた。ラーナさんもそこまで詳しくはないと言っていたけれど、大体わかりやすく比較表示するとこんな感じだ。


 鉄→グラナディア。

 黒鉄→コクビャクダン。

 銅→アカガシ

 銀→チーク。

 金→レターウッド。

 チタン→ダガヤサン。

 ダングステン合金→ウルフラム。

 ミスリル→シタン。

 ダマスカス→コクダン。

 アダマンタイト→リグナム。

 ヒヒロイロカネ→ジンダイ。


 境会の管理するお金がチーク(銀)で出来ていると察せられる。

 この世界における金属は全て植物が変質したもので、リグナム等は斬り出すのも大変なのだそうだ。だからコクダン(ダマスカス)、リグナム(アダマンタイト)、ジンダイ(ヒヒロイロカネ)で出来た装備は一点物が多く、その由来故に一度壊れると直すのも難しいらしい。

 コクダンとコクビャクダンは全然違うじゃないかとラーナさんの発言を思い返し、どうやら頭装備だけにはコクダンが使われているのだと気付く。お守りなのかな。このコクダンの部分だけ、顔の部分にだけ、特殊な魔術の様相が見て取れた。サイズ調整の魔術だ。解析データよりこの術式をコピーしておく。いい物を手に入れた。

 浮き出るラインとこのニオイ。

「なぁに? どうかした?」

「その……」

「ん-? どうしたのかな?」

 最低なのはわかっていたが、装備で浮き彫りになったラーナさんの陰影はあまりにも扇情的で、さすがに断られるだろうかと……ラーナさんは何か察したのか笑んでいた。

 ニオイが、こんなニオイなのに、このニオイに、こんなニオイなのに、くさいって感じるのに、ラーナさんのニオイだと考えると引き寄せられてしまう。ニオイが好きなんじゃなくてラーナさんのニオイだと考えると引き寄せられてしまう。

 用を足すように作られた一部。露出させて。こちらを眺めて来る。

 目を反らしてそっと袖を掴んでしまった。

 めくられるスカートと少しだけ下げられるズボンに煮崩れしそう。

 直接触れるのはその一部だけでいいから……あとは見つめ合うだけ。


 ラーナさんが首からさげたタグは星六つだった。ラーナさんは本当に星六つの猟兵のようだ。

 肩にかけるタイプの鞄が飛んできて受けとめる。

「持って頂戴」

「あぁ」

 中身はタオルと干し肉、鍋、ナイフと、乾いたキノコ、木の筒だった。

 非常食……にしては美味しくなさそうなキノコだ。

「キノコなんて何に使うの? 出汁?」

「うふふっ、あんまり笑わせないでよもう。火種に使うのよ」

 戸締り、宿を出てギルドへ。雑貨屋の前は避けようかと考えたが、ラーナさんは気にしないと言った。前を歩くラーナさんのポニーテールが揺れている。足取りは軽やかで下腹あたりを良く撫でていた。スキップしているようにも見える。

 雑貨屋の前――ジョゼッタの視線に視線で返す。レーネさんが視野でこちらを注目しているのに気づく。しかしラーナさんはレーネさんを視野にも入れていない様子だった。

 建物へ入りギルドで依頼を受ける。受付でラーナさんがタグを提出すると眼鏡の顔色が変化していく。

「……ラーナ。何処かで聞いたことがあると思っていたが、ラーナオリガ‼ ラーナオリガか‼ オリガの魔槍がこんな辺鄙な村にいたなんて……」

「それ、昔の話しでしょ。もうオリガの一員でもないし、魔槍ってほど槍の扱いも上手じゃないわよ」

 視線が刹那オレに向いて、軽く握った拳で叩く。

「あいてっもうっなによっうふふっ」

「前向いて」

「オリガバーンズは健在だよ」

「あのババアは殺しても死なないでしょ。貴方、もしかしてダガーなの?」

「いや、俺は違う。俺の知り合いがダガーだ。復帰するなら猟兵団に伝えるがどうする?」

「猟兵に復帰するだけだからいいわ」

「あんたの旦那のジョゼって……一刺しのジョゼか」

 左下へ視線を向ける。心臓にクル言葉だ。動揺しているわけではないが、喉が少し乾く――体に回って来た手、強く寄せられて困る。気にしてないよ。そう言いたいけれど言葉が喉から出てこなかった。

