第41話 番外編 妻の仕事が忙し過ぎて

 ちょっと長く昼休みを取ってしまったかな? ちょっとだけのつもりだったけど。


 あまりにも日差しが気持ち良くて、と言い訳を口の中で呟きながら、修復室室長のフローデンが仕事場に辿り着くと、そこには腕を組み、壁に背中を凭せ掛けた無表情のジークフリードが待っていた。


「ずいぶんごゆっくりでしたね。昼休みはとっくに終わっていると思いますが?」

「そ、そうだね、ちょっと遅くなってしまった。ごめんごめん」


 誤魔化すように早口でそう言って、ジークフリードの側をすり抜けて扉を開けようとしたのだが。


「フローデン室長、今日は宰相補佐官として話があります」


 纏う空気の温度が一気に下がった。さあどうぞ、とジークフリードはフローデンの背中を押した。何を言われるのかとフローデンは怯えたが、逃げ場は無く覚悟を決めた。


 ◆


 中に入るとダンテとコーエンの技官二人が既にソファに座っていた。というより座らされていた。前でセシルが仁王立ちになって二人を見張っている。


「セシル、ご苦労。室長が戻って来られたから、これから皆に話がある」

「はい、ジークフリード様。ではお茶を淹れますね」

「お茶はいいから、君もそこへ座りなさい」


 室長には技官二人と並んでソファに座るよう指示し、セシルはすぐそばの椅子へと腰掛けた。一応三人掛けのソファだが、男三人には少々キツイ。しかし正面の一人掛けソファに深く腰掛け、おもむろに長い足を組んだ補佐官に、威嚇するような目付きで睨まれるともう動けない。


「さっそくだが、トレイシー技官が独りで仕事を抱え込み過ぎている件について、話が聞きたい」


 そう言って、ジークフリードは鋭い眼光で目の前の男三人を順々に見遣った。だがセシルには、『妻の仕事が忙し過ぎて俺にかまってくれない件について』と言ってるように聞こえた。多分、空耳。


「あ、でも、彼女は新人技官なので、……」

「新人技官だとして、それが何か関係しているのか」

「で、ですから、新人が事務官と共に書類仕事をすることになっていて……、彼女が任官してくるまでは僕が今の彼女の仕事もしていた訳で、……」

「ダンテ技官、勿論それは知っている。あの頃、ここの部門から上がってくる書類はどれもこれも酷いものだったからな」

「そんなぁ、あれでも頑張ったのに」


 これ以上は堪えられないと、工芸修復担当のダンテは今にも泣きそうな顔で冷然とした補佐官から目を逸らした。


「確かにトレイシー技官に代わってからは、こちらが手直しする手間も無く、たいへん助かっている。だがそれだけトレイシー技官に負担が掛かっているのではないかと問うている。しかも全ての書類仕事を彼女一人に押し付けているのではないかと思われる節がある。先日トンプソン事務官から人手を増やして欲しいとの要請を受けた訳だが、宰相室としては、はいそうですかと簡単に人を増やす訳にはいかない。意味は分かるな?」


 言葉を切ってわざとじろりと目の前の三人を睨み付けた。


「ダンテ技官は、工芸専門だったか、そしてコーエン技官は彫刻か。そしてフローデン室長は古代遺跡の調査研究と古文書の修復でしたか。君たちの担当の分までトレイシー技官が処理しているようだが?」

「あ、えーっ、と、僕らが書くよりも彼女が書いた方が的確で正確なんですよ。その方が申請が通り易いというか、」

「ふうん。専門である絵画部門以外の申請書類の作成も彼女が一人で担っているということだな。だとしたら、なるほど本来の絵画の修復作業が捗らない訳だ」

「や、そんなことは、」

「昼間は書類の作成にかまけているから、終業時刻が過ぎてからしか作業が出来ないとトンプソン事務官から聞いているが?」

「ええ、その通りです、宰相補佐官」


 セシルは言い訳を考える三人に向かって、んべーっと舌を出した。うらぎりもの!と言わんばかりの視線を寄こされたが、こればかりは譲れない。アンがどれだけ大変なのか思い知るがいい。


「部下の仕事の調整管理をするのは、フローデン室長、貴方の仕事の筈だが、どうなっている?」

「え、いや、トレイシー君はとっても優秀でね! 何も言わなくても何でもやっちゃうんだなー」

「彼女が優秀なのは重々承知だ。だが、やっちゃうんだな、とは聞き捨てならない。貴方の管理能力を疑わざるを得ないな」


 そう言われると言葉も無く、しおしおとフローデンは項垂れた。


「しかも、フローデン室長、貴方は今日は在室しているのに、どうして代わりにトレイシー技官が会議に出席している?」

「え、えっとぉ、今日の議題はトレイシー君担当の、王家の美術品目録作成に関しての話し合いだから、だ、よ?」

「室長クラスが集まると聞いているのだが?」

「ぼ、僕が行くよりも適切だからね」

「まあ、そういうことにしておきましょう。今日の会議に関しては、ですが」


 ジークフリードの先ほどよりも更に温度の下がった冷たい瞳で、フローデンの視線をなぎ倒した。びくびく怯えるフローデン室長を見て、まるで蛇に睨まれた蛙のようだとセシルは思った。いや、鷲に睨まれた兎か。


