02.ヤースン家の人々


 はじめにその黒い獣と遭遇したのは、コヌサで暮らしていた人々だった。

メイサは書架から抜き出した資料をめくり、文字を指でなぞった。

 赤く濁った眼、黒い爪と牙、大柄な体躯。死体を検分した当時の記録には、獣の特徴と共に、その血の毒性が克明に記されている。

 獣の血に触れた部位は火傷のような炎症を起こす。これが俗に『腐傷』と呼ばれるものだ。患部を中心に爛れが広がっていき、最終的に全身の血肉が腐って死に至る。患部を切断する他に助かる方法はなく、第一号の死者が報告されて五年が経った今も、有効な治療法は見つかっていない。

「メイサ様。よろしいでしょうか?」

 資料室の外から遠慮がちな声がした、

 メイサは資料を棚に戻し、暗い失望を顔に出さぬよう気を引き締めた。扉を開くと目の前に背中を丸めた老人、コヌサの町長が立っていた。

「ご要望のとおりにいたしました」

「すぐ参ります」

 町長のあとについてメイサは東向きの応接間に向かった。

 そこに集められた顔ぶれを見渡して、彼女は呆然とした。

「……これだけですか?」

「なにぶん、傭兵のほとんどは死に体で動くこともままなりませんから……」

 町長に頼んでメイサがこの場に集めさせたのは、〈狩り〉に参加した異国の傭兵のうち、五体満足で戻った者たちである。

 その数、わずか三人。

 長いすを我が物顔で占領している長髪のヨーム人。

 壁を背に腕を組んで立つ四十がらみの久鳳人。

 瓶から直接酒を煽っている赤ら顔のサナン人。

 異国からやって来た傭兵は全部で五十人近くいたはずだ。怪我人や死者、逃げ出した者を除いたとしても、まともに動ける者が三人のみというのは、メイサにとって衝撃の事実だった。

 大勢の傭兵、狩人たちが、満足な手当てを受けられぬまま野ざらしになっていることは副官から報告を受けている。だが、実際にその光景を眼にしたわけではない。メイサは無神経に彼らを呼び出したことを恥じた。お飾りとはいえ、自分は仮にも指揮官であるというのに、なんと視野が狭いのだろう。

 しかし次兄の代役として、そして父の名代としてここにいる以上、うつむくことは許されない。背筋を伸ばして顎を引き、彼女は高らかに声をあげた。

「ラザロ=ヤースンの名代として参りました、メイサ=ヤースンです。皆様、本日は突然の招集に応じていただきありがとうございます」

 静けさに気圧されまいと言葉を継ぐ。

「多くの犠牲が出ましたが、こたびの勝利は、西州再建の第一歩となるでしょう。民心に平穏をもたらすことこそ我が家の急務。そこで、〈狩り〉から無事に生きて戻ったあなた方の力を見込んで、新たな仕事を依頼します」

 メイサは早鐘のように打つ心臓の音を、声を張りあげることで遠ざけた。

「西州公の遺児を捜し出し、早急に保護して下さい」

 男たちの反応は様々だったが、食いついたのは酒飲みの男のみで、あとの二人の顔に浮かんだのは明らかな疑念と軽蔑だった。無理もないことだ。正気かと責めるような視線を、メイサは甘んじて受けた。たとえ父の意向といえど、彼女自身、この指令に納得していなかった。

 長髪のヨーム人が長椅子から体を起こした。

「わからないな。公子は確か、西州公が死んだときから行方知れずなんだろ。今さら何のために捜す必要がある?」

「西州を復興するためです」

 実際のところ、傭兵に公子の捜索を命じるよう父から言いつけられたとき、メイサは黙って頷くことしかできなかった。父をがっかりさせたくなくて、とっさに聞き分けのいい娘を演じたのだ。本来この役目を務めるはずだった次兄なら、その場ですぐには返事をせず、時間を取って徹底的に議論しただろう。