 オリガと言うのはオリガ猟兵団の事らしい。猟兵団オリガに所属していると、苗字にオリガと名乗る決まりがあるのだそうだ

 ギルドに登録したものが複数で組むとパーティ、そこから大きくなるとクランなんて呼び方をする。猟兵団というのはまさしくクランを指している言葉のようだった。

「で、受けられる依頼はあるかしら?」

「あっあぁ……」

「ちなみにこの子と一緒ね」

 眼鏡に見られたので軽く手を挙げる。

「お前……運がいいな」

「そうだね」

「実はおあつらえ向きの依頼がある――近場にゴブリンオークの巣が発見された。星四つぐらいの依頼だができそうか?」

「ふむ。受けてもいい?」

 受付けではじょじょに後ろからラーナさんに抱えられていた。選択権を相談してくれるあたりにラーナさんの性格の良さを感じる。

「ラーナさんがそれでいいなら」

 そう答えるとラーナさんは嬉しそうにしていた。

 依頼を受けるサインをしたら眼鏡が地図を持ってきた。村周辺の大まかな地図だ。地形などが組み込まれていない平面図。おおよその位置を指さしておおよそここにゴブリンオークの集落が存在するだろうとざっくりと説明される。ざっくりしすぎていると言うか正確さが足りていない。

 ラーナさんはそんな説明でも始終楽しそうだった。わくわくしていると言ったらいいのか。

 ゴブリンオーク――オレが彷徨っていた間に相対していたオークの事だろうか。まぁあれならなんとかなりそうだとは考える。最悪負けそうになってもラーナさんだけ逃げてくれればそれでいい。

 ギルドを出て門へ向かう。

「……旦那って否定したほうがよかった?」

 立ち止まり、同じく止まったラーナさんがこちらを伺うように視線を下げてくる。両手を取り、頬に当てて上から握り込む。

「元ね。余所見しないならどっちでもいい」

「……中に入っとく?」

「……意味がわかりません」

 村を出る時、ジョゼさんに会った――ジョゼさんはラーナさんの装備を見ると驚いてはいた。顔色は悪く、少し酒臭かった。

「後で話さないか?」

 そう告げるジョゼさんにラーナさんは冷淡だった。

「もう話す事は何もないわ」

「急すぎるだろ」

「急も何もないでしょう?」

「ラーナ‼」

「さんをつけなさいな。ジョゼさん。依頼があるの。それじゃあね」

「待て‼ ラーナ‼」

 バッサリと話を切り、ラーナさんはオレを引きずって歩き出した。未練も何もない様子だった。もしかしたらオレに配慮してくれたのかもしれない。

 ラーナさんよりレーネさんを選んだのにジョゼさんは離婚を気にしているようだった。レーネさんと再婚はしないのだろうか。ジョゼッタの事を考えれば、オレの都合を加味しなくとも二人が夫婦になるのが良いと感じるけれど……。

 一夫多妻は一応許されている世界だ。逆に多夫も許されている。多夫を希望する女性は多くないけれど、貴族の中には逆ハーレムを築いていると噂されている人の話しも過去聞いてはいた。

「……ごめんね?」

「……何が?」

「ジョゼ」

「いいよ」

「貴方のそう言うところ好きよ。色々考えてくれているのでしょう?」

「そんな考えてないよ。ただ……」

「ただ?」

「……ラーナさんと一緒にいたいだけ」

「ふふふっ。ちなみに……浮気は許さないし多妻も許さないから」

「……ラーナさんがいればそれでいいよ」

 これは本心だ。

「ちなみにあの門番は二人とも幸せにするって言ってきたわよ」

「ラーナさんはもうオレのだからダメだよ」

「……あたしが浮気したらどうする?」

「それは……辛いけど別れて終わりかな。それはもうオレを愛してないって事だから。せめて浮気する前に別れて欲しい」

「即答したわね。そんなすぐ諦めるの?」

 そうじゃない。そうではないけれど、オレ自体が、それに耐えられないかもしれない。所詮は綺麗ごとだ。止まってラーナの手を取り握る。

「お前が大切なんだよ」

 引き留める資格がない。オレとジョゼさんに違いはない。ここにメイリアが来て、私かラーナかどちらかを選べと言われたら、オレはどちらも選べずに死ぬしかない。選べない。とても選べそうにない。死ぬしかない。

