第20話 黒伯爵と銀の髪 04


 近衛に馬を返した頃には辺りはもう薄暗くなっていた。終業時刻はとっくに過ぎている。王太子妃殿下とのお茶会のあとは、絵画の修復作業をするからとアンは朝に宣言していた。本当は一日中でも篭っていたいに違いない。


 作業室は半地下にある。回廊はもう真っ暗になっていたので、灯りを入れながら半端な階段を降りていく。目的の部屋の扉は半開きになっていたが、しんと静まり返っていて人の気配は感じられなかった。足音を消してそっと部屋の中へと進み、奥にあるもう一つの扉の前に立った。


 聞こえるかどうかのぎりぎりの音量で扉を叩く。


「――アン、入るよ」


 囁くように声を掛ける。思った通り、アンはこちらに背を向けて大きな作業台の上に屈みこんでいた。大きなエプロンを身に着け、髪も落ちないように背中に緩く纏めている。何本もの筆がそこらに散らばり、絵の具や知らない道具が台の上に散乱している。真剣な面持ちで、視線は重そうな画集と小さな絵の上を何度も行き来して、息を詰めて絵筆を細かく動かしていた。


 セシルは一度尋ねたことがある。自分のオリジナルを描かないのかと。彼女からすれば、アンは素晴らしく才能があるように思えたのだ。何も修復なんて地味な作業を仕事にしなくても、と。するとアンはちょっと困ったように微笑んで、自分はどうも目が見え過ぎて、どんな絵を描いても誰かのタッチの真似にしか見えないのだと答えた。何処かで見た絵画の模写にしかならないのだと。


 セシルには理解の及ばない話だった。だがその時、彼女は“主”の意向を飛び越えて、この方を、この才能を守りたいと純粋に思い誓いを立てたのだ。


 セシルが王宮の事務官に採用された直後、父トンプソン男爵と共に主のシュバルツバルト侯爵から命を受けた。嫡男ジークフリードの“影”として働くようにと。そしてそれは、ヴィクトリア・アンの護衛の意も含んでいた。端的に言うと、セシルが修復室に配属されたのは、主ジークフリードの意向ということだ。そのことはアンには知らされていないことだった。


「アン、もう外は暗いよ。お茶を淹れるから一度上に戻ってきてね。確か、夕方からマイクロフト様と打ち合わせとか言ってなかった?」

「……あと少しだけ」とアンは手を止めることなく答えた。聞こえてるなら大丈夫だ、きりのいいところで上がってくるだろう。


「お土産に買ってきたお茶を淹れるから、ちゃんと戻ってきてね」


 セシルは念押しでそう言いおいて、アンを残して静かに扉を閉めた。


 ◆ 


 誰もいないと思って修復室の扉を勢い良く開けると、そこには王太子殿下の秘書官マイクロフトと政務補佐官ジークフリードの二人が何やら真剣な面持ちで話をしていた。


「どうしてここにいるんですか? 会議なら宰相室でやってくださいよ」


 挨拶もすっ飛ばして、思わずそんな言葉が口から出てしまう。ここは修復室だよね?


「トレイシー嬢と約束している」

「トリアを迎えに来た」


 二人の声が重なった。補佐官殿は秘書官殿を冷え切った視線で睨ねつけている。


「アンは作業室にいます。もう少しで戻って来ると思いますよ」と、これはマイクロフトに向けて。

「ジークフリード様、……アルと会われましたか?」次にジークフリードへと問い掛けた。


 マイクロフト様もアルのことはご存じだ。話をしてもいい筈だ。


「今夜報告を受ける予定だ。……トリアには言うな」

「分かってますって。……お土産にお茶葉を買ってきたんです。そうだ、マイクロフト様、こちらをどうぞ」


 セシルは可愛くラッピングされた茶葉の缶をマイクロフトに差し出した。お菓子のお礼です、そう言いつつにっこり笑いかけた。マイクロフトも嬉し気に受け取る。


「ありがとう、セシルちゃんは優しいなあ。嬉しいよ」

「……その黒馬のラベルは皇国産のものだな。あちらでも人気のものだ」

「お前、そんな知識も頭に入ってるのか。ちょっと容量が多いからって嫌味なヤツだな」

「どういう意味だ」

「そういう蘊蓄は買ってきたセシルちゃん自身から聞きたかったんだよ」


 いやいや、蘊蓄っていうほど語れないけれどね。ジークフリード様の言う通りだし。


「それとは別の香りの買ってきたお茶を淹れますね」


 温めたカップをトレイにセットし、焼き菓子も添えた。そろそろお茶の蒸らしが終わるかという頃になって、漸くアンが戻ってきた。顔触れを確かめてからジークフリードの隣に腰掛けた。眼鏡を外して目を擦っている。かなり疲れているらしい。ジークフリードを一瞥したが彼には何も言わずに、マイクロフトに話し掛けた。


「マイクロフト様、遅れて申し訳ありません。エカテリーナ様の行事予定について、確認したいことがありまして」

「お疲れ様。大丈夫かい? 何なら明日の朝でもいいんだけれど」

「いえ、今日のうちに擦り合わせをしておきたくて……」


 二人で書類を見ながら顔を突き合わせて話していると、半分捨て置かれたようになったジークフリードがアンのほつれた髪に手を伸ばして掬い取って口元に寄せている。アンは好きにさせているが顔を向けようとはせず、真っ直ぐにマイクロフトと向かい合っていた。アンはすっかりお仕事モードだ。この夫婦はお互いの仕事を尊重して絶対に邪魔しないと誓いを立てているらしいが、端で見ているとアンのほうが邪魔されることが多い気がする。普段の冷徹なジークフリードしか知らない人が見たら驚くだろう。とはいえ、ここに居るセシルとマイクロフトが二人の関係性を分かっているからこその行動だが。でなければ、二人して素知らぬ顔をしているに違いないのだから。