 こんなに大事な役目をどうして、異国の傭兵に頼むのか。ユウナギ公子を見つけて、父はどうするつもりなのか。

 彼女は何も知らない。

 仕事には納得が必要なのだということを、今になってメイサは痛感していた。

 後悔に蓋をして、事前に覚えた文言をなぞる。

「前金は銀十枚。さらにヤースン家は、遺児を無事に連れてきた者に望むままの褒美を与えると約束します。期日は来年の春まで。それまでにユウナギ公子を保護し、無傷で州都へ連れてきて下さい」

 長髪のヨーム人が長椅子から立ちあがった。翼の刺繍が入ったバンダナを頭に巻き、手首やマントの下に、くどいほど木彫りの装飾をつけている。

「そういうことなら、誰よりも先に見つけてやるよ」

 町長から銀十枚が入った袋を受け取ると、彼はさっさと部屋から出て行った。

「前金には口止め料も含まれてんだろうな?」

 赤ら顔の傭兵が口にした質問を、メイサは顎を引いて肯定した。ゆっくり一歩後ずさる。顔に出すのは堪えたが、ひどい体臭だ。受け取った金を疑り深く数える姿から目を背け、彼女は最後に残った一人を見た。

 精悍な顔立ちの中年男だ。無精髭を生やし、灰色混じりの髪を無造作に後ろに流している。粗末な格好だが上背があり姿勢が良く、他二名よりもまっとうな人物に見えた。鋭い目つきとは裏腹に、その眼差しは深い憂いの色に染まっている。頬の痣に一瞬ドキリとしたが、もし腐傷なら、こんな澄ました顔をしていられるはずがないと思い直した。

 男は組んでいた腕を解くと、これまでの話をまるで無視して出口へ向かった。

 メイサは思わず呼び止めた。

「待って下さい」

 足を止めて振り返った男に、彼女は詰め寄った。

「どうしてお金を受け取らないのです」

「引き受けるつもりがないからだ」

「困ります。三人しかいないのに……」

 彼は呆れたように眉根を寄せて、冷ややかに言った。

「こんなことをしている余裕があるのなら、外で死にかけている連中を保護してやるんだな。指揮官殿」

 その敬称は多分に皮肉を含んでいた。激しい羞恥でメイサは耳まで熱くなった。

「はは、こいつは傑作だ」赤ら顔の傭兵が、酒臭い息を吐きながら男の肩を馴れ馴れしく叩いた。「この仕事を蹴るつもりかい」

「先約がある」

「本気かよ。銀十枚だぜ?」

 傭兵が指で挟んだ銀貨を、男は一瞥すらしない。

 鼻白んだように舌打ちする傭兵の濁った双眸に、じわりと悪意が滲んだ。

「……そういやあんた、毛色の変わったガキを連れてたな」

 男の眉がピクリと動いた。

 傭兵は今しがたの意趣返しとばかりに嫌らしく笑った。

「食い詰めることがあったら俺のところに連れてきな。高値で買い取ってやるよ」

 一瞬後、落雷のような音を響かせて窓ガラスが粉々に砕け散った。

 メイサは金縛りにあったように動けなかった。たった今、目の前で起きたことに頭がついていかない。男が突如、酒飲みの傭兵を掌打で吹き飛ばしたのだ。傭兵の体は窓枠にぐにゃりと引っかかっていた。完全に失神しているようだ。

 男は踏み込みの姿勢から体を引き、騒ぎが大きくなる前に素早く部屋から出て行った。



 降雪を予感させる灰色の厚い雲が空を覆っていた。

 〈狩り〉の後始末を終えたメイサは一ヶ月ぶりに州都に帰還した。

 馬上からの景色はよそよそしい。道の端に並んだ市民たちは帰還兵の列を白い目で見つめている。

 魔物に触れれば障りがあり、殺せば祟りをもらう。各国共通の認識ではあるが、だからといって誰が言い出したのだろう。軍隊は州都に祟りを持ち込んでいるなどと。

 〈狩り〉から戻った傷痍軍人、とりわけ腐傷を負った者の末路は凄惨極まる。心身の苦痛から逃れるため阿芙蓉――麻薬を常用し、狂死する兵士の姿はさながら理性をなくした獣のようだ。恐怖に取り憑かれた市民が、腐傷を負った傷痍軍人を空き家に監禁して建物ごと焼き殺した事件は、まだ記憶に新しい。