「……好きだから」

 愛しているとは言えない。

「……ちなみに浮気したら私死ぬから」

 それなのに、喉か乾き水を求めるように。

「なんでだ」

 乾きが熱ばかりを帯び爛れ。

「それくらい好きよ。それぐらい、好きよ」

 重さを感じて指と手の平を頬に当て唇をつけ味を感じる。重くてもいいよ。のしかかられても支えてあげる。気持ち悪さと吐き気もある。それ以上に縋り付いてもいる。もう誰かと別れるのは嫌だ。最後まで一緒にいてほしい。願いはただそれだけだ。

「すぐ、すぐ卑怯技を使うのね」

「そうだよ? ……あのさ、自分で歩けるってば」

「ダメよっ。私のなんだから」

 普通は恋人や伴侶のいる相手を好きにはならない。忌諱するものだ。人妻に手を出してしまったオレが言えることではないけれど、もしジョゼさんとラーナさんが夫婦円満だったのなら、オレはラーナさんに相手にもされなかったし、オレもラーナさんと恋仲になろうとは考えなかった。たぶん。たらればの話しになってしまうけれど。

 ハーレムと言えば聞こえはいいけれど、普通に考えれば浮気だ。選択権が無いか、よほどお互い仲良くないとできないものだ。王族も多妻だったけれど、平等ではなく序列があった。序列があり成立しているものだった。

 浮気は心の暴力なのかもしれない。それが原因で伴侶や恋人が命を絶ってしまうこともある。大げさかもしれないけれど……ラーナさんや、さっきのジョゼさんを見てそう考える。

 体験して初めて傷つくことを知る。失って初めて大切さを知る。

 それでも傍にいて良く接触する異性を好きになってしまう事はあるかもしれない。気持ちがどうにもならないのも理解はできる。だからこそ伴侶や恋人以外に近づくべきではないし、近いべきではないとオレは考える。

 ハーレムが好きな人もいるし浮気や不倫をする人もいる。それは罪にならない限り本人達の自由だ。恋愛を軽く考えるのも自由だし、重くてもいいと考える。それは個人個人の自由で、住み分ければいいだけの話だ。

 悪魔が人前に姿を現せないのは、悪魔の証明が神の証明になるから。

 恋人がいる。結婚していると知っているのに近づいて来る異性はいる。

 オレはそう言う人間を忌諱するが、他の人間がどうするかは自由だ。

 ラーナさんが構ってくれなくて、他の男と楽しそうに談笑して、朝帰りを繰り返して、そんな時に優しくされたら浮気するかもしれない。そうは考えてみても実際浮気されてしまったラーナさんにそれを伝えるべきではないと口には出さなかった。

 例えそうあったとしてもちゃんと別れてから関係を持つべきだ。

 相手がそうであっても、自分がそうなる理由にはならない。

 口ではなんともでも言えるのだ。口では何とでも言える。これは綺麗ごとで、どうするかは人それぞれで良い。

 オレに、そんな資格はない。

 メイリアがこの場にはいなければ、見捨てた過去が無くなるわけじゃない。


 引きずられながら自分の髪を切る――輪を作りコクダンの性質を与えて形を固定する。魔術【遊び】より指輪に効果を与える。オレの解析データを登録し、装着者が登録されていない解析データに性的反応を示さないようにする。変な指輪を作ってしまった。しょうの無い指輪だ。