「だいたい、トレイシー技官の抱え込んでいる仕事の一覧をトンプソン事務官に作成してもらったが、どう考えても多過ぎる。あまりに負担だ。彼女は絵画修復士として任官している筈だが、こうも本来の仕事が出来ないような状況では、人事としては口を出さない訳にはいかない」

「あの、では、どうすれば……、?」

「そこを考えるのが貴方の仕事だろう?」


 薄っすらと口角は上がっているのに目は全く笑っていない。こんなにも冷たい顔をする人だったのかと改めて三人は思い知った。ここへ出入りする時の補佐官は、声を出して笑うことはないにしても、皆の噂ほど冷たい人物ではないと思っていたのだが、嘘のようだ。


「は、はい、善処します、……でも補佐官、トレイシー君は本当に自分で仕事を増やしてるんですよ。そこら辺は分かってほしいです……」


 先ほど話に出た美術品目録の作成なんかは年間計画では元々無かった話なのだ。それを絶対に作るべきだと主張して予算付けから本当に印刷手前まで漕ぎつけてしまった。王家所有の離宮の一つを平民にも解放する美術館にする話だってそうだ。美術への関心をもっと持ってもらう為に、裾野を広げるんだという理想を掲げて、今王家を説得しているのだ。こちらが止めても本来の仕事だけを大人しくしている人でない、というのが室長以下修復室全員の共通認識だった。


「それは、……否定出来ないな」


 そこを突かれるとジークフリードも弱い。アンの中にはたくさんの夢が詰まっていて、それが叶う立場に居るからやたらとやりたいことが増えてしまっているのだ。少し加減をさせないと、そのうち体調を崩して倒れてしまう。それにこんな状態で結婚式を挙げても、変わらず仕事に邁進して二人の時間が取れるかどうか心許なく、実はそこが彼にとっては一番の関心事であった。こうして文句を付けに来たのは、ほぼ私情とも言える。だが彼女の身体の状態を心配しているのも事実だった。


「しかしその事ではないのだ。だからこそせめて事務仕事だけでも皆で分担せよと私は言っているのだが、分かってもらえないだろうか? 担当の者が書類を作成する、会議に出るのも担当の者が出る、それは当たり前のことだろう?」

「はい、補佐官の仰る通りです、我々も努力しますので……」

「分かれば宜しい」


 ジークフリードの目元がほんの少しだけ緩み、三人は息をつく事が出来た。


「補佐官、では人は増やして貰えないのですか?」

「悪いがセシル、こちらにも予算という壁がある。室長の采配を見極めてからになるな。勿論、皆の査定もだ。それに拠っては修復室の予算も左右されると思ってもらっていい」


 そんな分かり易い脅しを掛けてジークフリードは立ち上がった。と同時に扉が開いて件くだんのアンが入ってきた。会議が終わったらしい。自分の夫の姿に目を留めると、ぱたぱたと彼の元へと走り寄った。そうして書類を抱えたままにっこり笑って夫の麗しい顔を見上げた。


「どうかしましたか? 何か御用でしたか?」

「いや用事は済んだよ。会議はどうだった?」

「皆さんの承認を得られましたので、確認済みのリストを集めて貰って、さっそく印刷にかかります。多めに予算を認めて戴けたので、兄にも協力してもらうことにしました。兄の書体を題字に使おうと活字を創ることにしたんです。より良い上質紙も手に入りましたし、言うこと無しです」


 本当に嬉しそうに活き活きと会議の報告をするアンと、それを笑みを湛えた柔らかな顔つきで目を細めているジークフリードを、それこそ有り得ない思いで見る三人だった。


 誰だよあれ、別人? とダンテが呟く。

 あの二人、本当に婚約してたんだな、とコーエンが嘆く。

 トレイシー君が居るから絶対零度の懐刀が発動しなかっただけだったのか、とフローデンが頭を抱える。


 いつもの見慣れた光景だとセシルだけは思い、会議で疲れたアンの為に、ついでに冷え切った男性陣の為にお茶を淹れようと立ち上がった。


「そうそう、見本が上がってきたのです。見ていただけますか?」

「悪いがそろそろ仕事に戻らねばならない。帰ったら邸で見せてくれ」

「そうですね、お忙しいのにごめんなさい」

「君が謝ることはないよ、トリア。ではな」


 愛しい妻の髪をひと房掬い取ってキスを落とすと補佐官は出て行った。それを小さく手を振って見送り、くるりと身体を反して、それでどんな話を?と皆に笑顔で問いかける。


「まあ、その、なんだ、……、改めて書類仕事の分担を話し合おうか」


 そうフローデン室長が口を開いた。査定を落とされては堪らないと、ぶんぶん首を縦に振ったダンテとコーエンだった。

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