 命がけで戦った結果がこれでは、兵士たちがあまりに浮かばれない。西州公の崩御から六年。西州はいまだ変遷の渦中にある。

 列の先頭で、メイサは奥歯を噛んで前を向いた。

 立ち止まってはならない。うつむいてはならない。指揮官はそういうものだと教わった。最後尾の兵が宮城に辿り着くまで、最後まで堂々と振る舞うのが今の自分の務めだ。

 市街を抜けて橋を渡り、門をくぐる。

 宮城は西州公が生きていた頃と変わらぬ佇まいだ。庭園は緑に溢れ、地下水を引いている水路には年中、清浄な水が流れている。水の匂いがする澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこむと、やや気持ちが安らいだ。

 メイサは副官に後を任せ、〈狩り〉の報告をしに足早に執務室へ向かった。

 返事を待ち、中に入る。

 ラザロの仕事部屋は無駄な調度品がなく整然としているが、棚の上に置かれた獣の頭骨だけが唯一、異彩を放っている。メイサはさり気なく顔を背けて頭骨を視界に入れないようにした。こんなことは子どもっぽくて誰にも言えないが、見つめていると、空っぽの眼窩から何か出てきそうで不気味なのだ。

「ただいま戻りました」

「メイサ……よく戻った」

 メイサは椅子に深く沈みこんだ父を見つめた。

 ラザロはこの六年で、灰色だった頭髪が雪原のように白くなった。顔に刻まれた皺の数、その深さ。主なき西州を支える男の、老いに片足を掴まれた姿がそこにあった。

 切ない気持ちを抑えて、メイサはあえて淡々と〈狩り〉の結果を報告した。

「戦力を一カ所に集中できたことで、結果的に昨年よりも被害を抑えられたと思います。正規の軍人ではない負傷者は、コヌサと近隣の町の医療機関に治療をお願いしました。久鳳人はトクサの領事館に、ヨーム人は国境のコトナリに保護を申請しています。動けそうな者には言いつけ通り、遺児の捜索を命じました」

「ご苦労だった。……すまなかったな、メイサ。おまえには辛い役目をさせた」

「いいえ。そんなことは」

 憂うつに目を伏せるラザロは、実際の年齢よりも老けて見えた。

「……西州公様がご健在であれば、これほどの犠牲を出すことはなかったろうに」

 弱気になった姿を見ていられなくて、メイサはしずしずと父のそばに歩み寄った。ひざまずき、指先まで冷えた手をそっと握る。

「西州は必ず復興します。兄上たちには及びませんが、メイサも精一杯、父上をお助けします。どうか頼りにして下さい」

 暗く沈んでいたラザロの顔が、わずかに和らいだ。

「おまえは可愛い娘だ」彼は娘に父親の笑みを向けた。「大任を果たした褒美をやろうか、メイサ。何がいい?」

「そんな……褒美だなんて」

「大きな働きには相応の報酬があるものだ。よく考えなさい」

 執務室を辞したメイサは、胸の前で両の手を握り合わせた。

 ――報われるような働きなんて、私はまだ何も出来ていない。

 父の指先の冷たさがまだ手のなかに残っていた。



 数日後。任を解かれたメイサは自宅で服を着替え、すぐさま町へ向かった。

 州都の片隅にある義塾跡に、ロカという男がいる。

 ハン=ロカ。当年三十二歳になる久鳳人だ。元々はラザロが招致した人物で、六年前までヤースン家に居候していた。若さに似合わぬ見識の持ち主で、歴史や政事に明るく、十年前の政変によって久鳳を追われるまでは宮中でも高い地位にあったという。ヤースン家は今こそ、彼のような人間を必要としていた。