 名前を付けるとしたら束縛の指輪かな……。

「私はタラントなのよ」

「何の話?」

「タラントなの」

「タラントって蜘蛛のこと?」

「そうよ……ただ捕らえた貴方は毒持ちだった。捕獲したつもりが毒にやられたのは私の方。悔しいことに」

「そう」

「はぁ……」

 大きなため息の後、ラーナさんは歩くのをやめ、振り向いてこちらを見た。

「……貴方が欲しい。貴方が欲しいの。貴方だけが欲しい」

「オレも、ラーナさんが欲しいよ」

「……そこはお前のものだよって言うところでしょ」

 目を細め、頬を膨らませるラーナを可愛いと感じた。

 手を握り、指を通す。身を寄せて体重をかける。かけられて歩く。無骨な鎧の感触、独特のニオイ、息が触れ合うほどの距離、この距離が許されている。それだけでいい。

 耳の下、骨の傍に唇をつける。音をつけて強く擦る。

「どうして、どうしてそんな所にキスするのよ」

「ここなら、痕がついても大丈夫でしょ」

「ふう……はぁ……ふぅ……帰る?」

「なんでだよ」

「じゃあ……こっち行く?」

「ルートから外れてるよ」

「じゃあ、わたしのものになる?」

「なってるよ」

「じゃあ、人気(ひとけ)の無いとこ行く?」

「行きません」

「ここでもいいけど?」

「意味がわかりません‼」

「卑怯な技を使う貴方が悪いのよ‼ このっ‼」

「やめれ‼ スカートから手を離せ‼」

「じゃあズボンならいいのね⁉」

「やめれ‼」

「正々堂々かかってきなさいよ‼」


 ゴブリンと言う種族は人型魔獣の素体のようだ。

 ラーナさんがそのあたりを歩きがてら教えてくれた。

 二足歩行する人型の魔獣は蛮族と呼ばれている。そして全ての蛮族の元をたどればゴブリンにたどり着くのだそうだ。

 ゴブリンオークはゴブリンとイノシシ型の魔獣が交配して生まれてくるハイブリットで、このゴブリンオークがゴブリンオークと交配を重ねると段々とオークと呼ばれる種族へと変貌してゆくのだそうだ。オークは毛むくじゃらでイノシシ型の頭を持ち、過去相対した魔物で相違ないだろうと考える。

 オークはゴブリンより体格が大きく、狂暴で野性的。聞いた特徴からもほぼ確定だろう。

 魔物でも魔獣でも呼び方はどちらでも良いようだ。

 他にはゴブリンオーガ、ゴブリンコボルト、ゴブリンタウロス、リリンなどが存在するのだそうだ。

 リリンはゴブリンと人との交配によって生まれる魔物で、これもおそらく相対している。ミリアリアと過去ジュシュアに名前をつけられていた個体がそうなのだろう。

 リリンが成長するとリリスと呼ばれるようになり、所謂サキュバスの部類に入ると聞いた。ラーナさんはリリンの話をする時、露骨に嫌な顔をしていた。オレを捕まえる力が強まり痛い。

 このリリンやリリスと言う個体は非常に厄介で、過去には国が一つ滅んだこともあるのだそうだ。

 ジュシュアはリリンを生み出していた。


 ポイントへ移動すると情報は意外と正確で、在住していたゴブリンオークを片付ける作業を開始する。

 ゴブリンオークは如何せん直線的だった。脳筋と呼べばいいのか、動きも早くなく、オークよりも体格が小さく、力もそこまで強くなく、石や木を持った個体がいるにはいるのに、それなのになぜかそれらを使わずにただ突進してくる。

 せめて投げろ。いや、投げたわ。

 オークと比べるとかなり貧弱だ。ゴブリンより背が高く毛むくじゃら。

 オレはゴブリンを見たことがないのでゴブリンオークとゴブリンの違いを比べられない。泥場がありほとんどのゴブリンオークは体に泥を纏っていた。

 巣に到着してからのラーナさんの行動は素早かった――一体一体に槍を穿っていく。傷つけるだけで十分に効果があり、ゴブリンオークは避ける間もなくラーナさんの槍に穿たれていった。

