第26話 黒伯爵と銀の髪 10
ジークフリードと別れ、まだ多くの人が歓談する中、ヴィクトリアは兄のウィルフレッド、セシルとその兄リチャードと共に席に着いた。給仕のメイドがすぐに飲み物を用意しようと近づいてくる。サンドイッチやマフィンといった焼き菓子が用意されてテーブルの中央を花と共に彩っている。
「ヴィクトリア、仕事はもういいのかい?」とウィルフレッドが優しく尋ねた。
「え、ええ、お兄さま、皆さまあまり絵画は見に来ては下さらないし、もう、……」
ヴィクトリアは、言葉を濁して俯き頬を染めている。セシルはいつもの呆れ顔だ。誰もが通る回廊で抱擁とは。いつものことだが、我が主にはもう少し場所を弁えてもらいたい。
「ウィルフレッド様は、王妃様にご挨拶は済ませましたか?」
「お気遣いありがとう、セシル嬢。王妃陛下には早めにご挨拶してきたよ。先ほど国王陛下ともエドワード殿下ともお話し出来たから、ウィンチェスター家としての義務は果たせたかな」
にこにこしながらウィルフレッドは応えた。ウィンチェスター公爵夫妻はほぼ領地に引き籠っていて、王都のタウンハウスは嫡男ウィルフレッドとその妻メイベルが差配している。身重の妻の状態も考えての王都滞在であった。
「トンプソン卿は済ませたのかな?」
「はい、セシルと一緒にご挨拶いたしました。今日は俺も父代理なので、緊張しましたが何とか」
「近衛騎士なのだから慣れているだろうに」
「いえ、お側でお護りするのとは勝手が違いますから」
リチャードは護衛としてでなく、こういったパーティーに参加することは少ない。しかも公爵家の人間と席を共にするのも初めてだ。王妃や王族方への挨拶は勿論、現在進行形で緊張が続いていた。
「リチャード兄い、ウィルフレッド様もヴィクトリア様も兄いを取って食わないから大丈夫だよ?」
「お前は気軽過ぎるぞ。失礼の無いようにな」
「セシルにはいつも本当にお世話になっていますのよ。リチャード様もお楽になさって下さいまし。ほら、お飲み物がきました、戴きましょう」
セシルとヴィクトリアには紅茶が、男性二人にはワインが届けられた。すっかり公爵令嬢モードのヴィクトリアが見るからに高級そうな薄手のカップを優雅に取り上げた。香り高い高級茶葉を使っていることが飲む前から分かる。一口飲んだ途端、セシルは目を輝かせる。
「うわっ、このお茶凄く美味しい……!」
「こら、セシル、もっと上品にしなさい」
「だって、これ、今までで一番って言っていいほど美味しいよ」
「本当ね、とっても美味しい。エカテリーナ様が試飲されていたから知っているけれど、こないだセシルが買ってきてくれたものと同じところのものよ」
「ああ、あの! 黒馬のラベルね」
「ちょっと失礼をば」
紅茶の味を褒めまくるセシルの横手に影が差した。そこには見慣れない長身の男性が立っていた。緩やかなうねりのある黒い髪にハットを乗せて、なかなか甘く麗しい顔付きの人だった。全身を黒の上品な正装に身を包んでいて、なるほどジークと並んでも引けを取らない美丈夫だとヴィクトリアは思った。この人が噂の黒伯爵に違いない、と。
「私どものお茶の誉め言葉が聞こえては黙っていられませんでした。紅茶をお褒めいただきありがとうございます。こちらは我が商会で扱っている茶葉なのですよ」
「黒馬のラベルの? かしら」
「良くご存じだ、そのまま『黒馬』というブランドで通しています。王都では扱い始めて間がないのですが」
「実は、エデルで見つけたんですよ」
「ほう」
何やら感心したかの如く指をぱちんと鳴らしてみせた。手品でも始まったようだったが、そうではなく一人の従者らしき人物が音もなく寄ってきて、小さな包みをたくさん入れた籠を差し出した。
「どうぞ、お目の高いお嬢さん。こちらは新商品のサンプルです。お気に召されましたら是非、お買い求めを」
真っ直ぐにセシルを、セシルだけを見つめて包みを手渡した。まるで彼女を希うかのようだった。珍しくもセシルは目を泳がせて耳を赤く染めている。それを見ていたウィルフレッドが穏やかに問いかけた。