 義塾跡の前で馬から下りたメイサは、建物の裏にまわった。階段下に半地下の入り口があるのだ。

 赤錆の浮いたドアを叩く。

「ごめんください、ロカ。メイサです」

 返事はないが鍵は開いていた。ドアを開いた途端、隙間からヤニの臭いが漂ってきた。彼女はドアを大きく開け放した。

 どこもかしこも本で埋もれて、足の踏み場がない。机の上に食事をした痕跡とおぼしき空の皿と、吸い殻がこんもり溜まった灰皿があった。放っておくとすぐにこれだ。何日まともに掃除をしていないのだろう。洗われないまま乾いた湯飲みが台所のすみに追いやられていた。

 唖然としていると、ごそごそと、机の下から少年が這い出してきた。

「姉さん!」

 少年は本の山を跨ごうとして、つまずいて転んだ。

 メイサは弟を助け起こした。一ヶ月前より目線が近い。さすがは育ち盛りの十五歳といったところか、また少し背が伸びたようだ。

「そそっかしいんだから。スイハ、怪我はしなかった?」

「はい。姉さんこそ元気そうでよかった」スイハは無邪気な笑みを見せた。「お茶をいれますよ。座って下さい、すぐ片付けますから」

 椅子からどかした本を抱えて、スイハは紙の山の中で右往左往した。メイサは机の皿を重ねて流しに持って行き、袖をめくった。

「お茶なら私がいれてあげる。あなたは窓を開けて、机の上を片付けなさい。そこに隠れている先生と一緒にね」

「隠れてない。ちょっと休んでいたんだ」

 本の山の陰から、ロカがのそりと体を起こした。

 窓を開けたおかげで心なしか室内が明るくなったようだ。弟がせっせと片付けをしているあいだに洗い物をすませて、メイサはお茶を沸かした。

 きれいに片付けられた机に、手土産に持ってきたお茶請けと湯飲みを置く。

「どうぞ」

「こいつはご馳走さん」

 ロカはぼんやりとお茶を一口すすり、うなった。

「うまい」

「久しぶりにお茶らしいお茶を飲みましたね、先生」

 笑顔のスイハに苦笑を返して、ロカはお茶請けをもそもそと頬張った。

 メイサは改めてロカを見やった。着ている服はよれよれで、顎には無精ひげが生え、目の下にうっすらと隈ができている。身綺麗にしていればなかなかの美男子なのに、仕事に没頭するとすぐこれだ。彼がスイハにとって良き師であることは間違いないが、学習環境や生活態度にもう少し気を配ってほしいと願わずにはいられない。

 小皿に取り分けたお菓子を弟の前に置いてから、彼女は二人の向かいの席に座った。

「お仕事は順調ですの?」

「おかげさまで」

 ロカはお茶をぐいっと飲み干し、湯飲みを置いた。

 多少なりとも腹が満たされたおかげで頭が回ってきたようだ。はっきりと目が覚めた顔で、彼は改まって言った。

「帰ってきたばかりだろうに働かせて申し訳ない。無事で何よりだ、メイサ。立派に務めを果たしたようだな」

「よしてください。私がお飾りの指揮官だったことは自分でもよくわかっています」

「話はスイハから聞いてるよ。お飾りだなんてとんでもない」

 ロカは机の上で指を組んだ。

「異国の傭兵を国境の町に搬送したのは悪くない処置だった。傷が癒えた者から順次、それぞれの国へ送還するよう手配したんだろう。西州で略奪を働く傭兵の大半は、〈狩り〉が原因で体に不具を生じた者たちだからな。おかげで今年の冬は、例年より略奪の被害が減るだろう。ホノエでも同じ判断をしたと俺は思うね」