 突く、払う、打つという3つの動作に迷いが無く流れがある。時折ポールダンスのような動きすらしていた。これが槍を持った戦士の戦い方なのかと感心する。

 魔槍の意味が良くわかる。ゴブリンオークの大半が心臓を一突きにされていたからだ。

 入って数十分、否数分かもしれない。ゴブリンオークの多くがその場に倒れ絶命した。即死のように感じる。錯乱したゴブリンオークは防御や避けるのをやめ、自ら突きに吸い込まれているようでもあった。

 目で追うのが困難な速度。適度に前後するフェイント、動きに翻弄されたゴブリンオークがあっけなく死んでいく。

 ゴブリンオークは視界の情報を脳が処理できていないようだった。

 左右にぶれる体に動体視力が追いつかず、残像に処理が追い付かず、体は刹那の反応に硬直し、穿たれて倒れる。

 時折ラーナさんの視線を感じる。オレを気にする余裕まである。時折やけくそ気味に飛んでくる石を【ネイル】で撃ち落とす。

 オレは……どうしちまったのだろう。

 久しぶりに魔物と相対したように感じる。

 ただゴブリンオークを視認して、首の辺りに指で線を引くだけでよかった。それだけでゴブリンオークの首が零れて落ちた。頭がなければ体は動かないのだなとそんな感想を浮かべて困った。

 【ネイル】を発動しているのはわかっている。わかってはいるけれど、あまりにも一方的で命が軽かった。魔物を命と呼んでいいのか判断できずに心だけが妙に冷たかった。

 猫が一匹足元にいた。黒い猫は足元で毛繕いをしていた。

 【キャットネイル】のスペルはオレの脳内で体験を取り込み、オレの想定を超えた現象を起こしていた。こんな事はありえないはずなのに――記憶として構成された【ネイル】と言う呪文が、オレの思考と結びついて歪んでいる。

 そしてそれをありのままとして冷静に受け止めているオレがいた。

 妙に冷めていて冷たかった。

 どうやら【ネイル】と言うスペルは、猫が一匹無造作に現れて、その猫が出現している間だけ、任意の場所に斬撃を生み出す事ができると言う魔術になっているようだ。

 なぜこんな呪文になった――猫は消したはずなのに……。

 それほど、オレはおかしくなっていたと言う事なのだろうか。

 その猫は、爛々とした真っ暗な穴のような瞳でオレを見ていた。

 差し伸べた手に顔や体を擦りつけて来る。記憶の中の滑らかな毛色とは違い、その感触は霧のように朧だった。


 もう動いているのはラーナさんだけだ。

 これで終わりなのだろうか。すぐに終わってしまって脱力する。蚊を殺すような感覚で魔物が死ぬ。この感覚がこの世界における通常なのかもしれない。

 残った死骸。改めて今更だけれど、食べるかどうか迷っていた。あえてこれを食べる理由がなかった。肉は肉だ。そのままにしておけば近場の魔物が寄って来るだろう。しかしラーナさんはまだ死骸を処理しないと言った。

「帰らないの? 死骸も片づけてないし」

「残党が戻って来るのを待つわ。コイツ等以外にも狩りや偵察に出ている奴らはいるしね。縄張りって奴」

「そうなんだ」

「最低でも3日は残るわよ」

 ゴブリンのような二足歩行をする蛮族は、聖域が広がるのを極度に嫌がるとラーナさんは言った。聖域は森がなければ広がらない。だから聖域に隣接する森を切り崩し聖域が拡大するのを防ぐのだそうだ。そうして力をつけると聖域を切り崩し、村へ進行する。

 切り崩した木が無骨と乱雑に組み上げられて、その木を使ってバリケードや雨避けが作られて、蛮族の住処、群れは出来上がっていく。

 住居とは程遠く集落とは程遠く、そして臭かった。

 キャンプの用意をし始める。

 伐採されてしまった木を無骨に汲んで囲いを作り、綺麗な木を選び敷いて椅子やベッドの代わりにする。十字に切り込みを入れた丸太の芯に火をつけたキノコを入れて立て、コンロ代わりに使う。死骸だらけの一角で、ここだけは妙に綺麗で少し困った。水を調達するために森に入り、蔦を切って口をつけ水分を補給する。湧き水を鍋に汲み、苔だまりを見つけると持ち上げて運び、囲いやベッドへ積み重ねる。まるで鳥の巣のようだ。

