第4話 誘われる


 私はアン・トレイシー、仕事上はこの名前で通している。


 ……本名は、ヴィクトリア・アン・ウィンチェスターという。筆頭公爵家ウィンチェスターの長女だ。トレイシーというのは我が公爵家の持つ爵位名の一つである。


 幼い頃の伯父の事件から箱入り令嬢と化していたが、長じて社交の義務を果たす為に王立学院へ編入した。両親は学問よりも人脈作りに重きを置いて欲しかったのだろうが、期待をひっくり返して勉学に励み、スキップ制度を利用してさっさと王立学院を卒業した。女が学問で自分よりも上位に立つことを良しとしない狭量な男性は思ったよりも多い。そして公爵令嬢という身分は、妙な忖度を与えかねない。少しでもストレスを減らす為に公爵令嬢であることを隠して大学院へ入学した。実力主義だったから匿名でも問題なく、そのまま官吏登用試験を受けて今に至る。


 伯父のことは我が家ではトラウマになっている。妹であった母の嘆きはそれは深くて、一時は目が離せないほど瘦せ衰えてしまい、命も危ぶまれるほどだった。私自身も自分のせいだという思いが根深く突き刺さり、鬱状態が長く続いた。


 その頃、家同士で進んでいた私の婚約話も同時に消滅した。幼い私にはとても素敵な憧れのお兄さまであり、本で読んだ騎士物語を彼に当て嵌め、いろいろな夢を描いていたが、その想いも儚く消え失せた。その後社交界デビューした私には、公爵家令嬢というブランドを目当てに何人もの男性に結婚を申し込まれた。しかし誰と会っても心は動かされることなく、いつしか学問にしか興味のない頭でっかちな地味公爵令嬢として忌避されるようになった。別に構わない、今の私には結婚するよりも大切な志があるのだ。ただ未練があるとしたら、幼き日の婚約者だけだ。


 ……そして、その憧れの元婚約者殿は、今私の目の前にいる。


 そう、シュバルツバルト補佐官は私の初恋の人だった。今の彼は気付いていないだろう、そんな素振りを見せたこともなければ、名前も違う、もう十年も前の話だから。


 公爵令嬢として夜会に出席する時には、それなりのドレスや相応のアクセサリーを身に纏い、髪を結い上げ化粧をする。いくら壁の花に成りがちな地味令嬢とはいえ、今の文官姿とは全く違って見えるだろう。実際今まで夜会で沢山の人と出会っているが、文官の私と結び付けられたことはこれまでに一度もなかった。仕事重視で美容にかまけている時間が取れず、艶のない枯草色の髪を無造作に後ろ手に一つに纏め、伊達でわざとらしい縁の太い眼鏡をかけている今の私は、どう足掻いても公爵令嬢には見えない筈だ。


 それにしても。嗚呼、『ジーク兄さま』に舞踏会でエスコートしてもらうという昔の夢の一つが叶うわけだ。人生って本当に分からない。


 素知らぬ顔をして、口を覆ったままもごもごと了承の意を唱えた。顔色を変えようものなら気付かれるかもしれない。今更蒸し返しても詮無いことなのだから。


「それとも、君には決まった相手がいるのか?」


 嫌そうにしていると思われたのか、改めてそう問うてきた。


「いえっ!いえっ!そんな人いません! ……婚約者だっていません!」


 焦った私は余計なことまで口走ってしまった。


「そうか、では宜しく頼む」


 研修生に選ばれたこと、夜会への出席命令、そしてパートナーのこと。整理しきれない感情が渦巻いて爆発しそうだ。落ちつけ私、と先だって目の前に置かれたお茶を取り上げた。


「それでどうする? 君を迎えに寮へ出向けばいいか?」


 え、女子寮へ?


 今私は文官や事務官の為の女子寮に部屋をもらっている。しかしそんなところに迎えに来られたら堪ったものではない。誰に見られるか分からない上に、この補佐官には懸想する女子がたくさんいるのだ。嫉妬をこれ以上買いたくないのだ私だって。


 それに夜会用のドレスは一人では着られない。どうしたって手伝ってもらわないと無理だ。私の正体がバレてしまうから、実家の公爵家に来てもらう訳にもいかない。実家に一旦戻って着替えをして会場入り口で待ち合わせが無難か。しかし以前着たドレスでは、万が一ではあるが、誰かに覚えられている可能性が無きにしも非ずだ。加えて公爵と子爵ではやはりドレスにも格の違いが出て当たり前。だとすると子爵令嬢としてのドレスを新調せねばならないが……。


 いろんなことをぐるぐると考え黙り込んでしまった私を、面白げに眺めていた彼はまたもや爆弾を投げつけてきた。


「いっそ、うちに来るか? 実家には母のドレスがたくさんあるし、母付きの侍女がいるから着付けも大丈夫だろう。そのまま一緒に会場へ行けばいいから待ち合わせの面倒もない」


 危うくお茶を吹き出すところだった。その無駄に整った顔をまじまじと見つめ、顔に熱が集まるのをどうすれば誤魔化せるかと必死で考えていた。

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