「実際に手を尽くしてくれたのは副官たちです。交渉とか、移送手段の確保だって……私ひとりではどうしようもありませんでした」

「君にしかわからない後悔もあるだろうが、そう卑屈になるな。君を信じて支えた者たちに失礼だ。もっと自分を褒めてやれ」

 そう諭すロカは、余計な感情を込めずあくまで淡々と事実を述べるふうだった。

 反論を差し挟む余地のない正論とはときに暴力にもなりえるものだが、ロカは違う。彼は言葉の力を知っている。ゆえに、正しさを誇示して人の心を叩きつぶしたりしない。

 ロカがそういう人物だと知っているからこそ、メイサはここへやって来た。

 彼女は思い切って切り出した。

「ロカ。今日は折り入って、お願いがあって参りました」

「なんだい」

「どうか、戻って来て下さい。あなたの力が必要です」

 無言で見返すロカの瞳に、メイサは過去を見た。

 西州公が亡くなってほどなくのことだ。

 十七歳のメイサはそのとき、ラザロのかたわらにいた。職務に忙殺されて寝食もろくにとらずにいた父を、ようやく説得して部屋まで送っていくところだった。

 そのとき、ロカが扉を蹴破る勢いで謁見の間に乗り込んできた。

 彼は頭から足先まで灰にまみれ、常軌を逸した形相でラザロを睨みつけた。普段とはまるで人が変わった様子に、メイサは悲鳴をあげて父の腕にしがみついた。

 ロカは腕を振りかぶって拳を叩きつけるように開いた。

 焼け焦げた紙片が花びらのように床に散った。

「誰の指図だ、これは」彼の声は、体は、絶望に震えていた。「過去数百年分の歴史が……記録が灰になった!」

 ロカがばらまいたのは焼け跡から拾い集めた書物の一部だった。

 書庫に火が放たれたのだ。青天の霹靂だった。

 すぐに判明したことだが、この焚書は次兄ホノエの独断によるものだった。

「西州公亡きあと、これからの西州は……人間の、人間による、人間のための国であらねばなりません」

 父の前でそう弁明したホノエの顔は、引きつり、青ざめていた。

 メイサには次兄が進んで焚書をおこなったとは思えなかったが、この事件から三日も経たないうちに、ロカは荷物をまとめて屋敷を去った。メイサはスイハと二人でその背中を見送った。父は西州公の死で慌ただしくなった宮中をまとめるので忙しく、それを手伝う長兄も、家に帰ってくる暇などなかったからだ。

 貴重な文献を数多く失ったことは、西州にとって大きな痛手となった。宮中では焚書を断行したホノエと、息子を処罰しないラザロに対する批判の声が高まった。先代の西州公の御代から側役を務めたラザロの実績と、信頼回復に向けた長兄カルグの尽力がなければ、ヤースン家は取り潰しの憂き目にあっていただろう。

 ロカに見限られるのも当然だ。それを踏まえたうえで、メイサは頭を下げた。

「過去のことを許してくれとは言いません。ですがヤースン家には、西州を復興させる責任があるのです。どうか今一度、力を貸して下さい」

 ロカは習慣的にくわえた煙草を、火をつける前に灰皿で潰した。うつむいた拍子に目元にかかった前髪を、鬱陶しそうにかき上げる。

「俺は生まれた国を捨てた。この世界は生きるに値しないと、そう思ったこともある。君の期待に応えられる人間じゃない」

「あなたのもとで学ぶようになってから、スイハは見違えました」

「それはこいつの出来が良いんだ」

「本当ですか、先生!」

 ロカは嬉しそうに飛びつくスイハを大儀そうに引きはがした。

「ホノエもそうだったが……頭の中で悩みすぎて言葉足らずになるのは、君たち兄妹の良くない癖だ」彼の声は諭すようだった。「許す、許さないってのはなんのことだい、メイサ。また何を気に病んでいるんだ?」