 別に帽子を使っても良いのだけれど、それはなんだか無粋な気がしてしまって、言い出せなかった。

 緑の水分豊富な苔に囲まれて、先には薪のコンロ、かけられた鍋。湿気と湯気が立ち込めて、むせ返るような苔のニオイや森、土のニオイで死骸のニオイが気にならなくなっていく。

 お腹が減ったら持ってきていた干し肉を口に運び咀嚼し、唾液でふやかさないと食べられなくて、塩気に顔をしかめ、やっとふやけたと感じたら伸びて来た手に取られて代わりを口に突っ込まれる。

「ちょっと……」

「交換交換」

 じょじょに寄りかかられて、力を込められてゆっくりと押し倒さされる。

 耳元に押し付けられた唇の柔らかさが心地良い。そして血のニオイ。頭が沸騰するような死と聖のニオイ。

「警戒しないと……」

「……今は大丈夫よ」

 囁かれた言葉が耳にこそばゆかった。死骸に囲まれたここで――不思議と恐ろしくはなかった。

 ラーナさんの索敵能力は人の域を超えている。少なくともオレにはそう感じた。

 交代で眠るのに、一定範囲内に生き物が侵入するとすぐに気が付いて飛び起きて駆けてゆく。戻って来たゴブリンオークが投擲された槍に穿たれて死ぬ。駆け抜け取った槍で追撃され穿たれて死ぬ。正確で無慈悲――動きを止めるために傷つけられた手足と心臓に穿たれた穴、落ちる血液がまるで命そのもののように滑り垂れていく。

 そうして動かなくなり失っていく。

「見張りはオレなんだけど」

「気づいたのは私が先よ?」

「交代なのだから休んでよ……」

「うふふっ」

 綺麗に殺すねとは言えなかった。

 ころりと膝に頭を乗せて来る。

「……いや?」

「かまわないよ」

 ラーナさんの手ばかりが汚れて、オレの手は汚れていなかった。ラーナさんはそれを故意に行っている。髪の根元から指を通して撫でるとラーナさんはこそばゆそうにしていた。

 でも時折寝つきが悪く、寝ても魘されたり眉間に皺が寄ったり。そういう時は起きると機嫌も目つきも悪かった。オレの胸に顔を埋めてくる。悪夢を見るのかもしれない。

「ちっ」

 舌打ちすると不機嫌そうに立ち上がり、魔物が戻って来たことを察する。ラーナさんの索敵能力はやはり異常だ。オレが作った魔術【ソナー】など比較にならない。

「ここで待ってて」

「だが」

「いいから」

「あぁ」

 炎を失い赤い熱だけを持つ丸太。横へ避けていた鍋のお湯をタオルにかけて……手が熱を感じて温かいと、ラーナさんは数分で戻って来た。

「おかえり」

「ただいま」

「はい」

「ん?」

 手をタオルで包み汚れを拭う。鍋の水をかけてしぼり、顔を拭いてあげる。

「……はぁ。もー……なんなの」

 ラーナさんは深いため息のような呼吸をした。

「私のここは、貴方だけが入れるのよ?」

「下ネタ?」

「違うわよ‼ ここよ‼」

 ラーナさんが心臓に手を当てて、それを心だと察する。両手を広げるとラーナさんが緩慢に滑り込んでくる。

 殺すのに躊躇いが無く――交わりと、すべてが灰に染まる。

 滴る炎が全てを包み込み、その温かい腕の中にいた。

「怖い?」

 私が怖いと聞かれているのを理解している。死骸に囲まれるここで、手を汚す自分は怖いかと問われている。重い感情を持つ私は嫌かと聞かれている。

「そうだね。命を奪うのは怖いよ……」

 オレの目を見ていた。伏せてあげたオレの目を真っすぐに見ていた。反らしてはいけないと理解し、覆い隠す。

 貴方は怖くないと遠まわしにそう伝える。重くても大丈夫だと遠回しにそう伝える。

 ラーナさんは無表情で、オレを包み込み、その体が、その意思が、オレを逃さないと言っているようだった。もう逃がさない。顔を両手で掴まれて舐めとられる。逃げないから大丈夫。怖がらないから大丈夫。オレとラーナさんの明確な差異を感じて、それをラーナさんに悟らせぬように身を寄せた。求めた事で安心したのかその目は優しげに緩んでいた。

