第17話 黒伯爵と銀の髪 01


 彼女の一番古い記憶は、背中を鞭打たれ痛みをただ堪えて蹲っていたという嫌な記憶だ。流す涙も枯れ果てて、身体も動かなくなり、幼いながらもこのまま虫けらのように死んでいくんだと思っていた。実際、それから気を失って倒れていたらしい。次に気付くと柔らかな寝台に寝かされていた。ぼんやりと目を開けるといかつい顔が覗き込んで全く似合わない笑顔を向けていた。


「おお、気が付いたのか。気分はどうだ」


 恐ろしさを感じる鋭い眼光のまま、そんなことを尋ねてきたが、訳が分からなかった。ここは良き行いをした人が死んでから辿り着くという天国なのだろうか、それとも悪い人が落ちる地獄で彼はそこの番人なのか、とかなり本気で思ったことを覚えている。


 何も答えないままの女の子を、その厳つい顔の親父はいそいそ自ら世話をしてくれた。軽い食事や湯浴みを済ませ、小ざっぱりしたところでこんな事を言い出した。


「帰る所がないのなら、このまま置いてやってもいい。将来俺の主人に仕えると誓えるか?」


 たった五歳で行く末を決めねばならなかったが、他に宛てがある訳もない。食べるものと寝るところを与えてくれるのならば何でも良かった。


「ところで名前は何という?」

「……イータ」

「? それは名前なのか?」

「七番目に拾われたからイータって呼ばれてた」

「つまらんな、実に面白くない」


 名を答えると、恐ろしいほどの殺気を放って吐き捨てた。


「もっと可愛らしい名前にしよう、――セシル、……セシルはどうだ?」

「セシル?」

「うん、今日からお前はセシルだ」


 にっこり笑うその顔はやっぱり厳ついままで、何ともちぐはぐだった。でも漸く心から安心出来たセシルは、またもや意識を手放してしまった。慌てる親父の顔が面白いと思いながら。


 ◆


 そろそろ終業時刻を迎える夕刻、修復室の扉を開けると、アンがいつものようにうず高く積まれた書類に埋もれていた。どうしてそんなに決裁書類が湧いて出てくるのか、セシルには理解出来ない。もっと効率良くならないのかといつも思う。


「ただいま、アン。ほら、宰相室でサイン貰ってきたよ」


 顔も上げずにペンを動かしていたアンは、ありがとう、とだけ言って棚を指差した。ファイリングしろってことだよね、ちゃんと言葉にしなさいよ、と小声で文句を垂れながら、それでもきちんとファイルして書類を仕舞い込んだ。


「お茶淹れるね」


 セシル自身が飲みたいこともあるが、無理やりにでも休憩時間を作ってやらないと、いつまでも書類と格闘しかねないのだ、アンは。呆れた仕事中毒人間である。


 扉を叩く音がする。さっき宰相室に行った際にお茶に誘っておいたシュバルツバルト補佐官が入ってきた。疲れた様子で何も言わずにソファに沈み込む。まったく、疲れていてもその整った顔は大変な魅力を放っている。美しい人は何かとお得だな、とセシルは思った。お湯を沸かしながらアンに声を掛ける。


「アンってば、旦那様が来たわよ」


 まだお披露目の結婚式は挙げていないものの、この二人、アン・トレイシーとジークフリード・フォン・シュバルツバルトは実は婚約関係にある。というか実質夫婦である。二人して研修生として隣国へと派遣されていたが、先に帰国した補佐官に続き、先だって漸くアンが帰国した。行く直前に婚約した二人が揃ったところですぐにでも結婚式かと思いきや、そのままの状態が続いている。忙し過ぎるのだ二人共に。


 セシルは二人に背を向けてお茶を淹れ始めた。


 眼鏡を外したアンが立ち上がり、補佐官の隣に座り無防備に身体を預ける。いつものように何度か口付けを交わして、ジークフリードは彼女の首筋に顔を埋めて抱き締めた。


 この二人が実は婚約していることを知らない人もまだ大勢居る。というより、アン・トレイシー技官がヴィクトリア・アン・ウィンチェスター公爵令嬢だと思っていない人がほとんどだ。シュバルツバルト補佐官がウィンチェスター公爵令嬢と婚約したということは知っていても、それがアンに結び付いていないからややこしいし、面白くもある。


 いつまでこの状態を続けるのか、そろそろきちんと公表すればいいのにとセシルは思っている。人目を忍ぶようにここで逢瀬を重ねなくてもいいようになるのに。そう、ここで! わざわざ、ここで!


