第8話 磨かれる


 とりあえずお湯をどうぞ、と手早く文官の制服を剝ぎ取られた。目に優しいクリーム色の浴室で、使われる石鹸や香油の香りがたまらなく心地いい。しばらく寮で一人暮らしをしているので、実家の侍女たちの手を思い出しながら久しぶりの感触にうっとりとしてしまう。


 促されて浴室内のベンチに寝そべると、これまた香り高いオイルでのマッサージが始まった。そこまでしなくてもいいと言うのをローザに全力で遮られ、ロウィーナ奥様に恥をかかせないで下さいましと懇願されるとこちらも強く出られず、為すがままになった。何故そこで奥様が出てくるのか分からないが、客人のもてなしを蔑ろにしないようにとの教育が行き届いているのだろう。


 髪や身体にいろいろ塗り込まれ、頭のてっぺんから足のつま先まで艶々になる。本当に久しぶりだ、この感じ。つくづく実家がどれだけ恵まれているのかを思い知った気分だった。


 ようやく浴室から解放されたと思ったら、今度は爪の手入れが始まった。忙しさにかまけて適当に切っているだけの手の先を見つめ、申し訳なく思った。夜会だと分かっていたのだから、少しは自分で手入れすべきだったとちょっと情けなくなってきた。同時に髪を乾かされてくるくると巻かれていく。どちらかというとすとんとしたつまらない髪質なのだが、今ばかりは亜麻色と言っていいだろう。枯草色と言うなと怒ったセシルに見せてやりたい。


 続いて下着を着けてコルセットを締める。普段は仕事し易いように締めつけないものしか身に着けていないので、これは辛い。お願いだから緩めにしてくれと訴えると、ローザはふむと首を傾げて「そうですね、筋肉も程良くついていますからそこまで締める必要はないでしょう」と笑って、しかしながら遠慮なく締められた。そうか、借りるドレスはあの白百合の君と謳われたロウィーナ様のものだ、私よりも華奢な方だから締めておかないと入らないのかもと納得した。


 綺麗にカールした髪を丁寧に結い上げ、あちこちにキラリと光るピンを刺していく。続いて顔にも丁寧に化粧を施された。地味な文官を殊更意識してきたのに、どうしたものだろうか。それでも公爵令嬢よりは控え目で遠慮がちな見た目に仕上げてある。其処らの加減が素晴らしい。ここの侍女は優秀だ。我が家に引き抜きたいほどの腕前だ。


「さあさ、ご覧あれ。ジークフリード様がお選びになったドレスです」


 ドレスを着けたトルソーをローザが嬉し気に隣室から運び込んできた。私は息を呑んだ。それははっとするほど美しいドレスだった。深い碧色が印象的で、見るからに上等で滑らかなシルクが美しい。開き具合を上品に留めたデコルテラインには繊細なレースがあしらわれており、裾に行くほど細かな刺繍が銀の糸で施されている。全体の姿はスレンダーなラインで、最新流行のデザインだ。問題は私が着て似合うのかどうか。


「ああ、アン様、とてもお似合いですよ」


 賞賛の言葉を口にする侍女たちは皆、自らの仕事に満足したようにうっとりしている。私自身大きな姿見を覗き込んで、これは馬子にも衣裳ってヤツね、と呟いた。残念だが仕上げに眼鏡をかける。うん、この眼鏡で地味な文官の子爵令嬢に見えるだろう。


 こちらもどうぞ、と高価そうなサファイヤのネックレスとイヤリングのセットを見せられた。私の瞳色だ。しかしこんな上等なものを借りていいのだろうか。ちょっと戸惑い、もう少し地味目なものはないのかとローザに問うと少し悲しそうな顔をされた。


 その時、部屋にノックの音が響いた。準備はどうかと補佐官の声が聞こえる。侍女の一人が扉を薄く開けた。


「はい、ドレスはお召しになられましたので、後はアクセサリーを……」


 入っても大丈夫かと念を押してから部屋に入室してきた彼を見て、侍女一同ほうと溜息をついている。そのまま姿見の前の私の後ろに立った。


「思った通りだ……良く似合っている」


 それは私の台詞だ。いつもは無造作に降ろされている前髪をきちんと撫で上げて、裾のポイントに銀の刺繍が施された夜会用の黒の正装を身に着けた彼はとても美しい。これは今夜の夜会では注目の的ではないだろうか。その隣に立つ地味な私はどういう顔をしていればいいのだろう。