 裏切られた炎が繰り返しくすぶっている。また裏切られるのを恐れている。それでひどい悪夢を繰り返すのかもしれない。

 そんな中でもラーナさんが警戒を解く事はなかった。

 一緒にいても、寝ていても。

 戦闘が終われば安息。

 小川を見つけて水浴びをする。水の中には基本的に顔をつけない。寄生虫が目の中を泳いでも良いのならそれも構わないだろう。オレは嫌だ。

 川の浅瀬を石や土で完全に区切り、焼いた石を入れて煮沸する。簡易なお風呂を作る。冷めるのを待ち。

 鎧を脱いだあとの湯気とムワリと漂うニオイにクラクラする。

 露出する肌とラインに目を奪われて。

 瞳の前、心臓が煮え崩れ滴るような錯覚すら覚える。

 顔を上げると屈み寄せて――求めると応じてくれる。

「私、今すごく臭いんじゃない?」

「別に気にしないよ」

「汗臭いのが好きなの?」

「違うけど……お前のニオイは好きだ」

 爛れる口元から熱が零れ落ち、粘度を帯びて垂れ下がる。

 貴方が獣になるまでやめないよ。

 笑みを浮かべると、その表情はひどく怒りを帯びていた。

 少し嫌がりながらも受けいれてくれる表情が良い。

「痕、つけていい?」

 彼女の沈黙。その沈黙だけが是を示し、波打つ湯船が妙に温かく、蕩ける痕と擦れ合う素肌だけが末にあった。


 生き物の焼けるニオイを良いニオイだと感じるのだから不思議だ。美味しそうと言う感想と涎が湧く。理性では命を奪う事を恐れているのに、本能では食欲が湧いて腹を満たしてと好意を抱く。まったくもって難だ。

 結果的には7日滞在し、戻って来た個体も残らず殺傷した。

 ゴブリンオークは狩り付くした。もうこれ以上ここに滞在する意味もない。

 地面に大きな穴を掘り、枝や落ち葉を敷き詰め死骸を放り込み、また枝や落ち葉を入れて死骸を敷きミルフィーユ状にして焼いていく。

 魔物の死骸は魔物を呼ぶから。だから村から離れた場所ならともかく、依頼の範囲での魔物の討伐は熱処理を求められる。燃えきるまでに丸一日。

 まっさらな灰になるのを待ち、冷めるのを待つのにさらに半日――何をするにも時間がかかり、待つ間はラーナさんに寄り添っていた。食料を探すとラーナさんに手を引かれて森の中を歩き、相変わらずの索敵能力に嫉妬染みた感覚に囚われる。それが欲しい。ラーナさんばかり手が汚れるのが気に食わない。

 その方法を、ラーナさんの索敵法を解析データより探る事にした。

 どうもラーナさんの髪を流れる魔力が周囲の物を判別しているようだ――そのデータを自分に移したが、どうやらオレは髪まで回路が形成されていない。これを開通するには時間がかかり、ゆっくりと回路を形成することにした。髪に回路を形成するのは前々からちょくちょくやっていたことだ。これを本格化する。

