第10話 囚われる


 いつまで経っても現れないラドクリフ様をもう待っていられないとイライラがつのり、すっかり頭に血が上っていた。激昂していたといっていい。連れていかれた先ではラドクリフ様は居らず、代わりにメイヤー伯爵次男ルパート様と護衛らしき騎士服を着た人間が二人、待ち構えていた。そうこうしているうちに、ルーファスの様子がだんだんおかしくなってきた。端的に言えば、俺と付き合えと言い寄ってきたのだ。酔っているのか、何だか瞳の色が沈降していくように見えた。明らかに普段と違う様子にかなり戸惑ってしまう。


「すまないね、弟が面倒をかけて」


 澄ました顔をこちらに向けてルパート様が淡々と話す。謝罪を口にしながらも、本人は手出しをすることなく壁に凭れて眺めているだけだ。違和感が半端ない。何かおかしい。


「それよりも弟の言い分を聞いてやってくれないか。弟の役目なんでね」

「だから、私はラドクリフ様にお話があってこちらへ伺ったのですよ。ルーファス様の戯れにはお付き合い出来ません」

「そんな、つれないこと言うなよ、しかしお前こんなに美人だったとはな」

「ちょっ、何をっ!」


 いつの間にやら抱きこまれて眼鏡を奪われてしまった。身体を捻って何とか逃げ出そうとするが、男の力には敵わない。


「お前を篭絡せよと父上に言われたが、どうもタイプじゃなかったので本気にはなれなかったが、……眼鏡で隠してたのか? こうして着飾ればなかなかじゃないか」

「……離してください!」

「綺麗だよ、アン・トレイシー。いつもこの格好をしていれば俺だって初めからその気になれたのに」

「余計なお世話です。貴方とお付き合いする気はないとあれほど……!」


 思い切りヒールを相手の足に叩き込んでやった。痛がっている隙になんとか抜け出して部屋から出ていこうとしたが、騎士風情に止められてしまう。それを冷たい眼つきで見ていたルパート様が、いやはや悪気はないんだがやり方が拙いと、頭を振りながら私に近づいてきた。


「何とも行儀の悪いことだ、許してくれたまえ。後で弟は叱っておこう。ほら、これでも飲んで落ち着いて」


 慇懃な態度でそう言ってこちらへ果実水らしきものが入ったグラスを差し出した。


 後から思えば私は怒りのあまり判断能力を無くしていたとしか言いようがない。喉が渇いていたこともあってそのグラスを受け取り、一気に呷ったのだ。


「……お前を篭絡すると父上と約束したんだ……」足を踏まれて蹲っていたルーファスが、ふらりと立ち上がって不穏な言葉を口にした。「こちらへ……取り込めと……」

「全く役に立たないね、ルーファス」冷たく言い放つのは兄である筈のルパート様だ。「彼女を捕まえておけと言われたのに、駄目じゃないか。……トレイシー子爵令嬢、すまないが私の邸に一緒に来てもらうよ? ルーファスの相手をしてもらおう」

「何を、勝手なことを……! ルパート様、いったいどういうことです?」

「役割分担ってやつでね。ラドクリフ兄上は綺麗なままで、次男の私は裏から支えて、汚れ仕事はルーファスの、ね」


 それまで笑みを浮かべていたルパート様の顔つきが変わった。昏く影が落ちて、世界が反転するかのような感覚に襲われる。いったい何を言っているのか。しかしだんだん思考が纏まらなくなってきた。頭がぼんやりとして、真っ直ぐに立っているのが難しくなってきた。どうしてと思う間もなく身体の自由が利かなくなる。もしや毒? 伊達に公爵令嬢をやっていない、多少の毒なら耐性を付けているが。毒とは感じが違う、いったいこれは……


 それまで気配を消して控えていた男の一人が私を抱えようと近寄ってきた。抵抗を試みるが、力が入らない。このままだと捕まってしまう。どうしたら? そう思った時だった。


 扉の向こうで激しく言い争う声がする。大きな音を立てて扉が開くと同時に、何人かの男性が飛び込んできた。剣を持った人間もいる。あれは確か殿下の護衛騎士では? それを見て丸腰のルパート様が怯んで後ずさった。


「アン・トレイシー! 無事か?」


 ふらついて倒れそうになった私を力強い腕が受け止めてくれた。この頃には身体中に熱が溜まり、視界がもうぼんやりとしてきた。ああ、やられた、これは媚薬だ、、、


「ジーク、トレイシー嬢を連れ出せ。ここは任せてくれ」誰かが叫んでいる。

「マイク、後は頼む……歩けるか?」


 何か聞かれているのは分かったが、答えられない。はあはあと自分の激しい息遣いを聞くのみだ。横抱きにされそのまま運ばれて行く最中、一瞬気を失ったようで次に気付くと馬車の中だった。補佐官の胸に身体をもたせ掛け、増していく熱さと息苦しさに堪えていた。いつもの端正な顔が歪んでいる。心配をかけたようだ、本当に申し訳ない。


「すまない、一人にしてしまって」

「い、いいえ、わた、しが、、、ごめん、なさい、なにか、くす、りを、、、」

「話さなくていい。もう大丈夫だから」

「からだ、あつくて、あつ、く、て、、、」

「くそ、媚薬か、……どれだけ飲んだ? 抜けるのにはどれだけかかるか……」

「……わた、くし、くるし、い、あつ、い、、、たすけ、て」

「……トリア、俺は、」

「ジーク、さま、ジークにい、さま、、、なん、とか、して、おねが、い、、、」

「………」


 自分では何を言っているのか、もう理性は飛んでいた。ここにいるのは私の元婚約者のジーク兄さまだと、それだけは理解していた。その証拠に、ほら、トリアって、呼んでくれた、トリアって……。


「―――トリア、……俺が楽にしてやる。……いいか?」


 滲んだ涙で視界は曇っていた。見上げるといつもは闇の黒さを孕んだ瞳が深い碧色に輝くのを見た。それは今着ているドレスの色だとようやく理解した。大好きな人の色を纏っていたのだ、こんなに嬉しいことはない。この人に全てを委ねようと両の手を伸ばして彼の身体に絡ませた。

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