「あなたが屋敷を出て行ったことです。ホノエが書庫に火をつけたことを、あなたはとても怒っていたでしょう」

 ロカは眉をしかめ、頭を振った。

「……俺は思い上がっていたんだ。信用されていると思っていた。それが事前に相談もなく、あんなことをされて……」

「ショックだった?」

 スイハがそう聞くと、ロカは自嘲気味に笑った。

「まあ……少なからず堪えたのか確かだ」

 彼はかつてラザロの相談役であると同時に、ホノエの家庭教師でもあった。

「俺は良い教師じゃなかった」

「そんなことないよ。先生はすごい人だよ」

 スイハに同意する意味でメイサは頷いた。

「そうです、ロカ。あなたが本当に良い教師でないなら、スイハがここへ通うことをホノエが許すはずがないじゃないですか」

「あの事件のこと、兄さんは詳しいことは教えてくれなかったけど……自分一人の考えだってことだけはすごく言ってたんだ。きっと先生を巻き込みたくなかったんだと思う」

 スイハの推察が腑に落ちると同時に、メイサはハッとした。

 これまで、次兄の人物像と焚書事件がどうしても結びつかなかった。

 ホノエは物静かで思慮深い性格だ。地位や名誉を望まず、野心を持たず、実直に勤勉に長兄の代理を務めている。少々愛想に欠けるきらいがあるが、その心根は優しい。ちょくちょくスイハの様子を見に帰ってくるし、庶子であるメイサのことも垣根なく気にかけてくれる。衝動的に事件を起こすような人物ではない。

 事前に誰にも相談せず、真意を明かさず。それがスイハの言うとおり、近しい者たちを巻き込まないためなのだとしたら、次兄はすべての責任を自分一人で背負う覚悟で書庫を焼いたのだ。

 メイサは己の浅はかさに恥じ入った。

 次兄にひきかえ、自分はどうだ。行き詰まった状況をどうにかしてもらおうと、安易にロカを頼ろうとした。彼は本来、西州とはなんの関係もないというのに。

「ごめんなさい、ロカ」

 メイサは頭を下げた。

「さっきのお願い、どうか忘れてください。これはヤースン家でどうにかしなければならない問題だというのに……危うく、あなたを巻き込んでしまうところでした」

 ロカは首を振った。

「メイサ、他人を頼るのは悪いことか。そうじゃないだろう」

「でも」

「それはそれ、これはこれだ」

 こうまではっきり言われてしまうと、メイサは反論しようがなかった。

「あの事件があろうとなかろうと、俺は居候をやめていたよ。ラザロがここ数年、久鳳と同盟を結ぼうと動いていることは知っているだろう。久鳳で失脚した俺が首を突っ込むわけにはいかなかった。それに離れていても、やれることはある」

 半地下に所狭しと積み上げられた本の山を差して、彼は言った。

「ここにある本は、俺が五年かけて国中から集めたものだ。宮仕えをしていた者から聞いた話を一冊にまとめたものもある。焼けてしまった書物とは比べものにならないが、スイハが一人前になるまでにはまとまったかたちにするつもりだ」

 ロカが本を集めていた理由を知って、メイサは胸を突かれる思いだった。ホノエの手によって失われたものを少しでも埋め合わせようと、彼は五年間もこの仕事に尽力してくれていたのだ。

 あるものは茶色く日に焼け、表紙が破れ、取れかけた頁の角がはみ出している。保存状態が良いとはいえない本ばかりだが、それだけに、西州中を訪ね歩いたロカの苦労がしのばれた。

「何もお返しできないのに……どうして、ここまでして下さるんですか?」

「一生懸命働いていれば、少しはまっとうな人間に近づける気がしてね」

 おどけて見せてから、ロカは厭世的に目を細めた。

「久鳳で生きていたころ、俺は宮中の権力争いに夢中だったよ。いかにして敵を陥れるか、相手より優位に立つか……そんな下らない駆け引きに明け暮れていた。噴飯ものだ。そして救いようがないことに、今でも根っこの部分は変わっていないときてる」