「素敵なドレスを貸していただいてありがとうございます。侯爵夫人にも御礼を申し上げておいて下さい」

「ああ、いや、そうだな、伝えておくよ」


 珍しく目を泳がせて歯切れ悪く答えてから、これを、とパールのネックレスを差し出した。中央には大き目のエメラルドがあしらわれている。母のものだと言いつつ手づから首に着けてくれた。


「アン様、本当にお美しいですよ、エメラルドがとてもお似合いです」

「ありがとう。皆さんのお陰です。これで何とか格好が付きました」

「……ところで、その眼鏡はかけておくのか?」


 渡された揃いのイヤリングを耳に着けていると、腕を組んでじっと見ている。袖口から覗くカフスにはきらりと光るものが付いている。あれはサファイヤか。そう気付いた時、顔に熱が上がる。もしかしなくても私の瞳に合わせてきた……? いやいやあまり深くは考えまい。焦って手が滑り何度も失敗しながらイヤリングを着け終わったタイミングで、メイドがお茶を運んできた。時間が来るまでどうぞごゆっくりと皆出て行ってしまい、二人で取り残される。誰か助けてほしい……いつもとは違う緊張感が襲う。


「眼鏡がないと、ほら、私だって分かってもらえないかと思って」

「なるほど。では、かけずに行って、会場で発表されてから壇上でかけたらどうだ? 皆驚くぞ」


 ほんの僅かだが楽し気に口角が上がっている。いつもの冷たい表情ではなく、面白がっているようだ。そんな顔も出来るのかと私の方が驚いた。


「そうですね、それも一興かもしれません。どっちみち地味な顔なので代わり映えしませんが」


 自分の顔は良く分かっているつもりだ。私はそんなに美人ではない。


「そう卑下する必要はないと思うが。自信を持つといい、君は十分に美しい」


 顔色一つ変えずにそんなことをさらりと口にする。心臓の音が一気に煩くなる。これから夜会で、この美しい人のパートナーとしてダンスもしなければいけないのに。今夜、心臓、持つかしら。


「褒めても何も出ませんよ?」と茶化してお茶を飲んだ。

「褒めるのも、パートナーとしての義務だ」


 そうですか、そうですね。その手慣れたあしらい方に少しイラついた。誰にも興味の無さそうな顔をしているが、それなりに経験を積んでいるのだろう。とにかく今夜限りなのだから、昔見た夢を堪能させてもらおう。


「そ、そう言えば、研修生選定の面接の日ですけど、あの日貴方とはお会いしてませんよね。違う日にちだったのですか?」


 会話の糸口が欲しくて以前の疑問を投げてみた。


「本当は、メイヤー伯爵令息ラドクリフ殿が内定していたんだ。私が行くのは来期で話が付いていた」

「それはどういう……?」

「……私の家が元々ブランデンブルグ皇国から来たことは知っているか?」

「勿論存じ上げています。確か四代前のご当主様が我が国の内戦平定に力を貸して下さったとか」

「ああ、当時の国王と我が先祖の仲が良く、シュバルツバルト家の次男が出張ってそのまま侯爵位を賜りこちらに根付いた」


 それがどういう? 私は首を傾げる。


「だから我が本家は皇国内にあるんだが、そちらでちょっと問題が起こってね。私の両親が当代当主のサポートをしに今皇国に行っているんだ。これから嫡男の私自身も何度か呼ばれることになるだろう、行ったり来たりするのも面倒だ、だったらと行く予定になっていた研修自体を前倒しした。ラドクリフ殿には申し訳ないが、必ず来期にということで話を付けた格好だ」


 成程。面接の日に会わなかったのはそういうこと。


「ならば緊急性の低い私を来年に回しても良かったのでは」

「それはないな。満場一致で君が一番だった。それに緊急性が低いとは? 論文には早急にお願いしたいとあったぞ」


 論文を読まれていたらしい。確かに今期選ばれなかったら自費でとも考えていた。文化財修復に長けた東方の国の政情が不安定になっている。今なら皇国には東方随一の修復士に教わった教授がいる。是非とも繋がりを作っておきたかったのだ。


 戦後処理が終わり、いち早く文明国だと認められたい国の事情とも合致したともいえる。政治上の思惑は脇に置いて、文化財保護を掲げた私を選定してもらえたのはとても嬉しいことだった。

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