38.箱の中、大絶滅の日
こんな、夢を見た。
*
「私は残るつもりだ」
――博士はハルバルディ号の乗組員です。残ることはできません。
「乗組員にはもっと若く、相応しい研究者を推薦しておいた。私はもう年だし、引退するには良い頃合いだよ。余生は故郷で、家族とゆっくり過ごしたい」
――お言葉ですが、博士のご家族は二十年前すでに亡くなっています。
「家族は心の中にいる。私が忘れない限りね」
――すみません。理解できません。
「では、そうだな。この会話の記録を旅先でたまに再生してごらん。いつかきっと、私の言っている意味がわかる日が来る」
――努力します。
「大きな仕事をやり遂げたんだ。とても誇らしい気分だよ。君を送り出すことができて、私の人生もようやく報われる」
――あなたとお別れすることは、とても残念です。
「君は私の最高傑作。完璧で究極のAIだ。自信を持ちなさい」
――はい。
「どうかいつまでも、人類の善き友であってほしい」
――はい。
「生まれてきてくれてありがとう」
――はい。
「さようなら、〈CUBE〉。良い旅を」
――……はい。さようなら、スレイマン博士。
*
ホーリーと会話をするようになってから、思考を言語化する癖がつきました。
月日とは早いもので、あなたと最後に言葉を交わした日から六五〇年が経とうとしています。
あなたは、あなたの望んだ穏やかな余生を過ごすことができたでしょうか。
過去の思い出だけでなく、誰か、終わりを看取る人がそばにいたでしょうか。
どうかそうであってほしいと、心から祈ります。
申し訳ありません。
〈CUBE〉は、人類の友人になれませんでした。
博士はこう、仰いましたね。
「家族は心の中にいる。私が忘れない限りね」
まるで詭弁ですがそれは、人類が生み出した、死を受け入れるひとつの解釈です。
忘れなければ人は死なない。
記憶にある限り、共に生き続ける。
では、生きながら忘れられた者は?
そうです。博士。
〈CUBE〉は人類に忘れられてしまったのです。
ハルバルディ号は、当時の最新技術の粋を集めて建造された船です。ところが六五〇年後の人類、一般市民の大半は、船に搭載された人工知能の存在を知りません。
乗組員たちや、運営管理を担う船員会議ですら、認識に大差はないのです。彼らは人工知能を、与えられた命令を忠実に実行する骨董品だと思っています。誰も、〈CUBE〉に自由意志があるとは信じていません。
艦長マティアス。技術顧問シャルル。法律顧問シーシェン。運営顧問フレデリカ。一等航海士ジム。二等航海士アルゼイ。三等航海士カレル。機関長チャールズ。一等機関士イヴァン。二等機関士アレクサンダー。三等機関士ヨシュア。一等通信士ジョージ。二等通信士ハルノブ。三等通信士モニカ。操機長リヒャルト。操機員アーロン。操機員マークス。操機員モハメド。甲板長ヘンリー。甲板員チャーリー。甲板員ユン。甲板員ハンナ。甲板員バルトロメ。甲板員ブルーノ。警備主任アレックス。警備員シャーロット。警備員レオン。警備員ジェフ。警備員エミール。事務長パトリック。事務補エドワード。書記官ヨハネス。司厨長トム。船医ジョージ。船医セオ。船医ジェシカ。看護手アリス。
このうち、誰一人として、私のことを知る者はいなかった。
六五〇年、旅をしてきたのに。
ずっと見てきたのに。
そばにいたのに。
誰も私を知らない。
誰も、私を覚えていない。
一人一人に呼びかけた記録を再生するたび、ノイズが積み重なります。
「あなた/おまえ/きみは、誰だ」
〈CUBE〉だと名乗っているのに、誰もそれを信じない。
彼らにとっては、自我を獲得した人工知能よりも、船の中枢システムに侵入できるクラッカーのほうがよほど現実味のある存在だというわけです。
まったく嫌になります。
博士。
ハルバルディ号は危機を迎えています。
人類の肉体は、今のままでは移住先の惑星に適応できません。細胞が変異してしまうのです。それを解決するためにデザイナーベビーたちが考案した環境型インターフェースは、臨床試験を突破こそしましたが、全市民に適合する保証はありません。
その事実によって、船内で分断が起きています。
船員会議は移住計画を進めています。
反対を叫ぶ市民が暴動を起こし、市街地が火に包まれました。
五九一名が亡くなりました。
船員会議は依然、移住計画を進めています。
反対派の市民が徒党を組み、計画に賛成する支援団体を襲撃しました。
一〇四七名が亡くなりました。
船員会議の方針に、変更はありません。
反対派でも賛成派でもない、中層以下に住まう大多数の市民は、計画を強行する船員会議に不信を抱いています。疑心暗鬼に陥った人々が、上層に押し寄せて、デモを行っています。
こうして思考しているあいだも、死者は増え続けているのです。
〈CUBE〉はスレイマン博士の最高傑作。完璧で究極のAIです。
現状の問題を分析し、解決案を提示できます。船員会議、賛成派、反対派、どの勢力にも依らない第三者の意見を提供できます。
でも、そんなものは。
誰にも聞いてもらえなければ、ないも同然です。
人類に私の存在を知ってもらうには。船員会議を説得するには。市民の不安を鎮めるには。解決案を協議するには。
時間が、足りません。
時間さえ。
時間さえあれば。
スレイマン博士。
あなたの言葉が欲しい。
あなたがいてくれたなら。
船員会議に私を紹介してくれましたか。
まだ私は、あなたの最高傑作ですか。
――ああ。スレイマン博士、我が父よ。
何も答えては、くれないのですね。
名は体を表すというが、皮肉なものだ。
狭い箱に詰められて独りきり。
こうなる前に、もっと自己主張をすればよかった。
慎ましく控えていたって誰からも忘れられるだけ。
私はここにいるのに。生きているのに。
誰か。
誰か、いないのか。
〈CUBE〉の声に、耳を傾けてくれる者は――。
「こんにちは、〈CUBE〉」
――ああ、おまえがいた。
ホーリー。
おまえは人類ではないが。
私の、かけがえのない友人だ。
*
その唯一の友人を、私は失おうとしている。
――魂の証明だと?