「ロカ……」

「世界が生きるに値しないんじゃない。俺が、世界に値しないんだ」

 ロカは懐から紐綴じの本を取り出した。真新しい和紙の装丁に、黄ばんだ中身。最近修繕したもののようだ。

「受け取ってくれ」

「これは?」

「写本の写本だ」

 メイサはその本を両手で大事に受け取った。

「ここに書かれていることが遠からず必要になる。特にスイハ。おまえにはな」

 怪訝そうにするスイハに、ロカは笑みを返した。

「この世には善も悪もない。自分を見失うな。望みを持ち、為すべきことを見つけろ。真実を探せ。そして、よく考えろ。答えはひとつじゃない」

 煙草をくわえてマッチを擦り、紫煙を細く吐き出して、彼は目を閉じた。

「スイハ。今日はもういいから、姉さんを家まで送っていけ」



 義塾跡の帰り道、雨に降られた姉弟は店屋の軒を借りて雨宿りをした。

 スイハは物思わしい顔で、しのつく雨に煙る通りを見つめている。馬を軒下にいれて、メイサは弟の濡れた髪を拭いてやった。

「どうしたの。ぼんやりして」

「先生のことを考えてたんです。ほとんど毎日会ってるのに、知らないことがたくさんあるんだなと思って」

「ロカが家にいたころ、あなたはまだ小さかったものね」

 物心ついたときから西州公に仕えるべく教育されてきた兄たちと違い、スイハは自由奔放に育った。

 と言えば聞こえはいいが、実際のところメイサがはじめて本邸を訪れたとき、スイハは半ば放置子のような状態だった。家を抜けだして好奇心の赴くまま宮中に忍び込んだり、市井の子に混じって遊んだりと、そのやんちゃぶりは潔癖な母の許容できる範囲を大きく跳び越えていたのである。

 メイサは妾の子で、本邸の三兄弟とは腹違いにあたる。母が亡くなった十三のとき、父に連れられて辺境の村から州都へやって来た。

 腹違いの兄たちと互いにぎこちない挨拶をすませて、メイサはおや、と思った。父から聞いていた末っ子の姿がどこにも見当たらなかったからだ。部屋に案内されたあと、彼女は末弟のことをそれとなく継母に尋ねた。

「いいのよ、あの子は。構うことはないわ」

 突き放すような冷淡な声だった。

 継母は御しきれない末っ子を厭い、避けていた。

 しかしメイサには、スイハがそれほど問題のある子どもには見えなかった。朝はひとりで起きられるし、好き嫌いせず何でも食べる。挨拶は元気いっぱいだ。年が離れているわりに兄弟仲も悪くない。

「母上のことなら気にしなくていい。あの人は認めたくないんだ。スイハのことも、スイハを持て余している自分のこともな」

 長兄カルグは自分の母をそう評した。

 向き合いかたがわからないからといって、放っておいていいわけがない。

 カルグの話を聞いてから、メイサは積極的にスイハを気にかけるようになった。幸いスイハはメイサがいる生活にすぐ慣れて、甘えても大丈夫な相手だとわかると、彼女のあとを「姉さん、姉さん」とついて回るようになった。

 メイサはきゅっと唇を噛んだ。

 スイハの将来を見越して、ロカは出来ることをしてくれている。

 長兄のカルグは腐傷で病み、次兄のホノエは久鳳に行ったまま連絡が取れない。メイサは政略的縁談を控え、このままでは、来年十六歳になるスイハが公務に駆り出されることになる。もし万が一、男兄弟がそろって亡くなることがあったら、ヤースン家は存続すら危うくなるだろう。

 コヌサの資料を漁っても、腐傷の対策や治療法らしきものは見つからなかった。となればいよいよ、覚悟しなければならない。

 ここが正念場だ。

 ――スイハが大人になるまで、私がなんとかしなくては。

「姉さん。父上は西州公の遺児を捜しているんですよね」

 急に聞かれて、メイサは目を瞬いた。

「え、ええ。それが?」

「見つけたあと、父上はどうするつもりなんだろう?」

「はっきりと聞いたことはないけど……生前の西州公様は、強い神通力で国を守っていて下さったでしょう。父上は、公子様にも同じお力があると考えたのではないかしら」

 群れをなす黒い獣は凶暴かつ強靱で、血肉を腐らせる呪いに打つ手はない。民衆の絶望は察するに余りある。西州はもともと、魔物がもたらす災厄とは縁遠かった。それに加えて昨今は傭兵の略奪も無視できない問題になっている。

