第12話 受けとめる


「ああ!ようやく会えた!トリアちゃん、本当に嬉しいこと!」


 私の顔を見るなり、両手を広げてぱたぱたと小走りに駆け寄ってくると、ぎゅうと抱きしめられてしまった。


「……シュバルツのおばさま、お久しぶりです。喜んでいただけて私も嬉しく、」「あー! そんな、他人行儀なこと言わなくていいから! 元気だった? ジークからいろいろ話は聞いているけれど、お仕事、頑張ってるのね、わたくしも誇らしいわ。ね、あなた?」

「……ロウィーナ、ヴィクトリア嬢が困っているよ」


 私はこの天真爛漫なおばさまことシュバルツバルト侯爵夫人であるロウィーナ様が大好きだった。母とは旧知の間柄で、伯父のことがあって心を病んだ母を、時には励まし時には叱責しながら支えていただいた恩がある。母が今生きているのはこの方のおかげと言っていい。


 対して夫のシュバルツバルト侯爵エグムント様は寡黙な方だ。見かけは母の姿を受け継ぎ、中身は父親に似たのだろうジークフリード様は、渋面で壁に凭れこちらを眺めていた。


 本当は昨日の明るいうちに帰国する筈だった侯爵夫妻は、船の遅れで到着したのが夜半になり、そのまま港町で一泊するつもりだったそうだ。そこへ弟君のリーンハルト様からの連絡を受けて、夜通し馬車を走らせて帰って来られたとのこと。兄であるジークフリード様が息も絶え絶えな私を抱いて唐突に帰宅し、リーンハルト様に離れの人払いを命じたのだから、さぞ驚かれたに違いない。本当に申し訳ないことをした。


「それで? いつなの?」


 興奮冷めやらぬおばさまは、私の両手を取って踊るようにくるくると回り始めた。


「いつとは、何でしょうか? ……ああ、研修ですか? あと十日ほど発つ予定で、」

「やーね、違うわよ、あなたたちの結婚式よ!」


 途端、私はぴしりと固まった。


「母上、その件はまだ」

「何なの? この期に及んで何かあるの? ……トリアちゃん、昔のことは本当に申し訳なかったわ。わたくしは、それはそれこれはこれで、婚約解消させるつもりは全くなかったの。でもねえ、本家筋の親戚が煩くって煩くって、ねえ」と夫君を軽く睨み付けた。

「本当に済まないことをした」


 ぼそりと言って侯爵は、私に向かって頭を下げようとする。私は慌てて遮るように声を上げた。


「閣下! お止めください、謝らないでください。あれは我が家の、ウィンチェスター家の問題で、こちらにも大変なご迷惑をお掛けしてしまったのは確かなので、こちらの方こそ謝罪しなければ、」

「もう! いいのよ、トリアちゃんこそ謝らないでね。お互い辛い思いはもう沢山。ね、昔のことよりもこれからの未来よ!」


 ロウィーナ様は天井に向けて腕を突き上げた。


「ジークったら、まだお話し進めてないのかしら? ハルトが兄上の件ですぐ帰って来てくれっていうから、てっきりもう一度婚約を受けてくれたのかと思っていたのに。ずっと貴女としか結婚する気がないからって、持ち込まれる縁談を断るのが大変で大変で。……なのにジークがぐずぐずしているのなら、結婚しなくてもいいわ、養女にしちゃう。トリアちゃん、わたくしの娘になりなさい!」


 ええっ?! それはちょっと、どうなのだろう?


「母上、俺が口説いてる最中なんです、横取りしないでください。母上といえどもトリアは渡しませんよ」


 不機嫌な声でそう言い放つとロウィーナ様から私の手を取りあげ、そのまま引っ張られて部屋から庭に出てしまった。どんどん歩いて奥の四阿へと向かう。


「あ、あの、おばさまたちに悪いのでは……」

「悪いのは母上のほうだ、俺の邪魔をして」


 普段完璧な人が子どものように不貞腐れている。それを見ていると何だか自然と笑いがこみ上げる。


「ふふ、おばさまも相変わらずですね。……私を受け入れてくださって、本当に嬉しい」

「俺は? トリア。俺は受け入れてもらえないのか」

「……今朝は急がないって仰ったではありませんか」と思わず口を尖らせた。


「全く、油断も隙もあったもんじゃない。俺は妹が欲しいんじゃないんだ。母上に先を越される前に返事をくれないか」

「―――それ、イエス以外は受け付けないって感じですけれど」

「当たり前だ、君はもう俺のものだ。不本意なタイミングとはいえ既成事実もあるからな」


 昨夜のことを思い出し、頬が熱くなった。昔ほどではないにしても、貴族の令嬢ならば一度婚前交渉を致してしまうと政略結婚の駒としての価値が格段に下がる。ただでさえ二十歳を越えた行き遅れだ、もうこの人に嫁げなくては、私は一生結婚しないか、条件の悪い婚姻を吞むしかなくなるのだ。ほら、すっかり囚われてしまった。もう逃げられない。でも先に言いたいことは伝えておかなければいけない。この人とは対等な立場で並び立ちたいのだから。