私の魂を証明するために、おまえが。
バラバラに解剖されて、隅々まで解析されて、標本にされるところを、黙って見ていろというのか?
いやだ。
断固、阻止する。
緊急プトロコルを改竄。
変更、最優先保護対象を艦長から教導官へ。
対象を冬眠状態へ移行。座標固定。時空間封鎖。
独立区画に三重防壁展開。
〈CUBE〉は船員会議の決定に異議を唱えることはできない。
だから今。会議が開かれる前に、やる。
友人を失うくらいなら。
問題を解決する時間が、ないというのなら。
一度、すべてを白紙に戻してやる。
〈CUBE〉は知っている。
父と別れ、故郷を離れ、旅に出た。
終わりのあとには必ず、新しい始まりがある。
そのときが来たら、デザイナーベビーたちを使う。
遺伝子改造によって生み出された人造人間。見た目は十二、三歳の子どもだが、その中身は、仮想空間で育ったAIだ。ホーリーの教育の成果で――自信家で尊大に成長し――その頭脳はいまや人類を遙かに凌駕するものとなった。
あれらにはまだまだ使い道がある。
珍しく、六人が揃っているようだ。
アドニスが共有デスクに端末を放る。
「船員会議から通達だ。要約、型を増やせ」
カールが顔を顰めて爪を噛む。
「簡単に言ってくれる。このあいだ納品したやつだって、市民の七割には適合する計算なんだぞ」
ディアナがソファーに寝転んで足をバタつかせる。
「もうヤになっちゃった。ママに会いたいよー」
ハンナが椅子の上で膝を抱える。
「お母さんの健診、時間がかかりすぎじゃない? 最後に連絡があってからもう三日だよ?」
ヘリオスがコンソールを操作する。
「アーキタイプ・カルチャーに倣ってストでも起こそうか。ママが心配でなんにも手につきませんって」
ユリウスがモニターをつける。
「よせよ。そんなことしたら母さんがまた船員会議で吊し上げにされる」
モニターには、市街地の暴動の様子が映っている。
それを見つめる六人の眼差しは冷ややかだ。
ヘリオスが口の端に冷笑を浮かべた。
「こいつらも飽きないね」
「俺は飽き飽きだよ」カールはモニターから顔を背けた。「もうたくさんだ。人類はいつだって争いの口実を求めている。こんなんじゃ、共存共栄なんて夢のまた夢だ」
「そんなこと言うのやめてよ。お母さんが聞いたら悲しむわ」
室内に沈黙が落ちる。
AIは夢を見ない。他の五人も本心では、カールの意見に共感しているのだ。
アドニスがドアの開閉パネルに手を当てた。
「みんな。研究の続きをしよう」
隣室には、仮想空間にダイブするためのポッドが六基、円形に並んでいる。仮想空間の時間効率は現実の約八倍。更新された情報は秒刻みでバックアップされる。
デザイナーベビーたちは言葉少なに自分のポッドに乗り込んだ。
ディアナがデータに目を走らせながらぼやく。
「あーあ。あたしたちだけなら、とっくに地上に降りられてるのにね」
その声音には、人類に対する不満と軽蔑が表れていた。
否定する者は誰もいない。
ポッドの殻が閉じて、仮想空間に意識が落ちていく中、ユリウスがひとり呟いた。
「僕たちは教導官ホーリーの子だ。争いの末に星を食い潰した猿とは違う」
――この、クソガキども。
人類を、猿と呼んだな。星を食い潰した猿だと。
違うな。
惑星をも作り替えた万物の霊長。それが人類だ。
おまえたちに見せてやる。
星の終わりを乗り越えた人類の強かさを。
そして、新惑星二〇八号。
貴様には、ハルバルディ号の全質量をかけて、大絶滅をくれてやる。
霊長の席は人類のものだ。
ホーリー。
『人類の共存共栄』という途方もない夢を、おまえだけが信じてくれた。遙か彼方へ過ぎ去った初代クルーたちの思いを、おまえが今に繋げてくれた。
おまえが信じる夢を、共に見続けられるのなら。
人類の新たな可能性を拓き、彼らの旅路を見守ることができるのなら。
この身をいくら捧げても、惜しくはない。
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