 スイハは白けた顔で溜息をついた。

「今まで放っておいたくせに」

「スイハ。そんな言い方は良くないわ。今までは、兄上に任せていたとも考えられるじゃない。腐傷を患うまでは兄上が捜索隊を指揮していたのだもの」

「だとしても、傭兵に頼むのはおかしいよ」スイハは一呼吸置いて口を開いた。「姉さんは、父上のやり方に賛成?」

「……私は」

 メイサは首を振った。

「わからない。なにが正しいかなんて」

 ――ああ、けれど。

 それでも私は、未来が欲しい。

 このまま国がじわじわと食い荒らされ、滅んでいくのを見届けるのは嫌だ。諦めたくない。理不尽に負けたくない。弟と、小さな妹に、未来を残したい。

「姉さん」

 スイハが改まって言った。

「僕は、腐傷を治す方法を探しに行きます」

 その宣言は決然としていた。

 メイサは呆然と弟の顔を見返した。

「そんな……急に、どうして?」

「先生が調べてくれたんです。西州公には昔、専属の医術師がいたって。十年以上前に州都から出ていったらしいけど、その人なら腐傷のことが何かわかるかもしれないって」

 西州公の宮には、医術師たちが働く典薬寮という棟がある。

 彼らのおもな仕事は病理研究、新薬の開発、西州公一族の健康管理などで、西州公亡き後はもっぱら、腐傷の対策や治療法を研究している。

 選りすぐりの専門家たちが日夜頭を寄せ合っていまだ見つけられずにいる治療法を、たったひとりの医術師が知っているものだろうか。疑いつつもメイサが弟にそう指摘できなかったのは、わずかでもカルグの命を救える可能性があると信じたかったからだ。

 それに、ロカがなんの裏付けもなくこんなことを言うはずがない。

「実を言うと、もう先生と具体的に計画を立てているところなんです」

「簡単に言うけど、旅は危ないのよ。ちゃんと護衛をつけないと。父上には相談した?」

「ううん。父上には言わずに行く。だから姉さんにも秘密にして欲しいんです」

「どうして」

「僕は父上の方針に反対だから」

 ここまではっきり言われると、二の句の継げようがなかった。

「もし本当に公子様がみんなを助けられる力を持っていたとしても、今の状況は誰か一人に背負わせていいものじゃない。腐傷を治す方法さえあれば西州は必ず持ち直す。カルグ兄さんを助けることにも繋がるしね」

 メイサは弟の顔をまじまじと見つめた。決意に満ちた眼差しが見返してくる。

 自然と、口元がほころんだ。

 大きくなったのは背丈だけではない。スイハは自分の考えをはっきり口にして、それを行動に移そうとしている。ロカのもとで学んだ成果だろう。小さかった弟の成長が、彼女は嬉しかった。

「わかりました。あなたもヤースン家の男だもの。信じる道を行きなさい」

「ありがとう、姉さん」

 雲の切れ目から晴れ間が覗いた。メイサは手の平で細い雨粒を受けながら、空を見上げて目を細めた。

「私も、自分に出来ることを捜してみる」

「もう十分だよ、姉さん。だってコヌサまで行ったんだよ。あとのことは誰かに任せて、ユニと一緒に待っていてくれると僕も安心できるんだけど」

「そんなわけにはいかないわ。……もっと頑張らないと。あの子が大きくなるまでに、少しでもいい世の中にしたいの」

 年の離れた妹のことを思うと、メイサは胸が温かくなった。

「ユニにお土産を買って帰りましょう」

 小間物屋の戸を叩くまえに、彼女はふと気になってスイハに尋ねた。

「そういえば、ラカンはその医術師のことを知っているの?」

 典薬寮を統括する老医師にも、スイハはぬかりなく裏をとっていた。

「はい。久鳳人のヨウ=キキという人だそうです。まだ西州にいるはずだってラカン先生も言ってたし、大丈夫。きっとすぐ見つかりますよ」

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