第11話 語りかける


 カーテンの隙間から陽の光がこぼれている。視界はぼんやりと靄がかかったようではっきりしない。知らない天井だ、ここはどこだろう? 頭がまるで働かない。身体を起こそうとするとあちこちに鈍い痛みが走った。ふと寝台の軋む音がして視界が遮られ、額に柔らかいものを押し付けられた。


「起きたか。身体はつらくないか」


 えっ。一拍おいて昨夜の記憶の蓋が開いた。はっとなって慌てて上半身を起こして自分の身体を見やる。ゆったりとした白い夜着を着せられていたが、反射的にぎゅうと上掛けを引き寄せた。


「もう大丈夫そうだな」と口角を上げ微笑む美しい人は、そのままベッドの脇に跪き、私の右手を恭しく取り上げた。


「トリア、僕のお姫様」


 こんな彼を私は知らない。冷然な王太子の絶対零度の懐刀じゃなかったか。幼い私に捧げてくれた、どこまでも甘い響きを帯びた呼び名をそのまま口にするのは、誰だ。


「わ、わざとらしい真似は結構です、シュバルツバルト補佐官」

「ご希望に添えませんでしたか? 昨夜はジーク兄さまと呼んでくれたのに」

「希望も何も……その名を呼ぶのは止めて下さい」


 かっと顔が熱くなって、突き放したようになんとか言葉を紡いだ。


 すっと目を細めて笑顔を消した彼は、彼の二つ名に相応しい冷徹さはどこへいったのか、熱を感じさせる真摯な表情だ。手を解放してもらおうと引いてみたものの、上手くいかなかった。結局手を取られたまま、端正に整った顔ばせを、深碧色に煌めく瞳を見ていた。


「―――トリア、俺の姫」


 普段よりも低いトーンで囁くように、私の必死な願いを遮る。


「……俺の最愛」


 そう言って、私の指の先に口付けた。



「―――私は、アン・トレイシーです。トリアではありません」

「トリア、ヴィクトリア、……何度でも言う。俺の前で取り繕わなくていい。君は、筆頭公爵ウィンチェスター家令嬢ヴィクトリア・アン・ウィンチェスターだ。トレイシーは公爵家の持つ子爵位の名だ、違うか?」


 こうしてはっきりと口にされると、もう誤魔化しきれない。私は観念した。


「……どうして。……いつから、お分かりに」


 いつもは冴え冴えとした目元がふっと緩む。


「初めからだ。君をずっと見ていたよ」


 私は息を吞んだ。忘れていたわけではなかったのか。名を偽る私を知らぬ振りをして受け入れてくれていたのか。どう応えていいのか分からず黙っていると、ついと立ち上がった彼は今度は寝台に腰掛けて、こちらを覗き込むようにして口を開く。


「……確認したいのだが……昨夜のことは? 熱に浮かされたようだったが、どこまで覚えている?」


 覚えているというよりは、忘れてしまいたいのですが、と小さく独り言ちる。靄がかかったような中途半端な記憶が辛い。全部は覚えていないが、何をされたのか、どう反応したのか、何となくでも覚えているからたちが悪い。


「俺は全部覚えている。だから今後のことを話し合わせてほしい」


 恥ずかしさのあまり顔を両の手で覆った私を、胸の中に誘い込んで捕らえられてしまう。


「今後のこと、とは? ……責任を取れとは言いませんし、言えません。昨夜のことは私の油断が招いた失態です。ですからどうか、忘れてください」

「無理だ、忘れない」


 何が無理なの?!そう叫びそうになるのを抑えて、再度、どうか忘れて、と絞り出した。


「トリア、俺はいっときたりとも君のことを忘れたことはない」


 背中に回された腕に力が篭る。


「昔のあのお茶会騒ぎが収まった頃、君との婚約は解消されたと知らされた。俺は怒り狂ったが、でも解消するしかないんだと言うばかりの両親に対してどれだけ怒りをぶつけたか」

「……あれは、此方のお邸でしたのね。あまり記憶になくて、……」

「茶会そのもののホストは、皇国の親戚だった。父の従兄弟にあたる方がここで君の伯父さんや他の客を招待して、品評会を開いたらしい」

「そうだったのですね」


 そんなことも分かっていなかった。皇国絡みだからこそ、騒ぎが大きくなったのだろう。とは言え、伯父の仕出かしたことは庇いようがない。婚約破棄ではなく解消で済ませてくれたシュバルツバルト侯爵夫妻には感謝しかない。