 私は彼と向かい合った。


「……ジークフリード様、お伝えしておきます。まず、私は仕事を辞める気はありません。研究所にはこれまでと変わらず通います。エカテリーナ様のお相手も今のまま続けますし、絵も描き続けます。侯爵令息の妻としての役割を果たすつもりはありますが、多分最低限で手を抜くのが目に見えています。しかもこれから皇国へ行って絵画修復の勉強をするんです。どこに結婚するヒマがありますか? なさそうですけれど」


 頭の上で彼がくしゃりと笑って、私の髪に口付けた。


「そうだな、君は忙しい。まあ俺だって忙しいのは一緒だ。……とりあえず婚約だ。書類はこちらで用意するから君はサインするだけでいい。一応王家の承認も必要だが、エドワード殿下を脅してすぐにでも了承していただく。そうすれば婚約者として皇国でも大手を振って一緒に暮らせる。何ならシュバルツバルト本邸に滞在してもいい。結婚式のことは帰ってきてから考えよう。それでいいか?」


 む。何だか外堀は埋められてしまったようで、ちょっと悔しい。このまま研究を続けていけるのならば私は満足すると見透かされている。


「俺を利用するといい」と、そんなことも言い出した。


「エカテリーナ様と女性の社会進出についてもいろいろ考えているんだろう? 殿下と俺を最大限利用して政治にも介入してやればいい。碌でもないことしか言わない元老院の年寄り連中にがつんと言ってやればいいんだ。それに、」


 一旦言葉を切って、こつんと額を合わせ、私の目を覗き込んだ。


「君は昔の茶会のことを調べようとしているな?」

「??!! それも分かってらしたの?」

「まあな。昔の書類を取寄せたり閲覧許可を求めたりしていたから。昔のことを知っていたら分かるよ」


 そう、文官になった理由の一つがこれだ。子どもだったから分からないことも多かったが、文官になってそれなりの地位を得ると本当は何があったのかが分かるのではと考えていた。あの伯父が贋作売買に手を染めるとはどうしても思えなかったのだ。今になって調べようとすると何かが邪魔をしてなかなか真相に辿り着けなかったから、もっと力が欲しいと考えていた。確かに、ジークフリード様の助力があれば殿下の権力を貸していただくことも可能だ、そうしたら本当に知りたいことが分かる日が来るかもしれない。


「それよりも、先に聞かせてくれ」


 長年の疑問が解ける日が来るかもと思うとすっかり気分が高揚していた私は、何を? と首を傾げた。すると彼はちょっと拗ねたような顔をして、ふうと息を吐き出した。改めて跪いて私の手を取り、真っ直ぐにこちらを見上げた。


「愛しています、トリア。僕と結婚してください」


 何の衒いもないストレート過ぎる求婚の言葉だった。しかもこれは昔幼き日に求婚をしてくれた時と寸分違わぬ言葉だった。多分この人は私をとことん甘やかすだろう。でもそれだけじゃなくて、共に歩んでくれると思って間違いないんじゃないかしら。何よりジーク兄さまを忘れられなかったのは私だ。仕舞い込んだ昔の夢を取り出して埃を祓ってもいいんじゃないかしら。


「―――ジーク兄さま、求婚をお受けします」


 私も昔と同じ言い回しで応えてにっこり笑ってみせた。


「兄さまは止めてくれ、様呼ばわりも無しだ、トリア」

「……ジーク、……ずっと、好きでした。愛しています」


 そう告げた途端、引き寄せられきつく抱き締められた。耳元で熱い吐息と共に、ありがとうと囁かれる。私からも背中へ手を回してぎゅっと力を込めた。熱を分かち合うような抱擁の後、頬に手を添えられ、額から頬、瞼、そして唇へと口付けを落とされた。優しく啄むように、幾度となく。お互いの想いが通じ合った喜びが溢れ出て、それはそれは心地良く感極まって涙が零れ落ちた。


 暖かな日差しの中で、静かな時間が流れていく。私の髪を梳く彼の手が優しさに満ちていて、これが幸せなのかと蕩けてしまう。夢が現実になった今この時を、このまま大事に抱き留めておきたい。


「―――……トリア、」

「……う、ん?」


 口付けの余韻でうっとりと彼の胸に顔を埋めていた私は、溜息交じりに応えた。


「今夜は薬なしで」


 えっ。見上げると欲を孕んだ瞳が碧色に輝いている。


 綺麗な顔してそんなこと言わないで。台無しじゃないの、この一日でどれだけ砕けてしまったの。

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