「はいどうぞ、マイクロフト様。差し上げたのとはまた違う香りのものです」

「ありがとう。いい香りだね」とマイクロフトはにこやかにカップを手に取った。

「とてもいい香り。りんごかしらね」


 嬉しそうに表情を緩めるアンは一口含んで、美味しいと呟いた。それを見ているとセシルも買ってきた甲斐があったと満足する。


「そう言えば、セシルちゃんは巷で噂の若手が集まるパーティーに出たりするのかい?」


 カップに口を付けたままマイクロフトがそんな話を持ち出した。


「ブラック商会後援の三十歳以下限定とかいうパーティーですか? それなら女官や事務官の間でもけっこうな話題になってますよ。何でも珍しいお菓子や飲み物を試す事が出来るって。ちょっとはっちゃけてるイメージですね」

「そっか、やっぱり話題になっているのか」

「私は参加したことありませんけどね。……そう言えばみんな騒いでましたね、ブラック商会主宰の黒伯爵に出会えるかもって」


 普段忙しくて若手向けの集まりなどに参加することのない三人がセシルの方を向いた。


「黒伯爵って?」

「ええと、ジークフリード様が婚約なさったので、次のターゲットってとこですかね」


 へええと興味剝き出しのマイクロフトと、表情を消したジークフリードが対照的な反応で、セシルは面白く思った。アンは目を細めて焼き菓子を味わっている。どうやら興味が逸れたらしい。


「かなりな長身で黒髪に漆黒の瞳、粋にハットを被って、いつも全身黒の正装で現れるそうですよ。その姿が何とも魅力的なのだとか」

「……ジークよりも?」


 そう聞いたのはマイクロフトだ。彼自身はふわふわした茶色の髪に緑の目を持っていて、美丈夫とはいえないが茶目っ気があり明るい気安さとで、なかなかの人気者なのだ。王太子の優秀な側近であり子爵令息でもある彼も、優良物件には違いない。まだこれというお相手には巡り合っていないようだけれど。


「俺はどうでもいい」

「だってさ、先だって殿下の付き添いで参加した舞踏会では、ダンスのお誘いが引きも切らなかったじゃないか。婚約したって変わらずモテてたよ」

「へえ。初耳ですこと」


 相変わらず隣を見ようともしないアンが、目の前のカップを見つめながらぽつりと零した。それを聞いて慌てたようにジークフリードは言葉を紡ごうとしている。大変レアな状況に、セシルとマイクロフトは見逃すまいとじっくり観察するように凝視してた。


「仕事として出席したから誰とも踊ってない。殿下のお側に侍っていただけだ……マイク、後で締め上げる」

「踊られたらよろしいのに。私はそこまで束縛しませんよ」

「何言ってるんだ、君以外と踊る気はない」

「そうなのですか? わたくしがまるで理解のない婚約者のようですね。遠慮なさらずにどうぞ皆さまとも踊って差しあげて?」

「トリア、怒ってるのか?」

「いいえ、怒ってませんわ」


 だんだんと二人の世界へ入っていくのを、セシルはどうしたものかと助けを求めるつもりでマイクロフトの方を見た。彼は半眼で諦観の表情だ、いや呆れているのかも。


「そ、れ、で、! 黒伯爵ですけどね!」と無理矢理に声を荒げて話を元へ戻す。


「何でも最近亡くなられたフォレスト伯爵の養子になられていた方で、ええと、お名前がベネディクト・ブラック・フォレストだったかな。爵位を次いでから初めて社交界へと出て来られたようです。だから成人してのデビュタントは経験されてないのかもしれません。夜の正式な夜会には姿を見せないようなので、養子ってことに遠慮があるのかも。いずれにせよ、ここ数か月の出来事です。だから皇国に行かれていたお二人は知らなくて当然ですね」


「……僕も知らなかったな。だいたいジークがいないと途端にいろいろ滞ってしまって。殿下も頑張ってくれたけれど、ケアリーが悲鳴を上げてて、皺寄せが僕にも……」

「ケアリーには悪いことをした、何しろ急なことだったから。……まあいい、黒伯爵とやらにはまた会える機会もあるだろう」

「……ジーク、貴方、急なことだったの?」

「そうだよ、トリア」


 何やら思うところがあるらしいアンは、じっと夫の顔を見たが、それ以上は何も言わなかった。それからは他愛のない雑談に終始した。


「……マイクはこの後、殿下の処へ戻るのか?」

「いいや、このまま帰るよ」

「では、セシルを送って行ってやってくれないか。外はもう暗い」

「了解、お安い御用だ」

「トリア、一緒に帰ろう。馬車を待たせてあるから」


 アンは机に積んでいた資料を片付け始め、セシルはお茶の道具をさっと片付けた。補佐官と秘書官は、口論じみた言い合いをしている。なんだかんだで仲がいい。殿下は果報者だ、こんなに優秀な側近を揃えられて、とつくづく思ったのだった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――


 ◇「トリア」というのは、ヴィクトリア(アン)の家族とジークフリードのみに許された愛称です。

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