「俺も子どもだったからどうしようもなかった。きっと君が王立学院に入学してくると、とにかくそれまで待とうと思っていたんだ。でも君とは学院ではすれ違い、重なることがなかった」


 私が王立学院中等部に編入したのは十五歳になってからだ。その時は既に彼は最終学年で忙しくしていた筈で院内で顔を合わせる機会などなかった。


「だが、ずっと君を見ていた。あと二年はかかる筈だった課程を一年で修了し卒業したのも、首席で王立大学院へ進んだことも知っている。難関極まる官吏登用試験をあの年の最高得点で突破して、芸術文化分野の専門技官として設立間もない王立文化研究所に配属された時には、我が事のように誇らしかったよ」


 包まれた彼の胸の中は温かく安心に満ちている。


「改めて君の許しを乞いたい。君の隣に並び立つ栄誉を、堂々と君を守る権利を、俺にくれないか……お願いだ、トリア、……俺と結婚してくれ。もう二度と手放したくないんだ」


 ああ、ここは居心地が良過ぎる。すっかり甘やかされてしまう予感に私は怯えていた。


「君がどんなに今の仕事に誇りを持っているか、俺なら理解してやれる。それに勿論、結婚してもそのまま仕事を続ければいい。他の追随を許さない君の知識は、寧ろ仕事を辞めさせるなど国家的な損失になる。俺もどうせこのまま殿下の政務補佐官として出仕する身だ、毎日一緒に王宮へ通えばいい。……どうだろうか?」


 心臓の鼓動がそのまま彼に伝わりそうなくらい煩く高鳴っている。きっと私の顔は見せられないほど真っ赤になっているに違いない。


 私だって見ていたのだ、彼をずっと。王立学院に残された伝説めいた彼の逸話を追っていた。入学してから一度も首席を譲ったことがないとか、学問だけでなく剣術もそこらの騎士には負けないほどの腕前で、居並ぶ同期の騎士見習いたちを片っ端から薙ぎ倒して、近衛騎士団から是非にと望まれただとか、進んだ大学院時代には税制に関する政策論文を提出して、宰相の目に留まり王太子付きの政務補佐官に推薦されたとか。


 それでもあの日の負い目がある限り、私に許されたのはただ、遠くから見守ることだけだった。自分が王立文化研究所に出仕し始めて宰相室で彼と再会しても、忘れられたのならそのままにしていようと思っていた。知らぬ振りを決め込んで、敢えて見て見ぬ振りをしていた。直接仕事上の遣り取りをするようになると、昔よりもより大きくなっていく自分の気持ちを抑え込み固く蓋をした。ああ言えばこう言う、目障りで鬱陶しい一技官との認識で居られるように。 


「トリア、何とか言ってほしい」


 頬に手が掛かり顔を上げさせられた私は、うっすらと涙の膜を張った瞳を瞬かせた。すぅっと一筋涙が零れ落ちる。指で拭う優しい感触が伝わり、次いで眦に柔らかなものが触れた。それが彼の唇だということにしばらく気付けないほど気持ちが動転していて、息を詰めたまま余計に何も言えなくなってしまう。


 「……悪かった、昨日の今日だからな。急がない、ここまで十年待ったんだ、まだ待てるさ」


 何かを吹っ切るようにぽんと私の頭に手を置いて、彼は私を解放して立ち上がった。離れていく温もりが途端に惜しくなる。ほら、男性優位の世界でここまで気を張って闘ってきたのに、彼の手を取ると駄目になりそう。でも。それでも。


「トリア、今日もこのままここに泊まってくれ。ハリスンがいろいろ準備している。昔の君を覚えているんだ、歓迎しているよ。それから、」


 扉を開けて出ていく間際にすまなそうに付け足した。


「……両親が君に会いたがっている。午後のお茶の相手をしてやってくれないか」


 ますます私の思考は固まった。シュバルツバルト侯爵夫妻は留守じゃなかったのか。今更どうして私と会いたがる? そんなことがある筈ないのに。

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