 まだ男性と付き合ったことのないセシルにとって目の毒にしかならないのだ。


「もういいかなー?! お茶出すよー」


 一応声を掛けてからトレイを持ち上げて振り向いた。


 しれっと無表情に戻った補佐官と、ちょっぴり頬を染め、でもぴったりと身体をもたせ掛けたままのアンを見遣る。


「もう、さっさと式を挙げなさいね」と一応ハッパを掛けておく。


「ありがとう、セシル。このお菓子はどうしたの?」

「お菓子はさっき宰相室でマイクロフト様に戴いたの。……私の言ったこと聞いてた?」

「美味しそうね、戴きます」


 流石に公爵令嬢は作法が優雅だ。カップを取り上げる仕草も無駄に美しい。その隣で、マイクのやつ、と呟く補佐官。


「貴方も召し上がれ? いいお味ですよ」

「マイクのお菓子は下心付きだな」

「嫌だ、そんな歪んだ解釈しないで下さいね。それで、結婚式はどうするのですか? わたくしも聞きたいですわ」

「……時間がない」

「いつまでも婚約しただけでは済みませんよ? けじめは必要ですから」


 やたらと丁寧な言葉遣いになっていくアンは、実は安心しきって甘えている証拠だ。素に戻って公爵令嬢と化している。


「母上と同じことを言うんだな。すまないトリア、ちゃんと考えるから」


 補佐官は寄り添っている公爵令嬢の唇をご丁寧に親指で拭ってから、口の端にキスをする。アンが蕩けたように赤くなりながら、微笑み返して唇を重ねる。甘い。どっぷり蜜に漬かっている気分だ。


 束の間の休息だからいいんだけれど。二人共忙しいのは分かってるから、大目に見るけれど。


 王太子殿下夫妻の覚え目出度き側近中の側近の彼らも、こうしているとただのバカップルである。まったくもう、……セシルは毎日目の前で繰り広げられる恋人同士の逢瀬に困って呆れ果てているのだった。


「今夜はどちらへ帰られますか?」


 立ち上がる補佐官にアンが問い掛けた。


「邸には戻れない。明日は朝から殿下に付き合わなければならないから、宿舎で寝るよ」

「分かりました。お邸への連絡はわたくしが入れておきます。宿舎でお待ちしていますね」


 夫を見上げ、首を傾げて可愛らしく口角を持ち上げる。アンはとび抜けて美人と言う訳ではないのだが、優しさの滲み出た可憐で愛らしい笑顔の持ち主だ。彼女に微笑まれれば男としては奮起するしかないだろう。正に傾国の微笑み。いつも不愛想な面持ちで仕事をしているくせに、アンにだけは愛おしそうな目を向けるジークフリードは、嬉し気に頬を緩め、その髪にキスを一つ落として部屋を出て行った。


「……アンタたち、いい加減にしてよねー」


 すんと眼鏡を掛け直して書類仕事に戻ったアンに文句を言う。えへへ、なんて嬉しそうにしている彼女を見ると、まあこっちも幸せをお裾分けされて悪い気分じゃない。それにあの補佐官の顔面偏差値は異常に高くて眺め甲斐がある。アンに向けた笑みの破壊力足るや……! ここで働く役得だ。


 カップを片付けようと補佐官が使っていたものを持ち上げると、一片の紙が置かれていた。セシルはアンには気取られないように握り込んで、流しへ持って行ってから書かれた伝言を読んだ。暫くして小さく、了解、と呟くとその紙を火をつけて処分した。


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◇イータ(θ)7番目のギリシャ文字です。7番目に拾われたので、イータ。

◇専門技官アン・トレイシー子爵令嬢は、ヴィクトリア・アン・ウィンチェスター公爵令嬢と同一人物です。状況に応じて、『アン』『ヴィクトリア』と使い分けます。ご承知下さい。

◇アンは、王立文化研究所所属の絵画修復技術を持つ専門技官です。

◇文化財保存修復部門事務室、略して修復室と呼びます。セシルは修復室付きの事務官です。

◇ジークフリードは、エドワード王太子殿下の政務補佐官の一人です。

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