「君は、見かけない顔だがどなたかな?」
「これは申し遅れました。ベネディクト・ブラック・フォレスト伯爵と申します。輸入品を扱っておりますブラック商会の主宰をしております。以後お見知りおきを」
「ああよろしくね。私はウィルフレッド・ウィンチェスターだ」
「これはこれは。名高いウィンチェスター公爵家の方でしたか。ではそちらのご令嬢は、奥方様? ではないようですが……」
「わたくし、妹のヴィクトリアと申します。ブラック商会と言えば、今度研究所で購入予定の東方国の紙をそちらから買い付けることになっていますわ。どうぞ、よろしくお願いします」
ヴィクトリアが立ち上がって挨拶をする。目礼は返したものの、しかし彼の視線はすぐにセシルに向けられた。本人も計算ずくなのだろう、気障な言い回しと態度だった。騎士の如くセシルに向かって礼を取り、くるりと踵を返して、次のテーブルへと向かっていった。
「……何だかわたくしは無視されたようだわ」とヴィクトリアが唸る。「あの方ずっとセシルを見ていたわね」
「そうだね、あれが最近話題の黒伯爵かい?」
「はい、ウィルフレッド様。護衛として参加した別の夜会でお見かけしたことがあります」
「しかし、あの立ち姿はジークフリードを彷彿とさせるね」
「お兄様もそう思われました? 何というか、顔は違うのに纏う雰囲気が似ている気がして」
「トリア、それはジークフリードに言わない方がいいよ。ね? セシル嬢……セシル?」
ウィルフレッドがセシルに声を掛けるが、彼女の目は先ほどのフォレスト伯爵を追っていた。こんなふうになるのは珍しく、リチャードもヴィクトリアも驚きの面持ちで彼女を見つめるが、本人はどうやら気付いていないようだ。兄であるリチャードは複雑な思いでセシルの肩を軽く叩いた。
「……セシル? お前、どうした?」
「え? はっ? 何? どうしたの? 兄い」
「どうしたの? ってこちらが聞きたいんだが」
呆れたようにセシルの顔を覗き込んだ。彼女は視線を兄から移し、さっき受け取ったサンプルだという包みを両手で大事そうに抱え込んで、そっと自分の膝の上に置いた。何でもないの! と宣言してお茶を飲むべくカップを取り上げた。やっぱり美味しい、と緩んだ頬がゆっくりと赤く染まっていくのを三人は唖然として見つめていたのだった。
「セシルったら珍しいわね」
「何というか、恋に堕ちた瞬間を目撃したかも知れないね。詩でも詠いたくなったよ」
「今まで興味がないのかと思っていましたけれど、……相手がちょっと、心配ですよ」
三人でこそこそと小声でセシルの様子を話しているが、当の本人は静かにお茶を飲みながらも視線は黒伯爵を捕らえたままだ。黒伯爵はあちらこちらとテーブルを回り乍ら、サンプルを配って歩いている。何もセシルだけが特別じゃなかろうと思うが、しかし先ほどの不躾とも言っていいセシルへの接し方は何だったのか。リチャードは兄として酷く不安を抱え込んだ。
何やら歓声が聞こえてくる。所謂黄色い声というやつだ。見ると、黒伯爵が王太子相手に挨拶をしている。後ろに控えていたジークフリードが前に出ると、引き合わせられたのか、黒伯爵と握手をした。その二人の立ち姿を見ての先ほどの黄色い歓声だった。黒い髪のフォレスト伯爵と銀の髪のジークフリードは、驚くほど背格好が似ていた。さっきの予感は当たっていたらしいとヴィクトリアは思った。
「……お兄様、何だか不思議な眺めですわ」
「本当に良く似て見えるね」
「だとしても、わたくし見間違えたりしませんけど」
「……それは惚気かい? トリア。困った妹だ」
「いや、遠目で見ているとまるで兄弟のようですよ。そう思わないか? セシル」
兄に声を掛けられても気付かない様子で、セシルは黒と銀が並び立つ姿を浮き立った瞳でうっとり眺めていた。
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