 新しい回路を形成するのは痒みと痛みを生じるしもどかしく痛い。こればかりはどうしようもない。

 一番難であるのは、この索敵法の仕組みをオレ自身が理解していないと言う点だ。良くはないが理解できる気もしない。


 森の散策は楽しい。

 この森は豊だ。良い意味でも悪い意味でも。

 昆虫も動物も、鳥も多い。

 白い眼玉のような実を鳥が食べていて、この実は食べられるのだろうかと手に取ろうとしたらラーナさんに止められた。

「それは毒の実だから触っちゃダメよ」

 止められた事より、ラーナさんに触れられた事に胸が高鳴っている。本当にしょうもない。

「鳥が……鳥は食べられるのだな」

「そうみたいね。どうかした?」

「いや、素直に、君に触れられた事が、嬉しくて……。すごく……」

 しどろもどろになってしまった。恋という感情は厄介でもどかしい。オレの様子を見るラーナさんは嬉しそうな表情をしていた。

「……ねぇ?」

 別に欲情しているわけじゃない。ただ胸が高鳴っているだけだ。

「……ふふっ」

 基本的に鳥は四足で、情報としての鳥との差異を感じて妙な感覚に囚われる。大なり小なりどの鳥も羽の色は違えど足は四つあり、どちらかと言えば構造的にはモモンガに近い印象を受ける。始祖鳥を思わせると言えばいいのだろうか。

 どうも上空が良くないらしい。

 ちなみに白い実はフェイクアイと呼ばれている猛毒の実なのだそうだ。人間が一口食べれば舌が爛れて喉が焼ける。

「ドラゴンが好きそうな食べ物だね」

「よくわかったわね」

「冗談なんだけど」

「ワイバーンが好んで食べるから、狩る時に利用するのよ」

 ラーナさんって実はジュシュアより強くね。

「ワイバーンてドラゴンなの?」

「ワイバーンはワイバーンよ」

「どっちなんだ」

「貴方に意地悪するのが趣味なの」

 子猫を愛でているつもりがグリズリーだった。

「あのさ」

「ん?」

「するって聞かれると、すごい嬉しい」

「わたしも……頷いてくれる瞬間がとても嬉しい」

 顔を上げて見つめると、屈み髪を分けて寄せてくれる。触れあって――ノイズと味覚と余韻だけが通り過ぎる。

「これ、すごく好き」

「わたしも」

 お互いの行動を察し受け入れあえる。


 果物で喉を潤し、葉を濡らす露で喉を潤し、蔦を切り喉を潤し、煮沸した川の水で喉を潤す。干し肉を唾液でふやかし鍋に入れ、キノコや薬草を加えて煮込み簡易なスープを作る。

 飲み干すほどに塩気が身に沁みて、唇まで舐めるほどで、見つめ合うと同じ味がして困る。

 甘えるように鎧に埋もれる。冷たくて硬い。それが苦じゃない。それはたぶん、彼女が拒否しないことに喜びを感じるから。

 指に込める力は強く、腕に込める力も強く、顔に当たる鎧が痛くても構わない。

 脱力して体重を預ける。髪を撫でられて困る。愛でられて困る。頬を頬で撫でられて何もできなくなって困る。

 動いてもいないのに弓なりに反りあがり、いくらダメと理性や言葉で発しても止まってはくれない。強張りからの解放と、それでも離れたくはないと、背中に回した手ですがりつく。

「本気に……なっていいから。本気で……いいから。ラーナ……さん」

「……そう」

 塞がれる耳。口内へと進み来るうねり。

「……貴方は、どうなの?」

 呼吸で盛り上がる胸。細く深く沈んでいく。

「うー……全部全部受け止めるから」

「答えになってない。本気になって? ね?」

 離れる合間すらない。ラーナさんを胸に抱きとめたいのに。

「このっダメよ」

 湿り気を帯びる耳。

「違う、のに」

「ダメッ。収まってなさい。このまま……ね?」

 溺れているみたい。

「本気に、なって? ね?」

「本気、だよ……ずっと、最初から」

「うんうん。そうだよね。本気だよね。うんうん」

「……大丈夫だよ。心配しないで。不安なんだよね? 大丈夫だから。いっぱい痛かったね。いっぱい辛かったね。大丈夫だから」

 体中を強く締め付けられる。

 背骨のラインへと這わせる指。

 呼吸音も、そして鼓動も、寄せられ合わせられていく。同じリズムで、同じ時の中で、二人で一つの生き物になるように、それが嫌じゃなかった。

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